宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

双魚宮時代の継承と訣別
―狭義の西洋占星術の終焉―

HOME宝瓶宮時代と占星学 > 双魚宮時代の継承と訣別

歴史には引き継ぐべきものと、捨て去るべきものがあります。
新しい宝瓶宮時代は、双魚宮時代の何を継承すべきなのでしょうか?
宝瓶宮時代のバックボーンとなる根本の運勢がそこに存在します。

特別編=イエスによる人類愛精神の継承と宗教への訣別


イエスの山上の垂訓


●第1稿 : 2009年06月21日アップ
●改訂稿 : 2022年03月21日アップ

宗教的なタイトルですが、別にどこかの宗教を否定したり、キリスト教をヒイキにしたり、特定の政党を支持するわけではありません。

宝瓶宮時代(ほうへいきゅう じだい)に継承すべき双魚宮時代(そうぎょきゅう じだい)の精神の一つを、ここではご紹介しておきたいと思います。

今後、約2,160年間(計算値)続く宝瓶宮時代は、「世界的な友愛社会の実現」に向かって進みます。

そこにおいて、双魚宮時代を継承すべきポイントがあるのです。

《 双魚宮時代は宗教による人類文化の時代 》

約2,000年ほど前(正確には紀元前171年)に双魚宮時代ははじまり、1989年の宝瓶宮時代のビッグバンによって幕を閉じました。

双魚宮時代の特徴は、主に宗教による人類文化の時代ということです。

このことは、現代西洋占星術における魚宮(双魚宮)の支配星が海王星というだけではなく、古代ギリシャに発祥したアストロロジー(通称:古典占星学)の魚宮の支配星が木星だったことからも分かります。

占星術に詳しい方ならご存じのとおり、木星は、“高等宗教”や“思想・哲学”といった高い精神性や“遠方”を象わします。

海王星は、“新興宗教”や現実離れした“夢”や“幻想”や“イマジネーション”を象わします。

紀元前500年ごろ、白羊宮時代(はくようきゅう じだい)の末期(白羊宮時代の25度〜)において双魚宮時代(木星)の影響が現われはじめると、古代ギリシャにおいて思想・哲学が次第に活発になり、発展してまいりました。

「人生とは何ぞや?」「人は何のために生きるのか?」「世界はなぜ存在するのか?」「世界は何によって存在しているのか?」といった世界と人生における根本命題を人々は問いはじめました。

このとき、カルデア人がもたらした古代オリエント占星術(天体観測≒アストロロジー)は、当時、最高の科学として最先端の地位を占めていました。

この天体観測が古代ギリシャの知性と結びつくことによって、アストロロジー(通称:古典占星学)は木星の象意にそって、多くの学問分野に広がって適応されるとともに、四角いホロスコープが築かれていったのです

One-Point ◆ アストロロジーまた占星術の変遷については、「宝瓶宮時代と占星学」や「宝瓶宮時代の根拠」などをご覧ください。また、近代になって土星外惑星(トランス・サタニアン:天王星、海王星、冥王星)が発見されてのち、19世紀末のオカルトブームによって、占いとしての現代占星術が海王星の象意を伴って誕生しました。現代では、魚宮の支配星は海王星です。


誤れりかな現代西洋占星術

●一般に誤まって“西洋占星術”といっても、双魚宮時代は、木星の象意に基づく古代ギリシャの「アストロロジー」(通称:古典占星学」と、海王星の象意に基づく「現代占星術」とに二分されます。

一般にいう「古典占星学」は学問であり、精神的ですが、現代占星術はオカルト的であり、占いに堕してしまいました。

最近では、科学的であることを模索して、さまざまな解釈手法や心理占星術などがあって混迷しています。

しかし、一見、科学的に見せながらも、大半が本来のアストロロジーの本質から離れ、海王星の象意である“幻想”に陥って、誤解や勘違いをして、どこか現実性を失っているのが実情です。

正しいアストロロジーの継承と、誤った現代占星術との訣別のときを、すでに迎えているのではないでしょうか?

《 人類歴史のエポック・メイキング、イエスの登場 》

仏陀(釈尊)もその一人ですが、双魚宮時代の影響が強まるとともに、人類歴史に特筆すべき出来事が起こります。

世界四大宗教の出現です。

その中でも双魚宮時代を特徴づける画期的な出来事、エポック・メイキングは、イエス(紀元前4年頃〜紀元後30年頃)の登場でした。

お断りしておきますが、イエスのお話をするからといって、私はキリスト教徒ではありません。

どちらかというと、禅的な感覚を備えた純粋日本人です。

まあ、乱暴な言い方をすれば、禅もキリスト教も根っこは一緒です。(苦笑)

それはともかく、ここでは、イエスが人類文化史に与えた影響を、宝瓶宮占星学の観点から客観的に述べておきたいのです。

皆様は、イエスの登場による人類歴史の大きな変化が分かりますか?

イエスをキリスト教の開祖(教祖)とみるのは、双魚宮時代の宗教による見解です。

どこの会社でも、また国家でもそうですが、会社における社員や、国家における国民を導く方向性、すなわち正しいビジョンを示して、人々を誤りなく導くことができるのが真のリーダーです。

そうみたとき、一民族、一国家、一宗教を超えて、人類に対して歴史的なビジョンを示したのがイエスでした。

繰り返しますが、宗教的イエスを述べているのではありません。

ただ、双魚宮時代においては、そのビジョンは“宗教”という時代の象意にそって、「天(神)の王国(Kingdam of Heaven)」と表現されました。

しかし、皆様がイメージした「天の国」や「神の国」が、今、どこにありますか?

もはや、双魚宮時代は終わったのです。それは、現代占星術の終わりをも意味しています。

One-Point ◆ 現代占星術と双魚宮時代の関わりが理解できないかたは、お手数ですが「宝瓶宮時代と占星学」などをご高覧ください。現代占星術は、双魚宮時代末期の“あだ花”にすぎません。宝瓶宮時代は本来のアストロロジー(通称:宝瓶宮占星学=宝瓶宮時代の占星学)に漸次、変わってまいります。

《 イエスの教えは一宗教ではなく「人類愛」 》

もう少し、イエスと宗教のお話を続けます。

当時の人々が、イエスのビジョンをどこまで正しく理解していたかは知りません。

しかし、『聖書』のイエスが語るところによると、現代のキリスト教は知りませんが、少なくともイエスの教えは、一民族、一国家、一宗教に偏ることはありませんでした。

イエスの教えと行動は、民族や国家や宗教の枠を超えて、ローマ人(びと)やギリシャ人といった異邦人にも愛(救い?)の手をのべています。

さらに、イエスは「汝の敵を愛せよ」とまで言ったのです。

そんな教えが、イエスが生まれた当時の民族や国家や宗教に理解され、賛美をもって受け入れられると思いますか?

当然、社会秩序を乱す者として異端視されました。

なぜなら、当時は「目には目を、歯には歯を」の教えが当たり前だったからです。

また強大なローマ帝国の支配下に当時の社会はあったからです。

そういった中でイエスは、自らが説くビジョンと教えを、口先だけではなく、自分自身で体現してみせました。

この状況が読めますでしょうか?

キリスト教が教える宗教的な考えや、信仰的な思い込みを捨てて、宝瓶宮時代の現実や生活からみるとき、イエスのビジョンである「天の王国」という世界観は、まさに人類愛に基づく「友愛社会」の実現でした。

イエスの行動は、金持ちも病人も、人々を分け隔てなく愛する「平等と博愛」、すなわち「友愛精神」の実践でした。

イエスは、驚くことに「世界的な友愛社会の実現」という人類理想のビジョンや、友愛精神といった人類愛を2,000年も前に実践していたのです。

One-Point ◆ 宗教というフィルターを除いて、イエスの言動を検証すれば、真の姿が見えてきます。確かにイエスは「天」(神)という言葉を使ったかもしれません。しかし、イエス後、百年以上も経ったキリスト教徒によって編纂された『新約聖書』のイエスは、信仰を啓蒙するために脚色されたイエス像が盛り込まれているのではないでしょうか?


イエスはキリスト教ではなかった

●イエスの姿は、直接の弟子やその弟子が、イエス死後に書いた四大福音書に見られます。

しかし、数々の文書の中から選んで『新約聖書』としてまとめたのは、何代もあと100年以上も後のキリスト教徒です。

また、パウロ書簡として有名な使徒パウロ自身は、生前のイエスに会ったことはありません。

イエスの死後、悔い改め、熱心に宣教する弟子たちを、周囲の人々は「キリスト者」(教)と呼びはじめました。

その結果、イエスはキリスト教の教祖(開祖)に祭り上げられたのです。

イエス自身は、一宗教(キリスト教)を起こすつもりも、教祖に納まるつもりもありませんでした。

もし、イエスの意志が教団化にあったのなら、福音書に組織を立ち上げたようすが語られていなければなりません。

『新薬聖書』を編纂したキリスト教徒が、その記述を見逃すはずはないからです。

イエスはただ、人類にビジョンを宣(の)べ、その手段である人類愛をひたすら実践したに過ぎないのです。

《 継承すべきものと、訣別すべきもの 》

ここまで書けば、論旨が見えてきたと思います。

人類歴史は、断片的なものではありません。

宇宙意志(時間=歴史)の見えざる目的にそって、連綿として流れ、段階的に発展を続けているのが人類歴史の本流です。

約4,000年前に白羊宮時代が始まり、その次のステップとして双魚宮時代が存在しました。

その約2,000年間の双魚宮時代をステップとして、今日の宝瓶宮時代が築かれていくのです。

こういった人類歴史の流れを文化史的にみていくとき、それぞれの時代は、それぞれの時代のサイン(宮)の象意に基づいた「占星学的な時代区分」(プラトン月)に従って、人類文化歴史が営まれています。

その内容は「宝瓶宮時代と宇宙意志」などで触れましたので、ここでは割愛いたします。

結論的に書けば、これから約2,160年間(計算値)続く宝瓶宮時代は、水瓶宮(宝瓶宮)の象意にそって、「共鳴」や「個性」や世界的な「友愛社会」(和、絆、民度:人類愛)の実現をキーワードに、現実のグローバル社会として実現していく時代です。

時代の運勢も、これらのキーワードにそって訪れます。

ここで書いておきたいのは、先の時代のすべてを引き継いで次の時代が築かれていくわけではなく、継承すべきものと、訣別すべきものがあるということです。

もし、訣別という言葉が不適切であれば、発展的解消と言い換えてもかまいません。

One-Point ◆ 現代占星術では、「天才や偉人の90%は水瓶座(宮)に関わる」といわれています。残念ながら、そうではありません。私も水瓶宮の生まれですが、天才や偉人というのではなく、水瓶宮の象意を持つ彼らが宝瓶宮時代に向かう近現代史の時代の流れと共鳴したゆえに、我知らず時代を先取りし、時代の運勢が共にあり、結果的に「天才」や「偉人」と言われるだけです。

《 「チェンジ!」を促した2,000年前のイエス 》

重要なことは、双魚宮時代の何を継承し、何を訣別(発展的解消)していくのかということです。

イエスにおいては、双魚宮時代のメインの象意である“宗教”的な部分を除けば、宝瓶宮時代に継承すべきものが見えてきます。

再三、ご注意申し上げておきますが、キリスト教や他の宗教を否定しているのではありません。

他者を一方的に否定するのは、双魚宮時代の「対立二元論」に基づく行為です。

今日の民主主義社会では、法を遵守する(他人の権利を侵さない)かぎり、「思想の自由」や「信教の自由」は保障されています。

それが宝瓶宮時代の原点である、新しい意味での「自由・平等・博愛」の精神だからです。

左の欄に上述したように、イエス自身はキリスト教といった一宗教を興すつもりはありませんでした。

また、その教祖に居座るつもりもありませんでした。

旧い宗教用語でいえば「神の愛」、新しい言葉でいえば「友愛精神」を体現して、ビジョンを示しただけなのです。

イエスは、当時の人々に「チェンジ!」を促しました。

「チェンジ!」を聖書流に、宗教的な言葉でいえば、「悔い改めよ!」です。(笑)

イエスとオバマを同一視するつもりはありませんが、イエスが、双魚宮時代がはじまった当時に「悔い改めよ、天の国は近づいた!」と語った言葉は、宝瓶宮時代がはじまった今日では、本来「チェンジ! 友愛社会は近づいた!」になります。(笑)

One-Point ◆ あ、重要なことを書くのを忘れていました。現代占星術においても、継承すべき内容と、訣別すべき内容があります。もちろん、現代占星術を信じるのは皆様の自由です。正しい内容のみ継承し発展させた正統派アストロロジー(通称:宝瓶宮占星学)の詳細は順次、述べてまいります。


イエス、十字架の本当の理由

●イエスは、人類愛を実践しました。

しかし、「情愛」や「自己犠牲」の愛で十字架についたのではありません。

もし、イエスが「自己犠牲」という過った愛の精神で十字架についたのなら、「神よ、なぜ我を見捨てたもうか?」と旧約の言葉を口にするはずはありません。

イエスはできれば十字架を避けて、人類愛を宣(の)べ伝えたかったのです。

ひたすら平等や人類愛を実践したことによって、当時の宗教的権威の反感に遭い、捕らえられてしまいました。

もし、イエスが、当時の宗教権威らに従属し、自分の教えを曲げたり、逆に武力による抵抗を試みていれば、その時点でイエスは愛の実体を失ってしまいます。

すべては終わりです。

ゲッセマネにおいて、イエスは生きて人類愛を宣(の)べ伝える道を模索し、自分の命を懸けた岐路に立っていました。

が、結局、イエスには当時の権力者に向かって考えを主張する道しか残されていませんでした。

その結果が「十字架」だったのです。

イエスは自分の肉の命よりも、人類愛の精神を選び後世に託したようです。

《 魚宮的な「愛」と、イエスが示した「人類愛」 》

さて、最後に、今年(2009年)は、大河ドラマ「天地人」で、「愛」の字を前立てにあしらった主人公・直江兼続が注目されています。

この「愛」は、現代に生きる私たちが考える「愛」ではないことは当然です。

「愛」の字は、確かに昔からありました。しかし、私たちが考える明治以降の「愛」の概念は、西洋文化と共に日本に定着したものです。

直江兼続は近代以前、戦国末期の人物ですから、私たちと同じような「愛」の概念をもって前立てに使うことはありません。

直江兼続の時代の「愛」といえば、「愛染明王」か「愛宕権現」の加護を願う「愛」であって、文学的には「愛(かな)し」といった意味での「愛」です。

西洋文化と共に日本に定着した「愛」の概念も、純粋にキリスト教の「神の愛」や「人類愛」といった概念ではなく、日本教化された情愛を含む概念です。

魚宮の象意を民族性に持つ日本人(国体は水瓶宮、現体制は牡牛宮→ご参照「宝瓶宮占星学-9.雑考編/日本は何座宮?」)は、愛というと、どうしても「情愛」を含んで捉えてしまいがちです。

それも愛の一つのカタチですが、安直な「奉仕」や、安易な「自己犠牲」の愛は、宝瓶宮時代における本来の人類愛とは違ったものです。

愛は本来、「奉仕」や「自己犠牲」といった概念を持ちません。

イエスは、十字架に掛かりましたが、その理由は「自己犠牲」という安易なものではなかったのです。

イエスは、ただ人類愛を最期まで実践しただけなのです。
v 「奉仕」といった意識や、「自己犠牲」の精神といった意識は、まったくなかったのです。

人類愛を当時の人々に定着させたかっただけなのです。

その結果、当時の権力構造に基づく社会において、イエスは十字架に掛からざるをえませんでした。

現代、曲りなりとはいえ法的に「自由・平等・博愛」が保障された自由民主主義社会の国々においては、そんなことはありえません。

逆にいえば、このような民主主義社会の礎を築いたのは、2,000年前に「友愛社会」の歴史ビジョンを示したイエスであることが歴史を正しくほも解くと見えてきます。

One-Point ◆ 魚宮の象意を持つ人には、「奉仕」や「自己犠牲の精神」を持つ人が多いことを現代占星術に詳しい方ならご存じでしょう。その行為のウラに「自分がこれだけ尽くしてあげたのに…」という自我を持つ場合があります。確かに、それも一つの微笑ましい“愛”のカタチですが、イエスと比較しては恐縮ですが、イエスの「人類愛」とは異なるものです。


※双魚宮時代の継承と訣別はこれだけではありません。宝瓶宮時代の基本象意に関連して、もっとも重要なポイントのみ述べておきました。




【↑上に戻る】

※当ページの内容は著作権法により保護されております。無断使用はご容赦お願い申し上げます。

Copyright(C) 2005-2009-2022 Aquariun Astrology - Seiji Mitoma All rights reserved.