宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

★ 建国記念の日 特別編8 ★
「邪馬台国」の勘違いと間違い
― 卑弥呼の「女王国」は従属国 ―

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日本には日本独自の歴史の成り立ちがあります。
「魏志倭人伝」は魏から見たごく一部を記しているにすぎません。
女王国の都「邪馬台国」の現実はそんなものです。

“美化”され騒がれすぎる卑弥呼と邪馬台国の“現実”

【画像】 上:魏の軍船 下:当時の鏡。


●第1稿 : 2018年 2月11日 アップ

倭の女王“卑弥呼”が都とした「邪馬台国」は、文献上も考古学からも、所在をふくめてほぼ「確定」しています。
しかし、「結論ありき」で詭弁をろうする一部の学者が、マスコミをあおって「畿内説」を吹聴し、マスコミも“畿内か九州か”や“卑弥呼の墓”などとしたほうが、話題になり、視聴率を稼げるので、“所在不明”としているだけです。


《 「邪馬台国」にはロマンがある? 》

どちらかといえば、勘違いしているだけで“ロマン”はありません。
ほんとうの「邪馬台国」を知ればそういえます。

「卑弥呼の共立」には歴史的な価値を認めざるをえませんが、東アジアの情勢から仕方のないこととはいえ、邪馬台国そのもには騒ぐほどの価値はないといえます。

たとえば、「古代」と「現代」を同列にあつかうことはできませんが、わかりやすく現代におきかえていいますと、卑弥呼の「女王国」(北部九州連合)は、当時の“支那”大陸の魏の支配下にあった「属国」にすぎません。
その点では、断定すれば卑弥呼は“親中派”(親魏派)になります。

ただし、俗にいう“倭国大乱”後の「卑弥呼の共立」は、「日本の原点」になっていますので、そこには重大な価値があります。

以上のことから、7世紀末から8世紀初頭に記された『日本書紀』は、“やまとシステム”を継承するものの、女王“卑弥呼”も大陸の属国だった“邪馬台国”(やまたいこく、やまとこく)もいっさい記載していません。

なぜなら、『日本書紀』の100年ほど前、7世紀初頭に“阿毎多利思比孤(あめの たりしひこ)大王(おおきみ)”は、大陸の隋王に使いをおくって、支那の冊封下から訣別し、倭国を日本に併合させて“独立宣言”をしたからです。

One-Point ◆ 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」(隋書)がそれです。外交文書(国書)としての意味を考えれば、まちがいなく対等をうたった「独立宣言」です。
ちなみに、“支那”という呼称は、歴史的な約4,000年の大陸の国々をさす「China」(チャイナ、シナ)の伝統的な漢字表記で、一方、“中国”という呼称は、70年の歴史もない「中華人民共和国」の略称です。現在、「支那」と呼ぶと中国からクレームがくるので、政府やマスコミは避けていますが、歴史的な大陸をさす場合、支那(シナ)で間違いはありません。


ネット民は「九州説」を支持

●あるサイトで、「九州説」と「畿内説」を両論併記したうえで、どちらを支持するか、ビジターに投票をしてもらっています。
現在の結果は、900票近い全投票数のうち、九州説が「8」で畿内説が「2」といった割合です。
サイト自体は、99.9%九州説の立場から、両論を展開しているのですが、畿内説の論者は「邪馬台国は100%畿内だ」と主張しているにもかかわらず、この結果です。
これまで多くの畿内説に目をとおしてきましたが、結論ありきの牽強付会でしかなく、論理的な説得力がありません。
たぶん、畿内論の学者は“馬鹿”なのです。
ここでいう「馬鹿」の意味は、秦の趙高が、鹿を馬だといって天子に献上した故事からです。
居並ぶ群臣らは、権勢を誇る趙高に逆らえず、「馬です」と答えます。
結局、畿内論の学者も同じです。
大先輩の教授の学説である「畿内論」に反する主張をすると、学界で肩身が狭くなったり、大学で冷や飯をくわされることになるためです。
なので、むりやり詭弁をろうして「畿内説」をこじつけています。
要は、表向き畿内説の学者のなかにも、ホンネは九州説の学者がいたりするわけです。

《 「倭の女王」っていうけど、倭の範囲は? 》

当時の女王国、すなわち卑弥呼を女王として共立した連合国は、現在の福岡県にあたる「北部九州」と、玄界灘をへだてた「半島南端」でした。

厳密には、そこが「倭人」の地で、当時の「倭」の範囲です。
それ以外の日本列島は、彼らのことばをかりていえば「倭種」であって、俗称「魏志倭人伝」には、女王国の倭人とは線引きがされ、別の国として記されています。

※「女王国の東 海を渡りて千余里 また国あり 皆 倭種なり

つまり、3世紀前半に公孫氏を滅ぼして、半島を制圧した魏からみれば、卑弥呼の「女王国」は魏に朝貢して属領となった倭人にすぎず、「倭国」とは表記されていません。
ただし、卑弥呼を共立する前、すなわち属国になる前の男王の時代は「倭国」と記されています。

※「男子をもって王となす とどまること7、80年 倭国 乱れて 相攻伐すること歴年

一般に「魏志倭人伝」と“伝”で呼んでいますが、『三国志』では「烏丸鮮卑東夷伝」の中の最後に記される「倭人」の“条”にすぎません。

ちなみに、「倭国伝」として記されるのは、5世紀の『宋書』になってからです。

それはともかく、2代目女王「台与」になってからの「倭国」(実質は男王の国)は、その後、九州全土や四国また本州の一部へと勢力を広げていきます。

5世紀の「倭の五王」(宋書)の時代になると、半島全体にも相応ながら勢力を拡大し、「安東大将軍」の号を与えられますが、支那と地つづきの半島では「王」号は与えられませんでした。

結局、「継体天皇」の時代、6世紀初めの512年に半島の領土(任那4県)を百済にゆずり、続く7世紀、中大兄(後の天智天皇)の時代に百済滅亡(660年)と、白村江の戦い(663年)の敗北によって、日本は半島のすべてを失います。

One-Point ◆ 前述の阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)大王は、600年頃に大国となった「倭国」を小国「日本」(畿内)に吸収合併させ、支那の冊封下だった倭国を消滅させています。つまり、阿毎王(男王)は、『日本書紀』がいう女帝・推古天皇(在位593年〜628年)を推戴し、なかば傀儡として元祖“大和政権”を誕生させています。


《 魏志倭人伝の「南」は“東”の間違いなの? 》

南は、南です。

「畿内説」の学者は、「南して邪馬台国に至る 女王の都するところ 水行10日陸行1月」(三国志)の記述を、邪馬台国を畿内にもってくるために、「南」ではなく「東」の間違いだと主張しています。

これは、牽強付会もいいところで、当時の東アジア情勢や軍事事情にうとい平和ボケした“シロウト同然”の考えです。

当時は、戦乱うずまく「三国志」の時代。
魏・呉・蜀に加え、半島には公孫氏があって、中原に覇を争った、まさに食うか食われるかの軍事第一主義の時代です。

陳寿は、そんな時代に公孫氏を滅ぼして「女王国」に来た魏の“偵察報告書”をもとに、俗称「魏志倭人伝」を記しています。

いきさつは、魏は、238年に半島の公孫氏を滅ぼし、帯方郡(今の北朝鮮の地)に太守をおきます。
その帯方郡から、240年に建中校尉ら一行を女王国につかわしたわけです。
なぜなら、公孫氏が滅んだ同年、卑弥呼はただちに帯方郡に使いを送り、魏帝に朝貢を求めたからです。

当時のそういった事情から、建中校尉ら一行は、魏帝の「軍事使節」であって、そんな武官や百戦錬磨の軍人が「南」と「東」を間違えることはありません。
そんな方角もわからないような軍隊が、公孫氏との戦争に勝つことはできません。

実際、魏志倭人伝の「倭人は帯方の東南 大海の中にあり」にはじまり、軍事使節がとどまる「一大卒」(いちだいそつ)があった「伊都国」(いとこく)近隣の国々への方角は、日の出を基準(東)としてみれば合っています。

それを“邪馬台国だけは方角を間違えた”というに等しい主張は、畿内論者が「結論ありき」の論述によくつかう詭弁です。

One-Point ◆ 中原で覇をあらそう戦争の時代に、わざわざ“観光旅行”で日本には来ません。また返礼や外交儀礼で来たのでもなく、あくまでも「偵察」と「味方」(配下)にしておくためです。要は、卑弥呼の側も、半島を制した魏から攻められないように、ただちに“親魏政策”をとって、魏帝に朝貢を求めたゆえに、魏が実状の確認と、「親魏倭王」(金印)の仮授に武官(建中校尉)をつかわしたということです。


《 「魏志倭人伝」の距離表記はどうなの? 》

要は、(長)里か短里かという問題ですが、里は里です。

「短里」などはなく、大陸お得意の「白髪三千丈」(9km)式に、プロパガンダ(政治宣伝)をふくめて、実際の距離を5倍〜10倍(だいたい7倍程度)に均等に引き伸ばして報告したものです。

建中校尉ら一行が実際に女王国に来てみると、想像以上に小さかったからです。

「魏志倭人伝」に5〜10倍のでっかい数字で記されていますので、現代人も卑弥呼の「女王国」はさぞ大きな国だと勘違いしがちですが、実際は「福岡県」に満たないていどの大きさです。

一行は、権威ある魏帝からの「金印紫綬」(親魏倭王)や「刀」や「鏡」など賜物を携えていますので、そんな小さな国に授けたと記録(報告)するわけにはまいりません。

なので、いかにも「大国」かのように、戸数里程などの数字のみを等倍して報告したものです。
だいたいでいえば、近畿や東海あたりまでを含めた大きさの国だと報告すれば、魏帝の顔も立ち、恥をかかずにすみます。

なによりも、そんな海中の“大国”が、魏に仕える属国であれば、魏の周辺の敵対国への威嚇になります。

One-Point ◆ うがった見方をする人は、建中校尉ら一行が“出張費”稼ぎのために、実際よりも大きく報告したと解釈します。それもふくめて、要は、魏帝に恥をかかせないためにも、また政治的にも里程を5倍〜10倍ほどに等倍した記録です。等倍にしておけば、実距離を知るときに正確に還元できますので、軍事記録として役立ちます。


《 水行10日陸行1月といった日程はどうなの? 》

結論をいえば、レトリックです。

不弥国(ふみこく)への陸路に続く記述として、投馬国(つまこく)への水行や邪馬台国への日程を書いていますので、つい連続しているかのように勘違いしてしまいます。

※「東に行きて不弥国に至る 百里 (官戸数略) 南して投馬国に至る 水行20日 (官戸数略) 南して邪馬台国に至る 女王の都するところ 水行10日陸行1月 (官戸数略)」

連続していれば、水行の出発点となる不弥国は、海沿いになければなりません。
もし、伊都国からだと、水行20日の投馬国のほうが邪馬台国の南になりかねず、北と記されている記述と明らかにつじつまがあいません。

つまり、「南して投馬国に至る、水行20日」というのは、帯方郡(現在の北朝鮮)からの日程です。
投馬国(つまこく)は対馬(つしま)なので、当然、海に接しています。
というか、意図的に記したのか、それとも別の国と考えたのか、「対馬(つしま)」(投馬)を重複して記録しています。

続けて、「南して邪馬台国に至る、水行10日陸行1月」と書かれています。

これらを、上述によって、5〜10分の1(7分の1)ほどにすると、帯方郡から当時の船で投馬国(対馬)まで約3日(2日〜4日)かかったことになります。
投馬国から邪馬台国までは、約1日半ほどで九州北岸の目的地に着いて、そこから平底の小型舟などで川を移動することもふくめて、陸路4日ほどの距離が「邪馬台国」です。

ちなみに、魏の軍事使節が邪馬台国まで行った記録はありません。

One-Point ◆ 陳寿は、1世紀の「漢委奴国王」の時代の記録も参考にしています。なので、古い「投馬国(つまこく)」(対馬)までの記録と、3世紀の「対馬国(つしまこく、つまこく)」までの記録を併記させた可能性もあります。それを意図的に行なって、不弥国からさらに辿ると読めるようにして、「女王国」を“大国”かのようにみせるレトリックを使ったということです。
※参考:対馬に「ツマアカスズメバチ」がいて、福岡市博多区に港や、海岸にあった対馬藩の屋敷につうじる「対馬小路」(つましょうじ)という町名があります。


《 そもそも卑弥呼が共立された“倭国大乱”とは? 》

通称“倭国大乱”の時期は、いくつか説があります。

陳寿の「魏志倭人伝」では、男王の世が70〜80年続いたあと、倭国が乱れたと記されています。

※「男子をもって王となす とどまること7、80年 倭国乱れて 相攻伐すること歴年

ところが、魏の前の後漢の時代を、「魏志倭人伝」のあとに記した『後漢書』は、次のようです。

桓帝と霊帝の間 倭国大いに乱れ こもごも相攻伐し 年をへるも主なし
※原文「桓霊間 倭国大乱 更相攻伐 歴年無主

ここから、“倭国大乱”と呼ばれることがあります。
ですが、日本で70〜80年も戦争は続きません。

事実、多くの記録は、「倭国乱」です。
6世紀の『梁書』(初版は7世紀)は、「漢霊帝光和年中 倭国乱 相攻伐歴年」。
『太平御覧』も、「漢霊帝光和年中 倭国乱 相攻伐無定」です。

これらに従うと、光和元年(178年)〜光和7年(184年=中平元年)のことで、最長でも7年間です。
これは、ホロスコープからみても、当時、“戦乱あり”と確認できます。

倭国乱の原因は、複数の要因が絡んでいますが、最大の理由は、「鉄製武器」の普及です。
福岡県をはじめ北部九州では当時の2世紀後半の遺跡(墳丘墓)から、鉄剣や素環頭太刀、鉄鏃(てつぞく)などが発見されています。

ほかにも弥生時代の九州をみますと、鉄製武器が800点前後も発掘されており、これに対して同時代の近畿では、10余点しか発見されていません。
その差は歴然で、この時期の畿内は、まだ石斧など石器生産でした。

要は、「倭国乱」が起こり、矢には「鉄鏃」“てつのやじり”を使うと記されている「魏志倭人伝」の記述に、福岡をはじめ北部九州は合致しても、畿内は範疇外です。

結局、倭国乱は、鉄製の武器が普及しはじめたために生じ、弥生時代の鉄鏃(てつぞく)が数多く九州から発見されていることからも、当時、戦乱が福岡を中心にあったことは確実です。(下図参照)

要は、鉄製武器を手に入れた優位な国によって、倭国乱は引き起こされました。

One-Point ◆ 鉄の普及は、畿内よりも九州のほうが1世紀ほど早く、墳墓への埋葬形式や瀬戸内海沿岸などの防御用高地性集落の推移からみても、西から東への伝播です。台与を旗印とした倭国王の勢力が、3世紀末に畿内を治めることによって、結果、前方後円墳が出現し、全国へ勢力を広げたというのが事実です。これを“邪馬台国”(やまたいこく、やまと)というのなら、畿内は4世紀のお話で、3世紀の「魏志倭人伝」に記される卑弥呼の「邪馬台国」とは違います。




《 「三角縁神獣鏡」は卑弥呼の鏡なの? 》

常識的にありえません。根本からおさらいしてみましょう。

卑弥呼は、3世紀前半に魏帝から鏡100面を下賜されたと「魏志倭人伝」に記されています。

しかし、畿内また全国における「三角縁神獣鏡」の発見は、4世紀の古墳時代になってからです。
3世紀の墳丘墓から「三角縁神獣鏡」は発見されていないのです。

畿内論者は、「伝世鏡論」をもちだして、大事なものだから50年〜100年も経った4世紀になってから古墳に埋葬したと詭弁をろうします。

では、3世紀の墳丘墓に、当時の鏡が埋葬されていないのかというと、九州では当然のように発見されています。
「三角縁神獣鏡」だけが畿内を中心に「伝世」され、4世紀になって埋葬されたと根拠のない“ウソ”を発表し、学界では“史実”かのように信じられているわけです。

もし、「三角縁神獣鏡」が“卑弥呼の鏡”だというのなら、魏からもらったものなので、大陸でも発見されていなければなりません。
ですが、その痕跡さえありません。
中国の学者でさえも、日本製だと認めているのです。

さらには、100面しかないはずなのに、「踏み返し」をして同じ鏡を次々につくったとはいえ、全国で540面以上も「三角縁神獣鏡」が発掘されているのは異常で、4世紀の畿内発の権威づけのための国産鏡です。

One-Point ◆ 「三角縁神獣鏡」が卑弥呼の鏡であれば、畿内が魏の属国だったということです。そこから現在に続く日本(統一大和)がはじまっていますので、歴史的にみれば日本は中国の属国だったということになります。ありえませんが、後年、もし中国が日本を侵略する際に、大義名分として使わないともかぎりません。というか、畿内論者の一部が「結論ありき」で主張し続けるのは、そういう意図が隠されているといえます。


《 邪馬台国はなかった? 邪馬壱国や壱与? 》

ついでに、「邪馬国」なのか「邪馬国」なのかを書いておきます。

正解は、「邪馬台国」でよく、2代目女王も「与」(いよ)ではなく「与」(とよ)で間違いはありません。
ただ、「魏志倭人伝」(写本)には、「邪馬壱国」また「壱与」と記されているのは事実です。

ですが、原典を調べていくと、陳寿が参考にした記録はもちろん、『三国志』以降の記録も、すべて「邪馬台国」です。

つまり、陳寿の『三国志』の記述時、もしくは写本時に“意図的”に「壱」にされています。

理由としては、「台」が皇帝直属の官庁をあらわすために、陳寿が東夷(東の野蛮人の意)のしかも女が王である倭人の都に、「邪馬台国」などと“台”の文字を使うことをしたくなかったからです。

One-Point ◆ ですが、「台」には「しもべ」という意味もありますので、彼らが使ってもおかしくはありません。また、『隋書』には、「邪靡堆」(やまたい、やまと)とも表記されていますので、邪馬壱国(やまいこく)ではないのはあきらかです。
※現存する『三国志』は12世紀の写本です。これ以降の一部の文書には、丸写しして「邪馬壱国」と記されたものもあります。


《 「勘違い」の最大の原因は? 》

ほかにも「邪馬台国」への勘違いはありますが、最後に、勘違いの最大の原因にふれておきます。

根本的な勘違いは、なんとなくであっても、当時の日本には卑弥呼の「女王国」(倭国)しかなかったと勘違いしていることです。

「魏志倭人伝」しか当時の日本の記録がない(これも勘違いですが…)と思い込み、また肝心の『日本書紀』が、最初から万世一系の天皇によるひとつの日本だったという“編集方針”のもとに記されていますので、唯一の国だと思い違いをしているのです。

まず、「魏志倭人伝」にさえ、卑弥呼の女王国の南に敵対する「狗奴国」(くなこく)があったと記されています。
さらに、上述いたしましたように女王国の東(本州、四国)には倭種の「国」があることも記されています。

ほかにも、半島の正史『三国史記』には、「其國在 倭國 東北一千里」と倭国の東北400〜500kmほどのところに、「多婆那国」(たばな こく)があったことが記されています。
その国から来た倭人が、新羅の王になった云々と記録されているのです。

ほかにも、考古学の発掘などをふくめて、邪馬台国と同時代の国をざっと挙げれば、固有名詞まではわかりませんが、出雲国、備前国、阿波国、丹後国(多婆那国)、越国、畿内国、尾張国、関東国、(省略)、津軽国などが、相応の規模でありました。

この中で、いくつかの国は、出雲を盟主とするゆるやかな「大国主連合国家」を築いていたということが、山陰系の祭祀土器の分布などからいえます。

その本拠や集会地が、現在の出雲また畿内で、『日本書紀』でいう「国譲り」によって、3世紀末以降、九州(倭国)勢力に融合され、大なり小なり時代とともに分離離反を繰り返して、次第に統一大和にむかっていきます。

このような時系列をもって国の変遷をみていかないと、固定化すると史実がみえなくなり、「畿内論者」のように間違ってしまいます。

One-Point ◆ ちなみに、「女王国」(倭国)が勢力を拡大していくのは、2代目台与(実権は男王)の時代になってからです。とくには、卑弥呼が死んで、約7年後の265年に魏が滅び、そのあとを継いだ晋も次第に混乱していき、半島への押さえが効かなくなった3世紀末あたりから、鉄製の武器によって本格的な“東征”へと動いていきます。313年には、高句麗によって帯方郡も滅び、半島が高句麗、新羅、百済、伽耶といった弱小国家になると、半島北部へも勢力をのばしていき、現在の北朝鮮あたりにまで攻め込むなど、「倭の五王」(5世紀)の時代を迎えていきます。




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