宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
その9:大已貴命の本拠地尾張
− 番外編-隠された海人族 −

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古代「安心院(あじむ)」と海人族・素戔嗚尊の「海神三女神」

↑ 安心院盆地の朝霧、奥は由布岳。

●第1稿 : 2013年 5月 4日アップ




《お断り》
※ここに書いた内容は、新たな歴史の発見や、リーディングによって、断続的に修正することがあります。

《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

7世紀に戻る前に、番外編をいくつかお届けしておきます。
『日本書紀』による古代日本史は、あらかたの「事実」を記しているものの、最も重要な「部分」を消し去りました。
歴史の主人公の実像を見えにくくし、藤原氏の有利なように書き変えています。それは「歴史犯罪」ともいえますが、彼らが「天皇」にならなかったことは、たとえ理由があったとしても評価すべきです。

《 歴史の「真実」 》

古代日本史の主人公は、『日本書紀』が悪しざまに記す「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」です。
また、その子「大已貴命(おおあなむち)」であり、歴史が下っては「武内宿禰(たけのうちのすくね)」です。
7世紀の蘇我大王家は、そこに連なります。
正しく記していませんが、『日本書紀』はそのことを示しています。
つまり、こういうことです。
70%の真実が書かれた歴史書と、90%のウソが書かれた歴史書では、どちらのほうが本当の真実が分かるかといった理屈と同じです。
答えは後者の90%の「真実」が分かるほうです。
『日本書紀』も同様です。
素戔嗚尊や蘇我大王家、また天武天皇の出自に関してそういえます。
『日本書紀』に国づくりを行なったことが記されていながら、それを称えることなく、逆に悪しざまに記したり、あるべき記述が書かれていない場合、そこに「ウソ」すなわち「真実」があるのです。
その史実は、前後の記述や歴史の証拠から見えてきます。
そのような扱いを受けている人物が、素戔嗚尊であり大已貴命です。
また、武内宿禰の異常な長寿もそうですし、滅ぼされた蘇我大王家もそうです。
そのことは、「記紀」編纂を命じた最重要人物、天武天皇の年齢や出自が不明なことも同様です。
反対に、たいして功績がないにもかかわらず、必要以上に誉めたり由緒があるように記されている中臣氏(藤原氏)こそが「ウソ」で、古代史の本流を隠し横取りした傍流だったことが分かります。

One-Point ◆ 『日本書紀』は「律令制度による統一国づくり」、すなわち「大和一国史」と「万世一系」という大義名分のもとに、重要な過去を消し去ってしまいました。あまりにも堂々と大きなウソを貫き通したために、逆に見抜きにくくなっているのです。


●八岐大蛇の正体は「多くの国」

素戔嗚尊が退治した「八岐大蛇(わまたのおろち)」とは何でしょうか?
「川」すなわち「治水工事」という説も一理はあります。
治水工事による国づくりや、草薙剣が鉄剣なら「川底」の砂鉄からつくれるからです。
しかし、「神代紀-上」は本州国を治めるお話なので、やは「多くの国々」を象徴しているものでなければなりません。
「川」は国境で、「娘」は征服者に娶(め)とられるからです。
『日本書紀』は、その事実をあからさまに記したくないために、「国」を「大蛇」に変えたものです。

《 「草薙剣」と国ゆずり 》

「神代紀-上」一書から抜粋
「素戔嗚尊は、その大蛇を切られた。ときに蛇の尾を切って刃が欠けた。そこで割いてごらんになると、尾の中に一つの不思議な剣があった。素戔嗚尊がいわれるのに、「これは私の物とすることができない」と。そこで五代の孫である天之葺根神(あまのふきねのかみ)を遣わして、天に奉られた。これが今、草薙剣(くさなぎのつるぎ)といわれるものである。」

「神代紀-下」から抜粋
「(大已貴命は)そこで国を平らげたときに用いられた広矛を、二柱の神に奉られていわれるのに、「私はこの矛を以って、ことをなしとげました。天孫がもしこの矛を用いて、国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私はかの幽界にまいりましょう」と。いい終わるとともに隠れてしまわれた。」

「神代紀」のストーリーは、シンプルです。
異伝の「一書」が70%を占めていますので、本書は明快です。

「神代紀-上」…素戔嗚尊と大已貴命の国づくり。
「神代紀-下」…大已貴命が国をゆずり、天照大神の子孫から神武天皇が生まれた。

大概はこれだけで、次の初代「神武天皇紀」の東征に続きます。
これも九州から東征して、饒速日命(にぎはやひのみこと)から畿内「大和」をゆずり受けて即位されるというお話です。

大已貴命は、天孫(皇孫)より先に「広矛」をもって国を平らげます。
それゆえ、『日本書紀』の一書で、「国作(くにつくり)大已貴命ともいう」と記されます。
大国主神(おおくにぬしのかみ)のまたの名が大已貴命で、さらに「大国玉神(おおくにたまのかみ)ともいう」と記されています。
本書で、大已貴命は素戔嗚尊の子です。
それゆえ、大已貴命が国を平らげた「広矛」というのは、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したときに尾から出てきた「草薙剣」を指します。
「三種の神器」の一つ、宝剣「草薙剣」です。
それゆえ先回「その8:「三種の神器」の意味」で書いたように、「草薙剣」は素戔嗚尊や大已貴命に代わって国を治める「御璽(みしるし)」になっています。
彼らが治めた範囲は、出雲にとどまらず、日本海沿岸の北陸や、関東福島、また畿内「大和」など「本州国」だったのは、考古学による「出雲文化圏」の分布からみても明らかです。

One-Point ◆ 事情を知って『日本書紀』を読めば、案外と簡単に見えてきます。しかし『日本書紀』は、その史実を分かりにくくし、「神話」のお話にしてしまいました。結局、「神武」のモデルとなった実在の「応神天皇(また武内宿禰)」の東征直前の3世紀〜4世紀、天照大神の天孫による九州「倭国」と、素戔嗚尊や大已貴命また饒速日命(にぎはやひのみこと)による「本州国」が並存していたことが分かります。

《 大已貴命と尾張の関係 》

ここからが重要です。
宝剣「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は、現在、熱田神宮に「御神体」として奉斎されています。
「尾張(名古屋)」です。
なぜ、尾張なのでしょうか。
国づくりに際して、大已貴命が尾張を太平洋側の拠点としていたからです。
彼らもまたヤマ族系ウミ族、すなわち海人(あま)族です。
それは素戔嗚尊の剣から生まれた「三女神」を、海人族である宗像族こと胸肩君(むなかたのきみ)が祀る神と記されていることからも分かります。
また、尾張に面する伊勢湾は、木曽川やその系流の水運もさることながら、最高の天然の港で、海人族が濃尾平野を抱く尾張を拠点にしない手はありません。
後年、壬申の乱において尾張は、天武天皇こと大海人皇子(おおあまのおうじ)に味方し、尾張宿禰大隅は館と軍資を提供し、尾張国司の小子部連(ちいさこべのむらじ)は二万もの兵を率いて帰属しています。
それだけの軍資や兵力があったのも、国を治めた素戔嗚尊や大已貴命の後裔だったからです。
その尾張に、宝剣「草薙剣」が奉斎されているのは当然なのです。
素戔嗚尊の出雲から大已貴命は、水運や海運に便利な要衝で、また食料も豊富な尾張へと草薙剣とともに本拠を移しています。
そのような「国」を治めた尾張や三河から、後に天下統一を果たす織田信長や豊臣秀吉や徳川家康ら三英傑が出たのも、うなづけなくはありません。
それは三英傑にとどまらず、武家政権を最初に築いた源頼朝もそうです。
そのお話はまた次回「その10:天皇と武家政権」で改めてお届けいたします。

One-Point ◆ 大海人皇子も海人族とかかわります。孝徳天皇紀では「皇弟」、天智天皇紀では「大皇弟」と記されていることから、弟であり長男ではないことが分かります。なので、この「大」は長男を意味するものではなく、「先の海人族」、海神(わたつみ)を意味します。「その7:安曇族と天武天皇」に書いたように、天孫「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が、ヤマ族「大山祇神(おおやまつみのかみ)」の娘「木花開耶姫(このはなさくやひめ」)との間に生んだ「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸彦)」、その子が海神(わたつみ)の娘「豊玉姫(とよたまひめ)」と、孫が「玉依姫(たまよりひめ)」を娶(め)とって生まれたのが、初代「神武天皇」とされています。そのように皇孫はヤマ族と、一方でウミ族「海神(わたつみ)」の流れをくみます。ゆえに大海人皇子は正統なのです。


●山口県萩市須佐

素戔嗚尊の出自には諸説があります。
ただし、『古事記』には「須佐の男」と記されており、現在の山口県の須佐です。
山口は、邪馬台国の卑弥呼一族にもかかわる地で、日本の原住のヤマ族(邪馬台族)に連なる男王の一人です。
下図の宇佐や安心院など、九州「倭国」の傍系で、出雲を経て最終的に尾張に大已貴命が本拠地を築きます。


●大分県宇佐市安心院

緑の矢印が安心院(あじむ)盆地です。
周囲は山なので、「山の幸」が収穫できます。
一方、「宇佐神宮」近くまで、古代は海(周防灘)だったので、当時は水量が豊富だった駅館川を上れば、安心院盆地です。
当然、瀬戸内海の「海の幸」も収穫でき、川さえおさえれば、天然の要塞で安心です。

《 安心院(安曇国)の磐境 》

ほかにも、素戔嗚尊が海人族の出自だったことが分かります。
『日本書紀』の一書で、「素戔嗚尊は天下を治めなさい」と記されると同時に、別の一書では「素戔嗚尊は、青海原を治めよ」と記されています。
さらに、『古事記』の素戔嗚尊の名称「建速須佐之男尊(たけはやすさのおのみこと)」もそうです。
「建速」は先に建国したという意味で、「尊」という尊称とともに省くと、「須佐之男(すさのお)」が残ります。
これは「須佐の男」なので、現在の山口県萩市にある須佐(旧山口県須佐町)にかかわる出自です。
須佐も、小規模ながら天然の港を抱えます。
須佐から対馬海流に乗れば、出雲や北陸に簡単にいけますし、逆に陸ルートで山口を南下して周防灘に出れば、対岸は九州「倭国」です。
周芳(山口)自体が、九州「倭国」の一部だった可能性がありますが、ここでは触れません。
さらに素戔嗚尊の剣から生まれた三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)を『日本書紀』の一書は、次のように記しています。

「神代紀-上」一書から抜粋
「日神(ひのかみ)が(素戔嗚尊の剣を食べられて)生まれた三柱の女神を、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋に降らせられた。今、北の海路の中においでになる。」

「今(現在は)、北の海路の中においでになる」というのは、九州北岸の宗像のことです。
それゆえこの三女神は、「宗像三女神」と呼ばれることがあります。
しかし、その前に「宇佐嶋に降らせられた」と記されていることにご注目ください。
「宇佐嶋」は、現在の大分県中津市に隣接する宇佐市です。
「なかつくに」自体が中津(なかつ)の地名の由来である可能性がありますが、それはさておき、宇佐市の安心院(あじむ)近辺には、古代祭祀の遺跡「磐境(いわさか)」が数多く残っています。
宇佐神宮の「元宮」がある御許山(おもとやま=大元山)や、安心院の米神山や妻垣山や轟山の巨石柱がそうです。
御許山には三個の巨石柱がありますが、この山頂部(元宮)は「禁足地」で残念ながら登ることはできません。
途中の大元神社(奥宮)までは、山道ながら行くことができます。
ここ御許山は「三女神降臨伝承」の地なのです。
一方、安心院の「三女神社」にも、2mほどの三個の巨石柱があります。
さらに安心院の妻垣山や米神山(佐田京石)には、サークル状に並んだ2〜3mの巨石柱があります。
これらは、社(やしろ)なき神社の原点「磐境(いわさか)」を表わします。

One-Point ◆ 安心院(あじむ)は、最初の海人族、安曇(あずみ)の転訛(てんか)ともいわれます。素戔嗚尊の剣から生まれた「海神三女神」の原住地です。架空ながら初代「神武天皇」も東征にあたって、この地「筑紫の国の宇佐」に寄り、宇佐の川のほとりにあった「足一つあがりの宮」で供応を受けたとされます。これら一帯は、後に大海人皇子の兵衛を務めた大分君(おきだのきみ)や国見君(くにみのきみ)が治めた地域で、古代は「国」ゆえに、東に国東(くにさき)半島があります。宇佐の川を足一つ上った安心院は、現在も川の傍に「三女神社」の外宮があります。


●似通った2つの「磐境」伝承

安心院の三女神社の3つの巨石柱には、次のような言い伝えが記されています。
「三女神天降りの遺跡と伝えられ、地上に突出すること2m余り。古来、試みに掘りて石根を見んと欲すれば、宇宙闇然(あんぜん)風雨至り、大地震動して、その声雷の如し。後の人、恐れて触る者なし。」
また、尾張大国霊神社の磐境の伝説は次のようなものです。
「5つの岩の中の一つが横に倒れており、いつ倒れたかは分からない。何度か起こそうと試みたものの、その都度、手をかけた人に災難が起こり、以後、触る人がいない。」
いずれも、通常の磐(石柱)ではないことを伝えたものです。
事実、素戔嗚尊や大已貴命の系統は「祟(たた)り」がありますので、「崇(あが)め」なければなりません。
「崇神天皇」の諡号がそうですし、「大神神社」や「出雲大社」、然りです。

《 古代の神社「磐境」 》

お話は戻ります。
尾張に「大国霊(おおくにたま)神社」があります。
天下の奇祭「はだか祭り」で知られる「尾張大国霊神社」です。
尾張で、宝剣「草薙剣」を祀る「熱田神宮」と双璧をなす国府宮が、この尾張大国霊神社です。
祭神を「尾張大国霊神」とします。
大国霊神(おおくにたまのかみ)は、大已貴命の別名「大国玉神(おおくにたまのかみ)」と同じであることにご注目ください。
それゆえ大国主神(大已貴命)を祀るともいわれます。
この神社の本殿脇に、5つの天然石(石柱)をサークル上に並べた「磐境(いわさか)」があります。
それゆえ尾張大国霊神社は、古代から由緒ある神社だということが分かります。
もっとも、尾張大国霊神社では「磐境」と書いて「いわくら」と呼んでいます。
厳密にいえば「磐座(いわくら)」と「磐境(いわさか)」は異なります。
天然の磐(石柱)をサークル状に配置して、祭祀の場所(境)としたものを「磐境(いわさか)」といいます。
神社が建造されはじめる以前の、大自然の社(やしろ)の原点です。
大和の大神神社(おおみわじんじゃ)の御神体「三輪山」と同じように、御神体を祭る場所です。
その磐境の原点が、上述した大分県宇佐市の安心院(あじむ)界隈なのです。
百聞は一見にしかず、ご覧いただきましょう。

現在でこそ、やや内陸に安心院は位置します。
しかし、宇佐平野は駅館川や寄藻川や桂川の河口に広がる沖積平野であることから、古代は周防灘が入り込んでいて、安心院は現在よりもずっと海に近く、河川の水量も豊富だったことから、水行が可能でした。
これが何を意味しているのかというと、安心院盆地は、周囲を山に囲まれ川しか出入り口がない天然の要塞であり、かつ山の幸も海の幸も豊富に収穫できた絶好の場所だったことを意味します。
宇佐平野は現在、大分県最大の穀倉地帯になっていますが、海のT字の交差点にあたることから、海の幸に恵まれるとともに交通の要衝でもあり、古代の都「国」が栄えた場所です。
左上欄に書いた安心院の三女神社と大国霊神社の磐境の「伝説」が酷似していることも、古代の尾張は、安心院に通じ、安曇族や素戔嗚尊また大已貴命ら海人族の拠点であったことは間違いのないところです。

One-Point ◆ 『日本書紀』は、7世紀の蘇我大王家が滅亡後に歴史編纂にとりかかっています。そこにつながる武内宿禰の実像や、素戔嗚尊や大已貴命の古代の国づくりは、徹底的に消し去られました。また大海人皇子こと天武天皇の出自が隠されたのも、すべては宇佐や安心院地域を含めた九州「倭国」にかかわり、また出雲や尾張による「本州国」の国づくりにかかわるためです。古代日本史の正姿はここにあります。



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