宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学から解く日本の原点
その3:「天照大御神」の系譜
− 3人また4人の「アマテラス」 −

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皇室の祖すなわち皇祖神は、現在では「天照大神」だとされます。
『日本書紀』では、初代「神武天皇」の5代前にあたる「女性神」です。
ここでは、日本の元祖ほんとうの「天照大御神」をご紹介いたします。

日本の成立に従い複数の人物を融合した「天照大神」

↑ 天照皇大神(荒木田守明・画)

●第1稿 : 2014年11月02日アップ




おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

かなり複雑です。
ほんとうの元祖「天照大御神」は、『日本書紀』の中で操作され、「天照大神」に姿を変えていきます。
また、神話上の「天照大神」は、女性神とされますが、日本の祖としての本来の「天照大御神」は、当たり前のことですが男性です。
では、いったい、どこで、どうなって、このようにこんがらがってしまったのでしょうか。
日本人の民族性と和の国体ゆえ、複数の実在の人物に当てたのですが、その作為された事由をお伝えいたします。

《 多賀宮での「剣」と「巻物」 》

「天照大御神」とは、いったい誰なのか。
それを明らかにする前に、まずプライベートなエピソードをご紹介させてください。
約1年ほど前に伊勢神宮に参拝をしました。
当然、豊受大御神を祀る「外宮」からお参りをします。
最初に鳥居のある「正宮」にお参りをしました。
外宮の中で正宮は平地にあります。
次に、別宮(わけみや)の中でいちばん格の高い第一別宮の「多賀宮(たかのみや)」にお参りをしました。
多賀宮は、小高い丘の上にあって、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)を祀るとされます。
不思議なことに、多賀宮は正宮よりも高い位置にあるだけではなく、多賀宮のみ「鳥居」がないのです。
鳥居がないということは、外宮自体の「大鳥居」が多賀宮の鳥居になっていることを意味します。
さらには、「外宮」の中では最も小高い丘の上にあることからみても、実は「多賀宮」こそが、外宮(伊勢)の隠された本体だといえるのです。
なぜなら、「内宮」では当然、天照大御神を祀る正宮「皇大神宮」が最も高い丘の上にあるからです。
ちなみに、天照大御神の荒御魂を祀るとされる内宮の「荒祭宮(あらまつりのみや)」にも鳥居がありません。
それはそれとして、多賀宮にお参りしたとき、「龍との封印解除(C)」で知られるエイトスターさんが不思議なことを言い出しました。
そこで私が「剣」と「巻物」を授かったというのです。
そういうことには鈍い私は、残念ながら何にも感じませんでした。
しかし、もし、それが本当なら、「剣」は真実を象わしますし、「巻物」は秘伝を象わします。
古代の神々の謎と秘密を解く許可をいただいたのかもしれません。
その後、内宮に向かい「天照大御神」を祭る皇大神宮にお参りをしました。
天照大御神は、「天照坐皇大御神 」(あまてらします すめおおみかみ)とも申します。
目的は、「天照大御神」がどなたかを感じることです。
多分、「天照大神」と同一神や卑弥呼のような「女性神」だと思って参拝したのですが、そんな感じはしませんでした。
参拝客の大半は「女性神」だと思ってお参りしているはずなので、そういった「念」が相応にあるはずなのですが、女性神よりも「男性神」のような感じもして、あいまいなまま、そのときは帰ってきました。

One-Point ◆ 以来、そのことは頭に残っていました。そして今回、「占星学と解く日本成立史」の第2部となる「占星学から解く日本の原点」を連載するにあたって、皇統すなわち日本の原点である「天照大御神」のご正体をご紹介したいと考えました。ただし、どこまで信じてもらえるかは分かりません。というのも、実は、『日本書紀』では、史実と異なる、かなり複雑な操作がなされているからです。


●瀧原宮(たきはら の みや)

三重県度会郡大紀町滝原にある「天照坐皇大御神(あまてらします すめおおみかみ) 」の御魂を祀る「瀧原宮(たきはらのみや)」。
伊勢神宮の「内宮(皇大神宮)」の別宮。

《 元祖「皇祖神」は男性 》

ということで、まず最初に「天照大御神」のアウトラインをご紹介しておかないと、こんがらがる方もいらっしゃるでしょう。
理由は、そののち、漸次、書いてまいります。
結論を先に申し上げますと、『日本書紀』の中には、3人から4人の人物が「天照大神」として描かれています。
最初の1人は、天武天皇が定めた元祖「天照大御神」です。
元祖「天照大御神」というお方は、第40代天武天皇が『日本書紀』編纂の詔(みことのり)を発するにあたり、天武ご自身が最初に意図した「皇祖神」にあたる古代日本に実在した人物です。
しかし、天武天皇が崩御されたのち、後日、編纂された『日本書紀』では、わけあって「天照大神」は、次々と別の人物に姿を替えていきます。
有名な天の岩屋隠れの神話も同様です。
なぜ、このようにせざるをえなかったのでしょうか。
もちろん理由があります。
それは、最終的には、第41代「持統天皇」を天照大神に重ねるためです。
当時、持統天皇から「孫」の第42代文武天皇へと皇位が継承されています。
この「皇位継承」の正当性を図るために、天照大神は「女性神」とされ、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)による天孫降臨神話が創作されました。
こうして「天照大神」は、元祖「天照大御神」をはじめとした3人の人物と、後世の持統天皇を含めて、3数(4数)で象わされているのです。
「数理法則」から申し上げますと、基本三数「3数(4数)」が整うことによって、永続発展が可能になっていくためです。
さて、『日本書紀』は、高天原の天照大神を女性神として描きましたが、本来、皇統は男性からはじまるものでなければなりません。
それは「万世一系」を発案した天武天皇が、皇位争いをなくすために「男系」と定めたものだからです。
それゆえ『日本書紀』自体が、最初にそのことを示唆しています。
「神代(上)」の冒頭、国常立尊(くに とこたちの みこと)がお生まれになられた直下の記述です。

『日本書紀』「神代(上)」より抜粋
(最初に国常立尊) 次に国狭槌尊(くにの さつちの みこと)、次に豊斟渟尊(とよ くむぬの みこと)と、全部で三柱の神がおいでになる。
この三柱の神は陽気だけを受けて、ひとりでに生じられた。
だから純粋な男性神であった。

最初に生じた神々は、すべて男性神です。
次に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の国生みの場面をみてみましょう。

『日本書紀』「神代(上)」より抜粋
そのとき、女神(伊弉冉尊)が先に唱えていわれるのに、「ああうれしい、立派な若者に出会えた」と。
男神(伊弉諾尊)は喜ばないでいわれるのに、「自分は男子である。順序は男から先にいうべきである。(以下略)」

これらの記述は、神々からはじまる「皇統」は、男性(神)を最初とするということです。
そのため、本来の皇祖神は「男性神」でなければなりません。

One-Point ◆ 『日本書紀』の3大編集方針に書いたように、皇位争いを避けるために「万世一系」を定めたのです。誰が皇統を継ぐかは、はっきりと記しておかなければ意味がありません。その『日本書紀』が冒頭に、「男性神」が先だとする記述を載せているのです。これは女性蔑視からいっているのではなく、『日本書紀』が定めた皇統がそうなのです。なので当然、皇祖神は「男性神」です。実際、天武天皇が意図した日本の原点、元祖「天照大御神」は男性でした。では、そこから謎解きをして、ご紹介いたします。


《 壬申の乱と「天照大御神」 》

天武以前に「皇祖神」という概念はありません。
日本の安定を図るために、2度と皇位争いが起こらないように、天武が「万世一系」を発案し、本来の皇祖神「天照大御神」を定めたからです。
では、なぜ天武天皇は、天照大御神を皇祖神としたのでしょうか。
これも「壬申の乱」に端を発します。
そのいきさつを書いておきます。
天智天皇(てんじ てんのう)は、東宮(次期天皇)大海人皇子(おおあまの おうじ=天武天皇)を病床に呼んで皇位を譲る話をします。
東宮ゆえに大海人皇子への皇位継承は、当初からの既定路線のはずです。
しかし、大海人皇子は、蘇我臣安麻呂のアドバイスを受けて、皇位禅譲は命を狙うための謀りごとであることを悟り、出家して吉野に隠棲します。
ですが、天智の子、大友皇子(追諡:弘文天皇)は、大海人皇子の命を狙う動きをみせ、禍(わざわい)が起こることは避けられないと判断した大海人皇子は、やむなく立ち上がります。
吉野にいては動きがとれないので、基盤のあった東国へ、態勢を整えるために向かいます。
その際、伊勢に祀られていた「天照大御神(天照坐皇大御神)」を遥拝(ようはい)されました。
『日本書紀』には次のように記されています。

『日本書紀』「天武天皇(上)」より抜粋
26日、朝、朝明郡(あさけのこほり:三重郡)の迹太川(とおかわ)のほとりで、天照大神を遥拝された。

わずか一行です。
『日本書紀』は、一貫して「天照大神」と表記しています。
ですが、なぜ、大海人皇子は、これから戦いをはじめようとする火急の折、「天照大(御)神」を遥拝されたのでしょうか。
「遥拝」というからには、わざわざ遠くから拝んで、戦勝祈願をしているのです。

One-Point ◆ 当時は、現在のように、立派な社ではありませんでした。「壬申の乱」に勝った天武天皇が、伊勢神宮を創建し、現在のように大きく立派にしたのです。当時は、倭姫命(やまとひめの みこと)による小さな祠(ほこら)がありました。その五十鈴川のほとりに、斎宮(いつきのみや)である「磯宮(いそのみや)」があり、この磯宮の地を、「天照大神が始めて天より降らせられたところである」と『日本書紀』は記しています。


●後世に消された? 天武の出自

右の本文に書いたように、天武天皇は当然、正統なる「天孫族」です。
また、「ヤマ族」でもあり、九州を出自とする「海人族(あまぞく)」です。
詳細は省略いたしますが、『日本書紀』に記された数々のエピソードからそういえます。
また、占星学のプロファイリングからも、その言動や鷹揚(おうよう)さからは、人品卑しからぬセレブの家系であることが分かります。
「兄弟」とされる天智天皇とは、かなり違うのです。
しかし、肝心の『日本書紀』には、天武天皇の出自が、まったく記されていません。
生まれも年齢も不詳という異様さです。
理由は2つあります。
『日本書紀』の3大編集方針から、あえて記さなかったことです。
「先祖」の神武や応神が九州の出自であることは、すでに記していますので、同じ出自の天武をあえて記す必要はなかったことです。
ですが、この場合、年齢くらいは記せます。
もう1つは、本来は『日本書紀』には記されていたものが、後日、消された可能性です。
天武の系統は称徳天皇で絶えて、以降は天智系になります。
『日本書紀』の記述とは異なり、天智と天武は兄弟ではありません。
なので、天智の出自が九州または正式な天孫族ではないために、のちの世(称徳後、平安時代、藤原氏の権勢時代)になって、天武の出自に関する部分を、年齢を含め、すべて抹殺して、分からなくしたケースです。
当時の藤原一族なら、充分にやりかねません。
天皇の外戚になりましたので、幼いかいらい天皇を操れば簡単にできたことです。

《 「天照大神」の系譜 》

長々とご説明を差し上げるのが面倒なので、答えを書いておきます。
天武天皇が、遥拝されたお方は、最初に大和の国を平定された元祖「天照大御神」、すなわち大和建国の祖なのです。
「天照坐皇大神(あまてらします すめらおおかみ)」ともいいます。
「壬申の乱」というのは、皇位争いというだけではなく、大和の国を統(す)べる、日本平定をかけた戦いなのです。
なので、戦いをはじめるに際して、最初に大和の国を平定して、見事に治めていた元祖「天照大御神」なるお方に戦勝(譲り受けること)を祈願したのです。
それは大和だけではなく、自分の命と、多くの将兵の生命をかけた戦いです。
相手は天皇(大王)側なのです。
決して有利な戦いとは考えていなかったはずです。
でなければ、一刻も早く態勢を整えなければならない途上で、わざわざ「天照大御神」に遥拝する必要はありません。
重要な出来事なので、『日本書紀』も一文をとどめています。
では、最初に大和の地を治めていた元祖「天照大御神」とは、いったい、どなたなのでしょうか。
また、『日本書紀』が記す神話上の「天照大神」とは、誰のことなのでしょうか。
「記紀」には、いろんな名前で記されています。
『日本書紀』の記述にそって順番に表記すると、次のようになります。

「天照大御神」の系譜
元祖天照大御神」=天照大神素戔嗚尊大已貴神大国主神饒速日命
※天照大神=誓約後(卑弥呼)→天岩屋後(台与)…(人名)は無掲載。
→持統天皇(皇祖「天照大神」)。

「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とは、「神武天皇紀」に記されている、先に大和(葦原中つ国:あしはら なかつくに)を治めていたお方です。
『日本書紀』に記された初代「神武天皇」というのは、当然、架空の天皇です。
実際に、3世紀末に九州から東征した人物の投影です。
それを、中国の冊封下以前の歴史にさかのぼらせて、最初から大和一国の歴史にするために、『日本書紀』の編集方針にそって、秘匿された「史実」をもとに、神武天皇紀は半ば創作されています。
ですが、「饒速日命」は当時、実際に大和を治めていた人物です。
でなければ「国譲り」自体が成り立ちません。
その証拠として、「饒速日命(にぎ・はや・ひ・の・みこと)」という「人称」について述べておきます。

にぎ:(「饒」)は、和魂(にぎみたま)の「にぎ」で、平定統一し「和」をもたらしたことを意味する表現です。
饒速日命は、当然、大和朝廷側の人物ではありませんので、「大和」の「和」の字を避けて、類似の意味を持つ「饒(にぎやか)」を当てたものです。
はや:(速)は、「先に」で問題はありません。
:(日)は、「ひ=霊」のことで「産巣霊(むすひ)」のように、元祖的な人物であることを意味します。

つまり、「饒速日命」という人称は、先に大和を平定し治めていた、尊いお方を象わす名前になります。
『日本書紀』には、神武天皇が饒速日命から大和の国を譲り受けたことが記されています。
その際、お互いに「天の羽羽矢(ははや)」と「歩靫(かちゆき)」とを示され、同じ天神の子孫であることを確認しています。
そのエピソードを掲載しておきましょう。
神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)と戦ったときの記述です。

『日本書紀』「神武天皇紀」より抜粋
「(前略)本当に天神の子ならば、表(しるし)があるだろう。それを示しなさい」と。
長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢と歩靫を天皇に示した。
天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。
(以下略)

このエピソードによって、先に大和の国を治めていた「饒速日命」と、初代「神武天皇」が、同じルーツの「天神族」であることが示されています。
これは、日本人が天皇を含め一つの同族であることを示したものです。
結果的には、史実となるお話で、先回ご紹介した「『日本書紀』の3大編集方針」に基づく記述です。
当たり前ですが、天武天皇ご自身も九州を出自とする天神族です。
なぜ、天武の出自が九州だと分かるのでしょうか。
天武の直系で、最後の天皇となったのが、第48代の女帝、称徳天皇(しょうとく てんのう)です。
称徳天皇は、このままでは途絶える皇位を、誰に譲るかに際して、先に大和を治めていた元祖「天照大御神」を祀る伊勢ではなく、宇佐神宮(大分県宇佐市)にてご神託を伺っています。
なぜ?
理由はカンタンです。
皇位、皇統を委ねる重大事を、他人や無関係の神々(先祖)に伺いを立てる人はいません。
当然、天武の出自、もしくは天武の直接の「先祖神」にご神託を伺います。
なぜなら、実際には「万世一系システム」は、天武天皇とその「孫」、文武天皇(もんむ てんのう)からはじまったものだからです。
それゆえ、天武天皇の出自は、宇佐神宮のある豊の国(福岡県東岸と大分県)またその奈辺なのです。
ちなみに「豊」は、卑弥呼の宗女「台与」の出自の地です。
先に明かしておきますと、「邪馬台国」は、筑後川流域奈辺から、豊の国へ、そして後日、本州「大和」へとかたちを替えていきました。
その所在は、二転三転しているのです。

One-Point ◆ 饒速日命(にぎはやひのみこと)は、物部氏の先祖です。またの名を「櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひの みこと)」といいます。さらには、「天照国照彦火明命(あまてる くにてるひこ ほあかりの みこと:『日本書紀』)と申し、物部氏の始祖が記された『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)では、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやの みこと)と記されています。略して元祖「天照大御神」です。
物部氏は、古くから「天皇」とともにあって、「祭祀」と「軍事」を一手につかさどっています。その物部(守屋)を、崇仏をめぐる戦いで滅ぼしたのが蘇我氏です。そのように『日本書紀』に記されています。部分的な事実があったとしても、結局は、蘇我氏を「悪人」に仕立てないと、「天智系天皇」のみならず「藤原一族(中臣氏)」の正当化が図れないというカラクリが、『日本書紀』には隠されています。


●藤原不比等

ふじわらの ふひと(659年〜720年)

藤原不比等は、幼少の頃、「壬申の乱」によって、すべてを失います。
しかし、草壁妃(元明天皇)の女官(乳母)との婚姻を足がかりに、着々と皇統に食い込んでいきます。
『日本書紀』編纂に関与しただけではなく、文武天皇の擁立に寄与し、天皇の信任を得ていったのです。
占星学の「プロファイリング」から申し上げますと、かなり頭の切れる知恵者のようで、右の本文に書いたような仕組みにも、不比等がかかわっているといえます。
もっとも、不比等の死後、平安の世になって「藤原一族」によって「記紀」は、一部とはいえ改ざんされた可能性がみてとれます。
ちなみに、真偽はともかく、藤原不比等が天智天皇のご落胤だったという記録があります。
中臣鎌足が藤原姓を賜ったことをはじめ、ここまで皇統に食い込めたことが、ひとつにはあるのかもしれません。

《 天照大神と持統天皇 》

さて、本来の皇祖神、元祖「天照大御神」は、男性神であることが分かりました。
しかし、『日本書紀』の記述を読むかぎり、どうみても「天照大神」は女性神です。
なぜでしょうか。
どのようないきさつで、天武が意図した男性神「天照大御神」は、女性神「天照大神」に替えられたのでしょうか。
次に、そのいきさつをご紹介いたします。
天武は、「2度と皇位争いは起こすまい」と誓われた「吉野の盟約」に参加していた皇后(のちの持統天皇)とその子、草壁皇子(くさかべの みこ)に大権を託して、崩御されます。
しかし、天武直系の草壁皇子は、即位することなく薨御(こうぎょ)されました。
当時、まだ「万世一系」という概念も、また、その事実もなかったのが、ほんとうのところです。
草壁皇子が即位すれば、何の問題もなく「万世一系」の礎となったのですが、若くして薨御されたために、それが不可能になりました。
皇后(持統天皇)は、天武の「遺志」を現実するために、自ら称制をとり、ワンポイント・リリーフとして即位したのち、草壁の子、軽皇子(かるのみこ)へと、直系による皇位継承を図ります。
天武が考えた「万世一系」を実現し、平和の基(もとい)とするには、どうしても軽皇子を即位させなければなりません。
でなければ、編纂中の『日本書紀』そのものが有名無実化してしまいます。
彼らは、第41代持統天皇から「孫」の軽皇子(第42代文武天皇)への皇位継承の正当化を『日本書紀』によって図ったのです。
それが、女性神「天照大神」誕生の事由です。
『日本書紀』の3大編集方針を思い出していただきたいのですが、その大義は、2度と皇位争いが起きないようにして、国家の安定を図り、日本の独立を守ることです。
それを熟知する持統天皇をはじめ、天武の皇子で『日本書紀』編纂の総裁である舎人親王(とねりしんのう)、ならびに当代随一の知恵者、藤原不比等は、古代日本の女王に重ね合わせて、女性神「天照大神」を考案しました。
つまり、持統天皇は「天照大神」、文武天皇を「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」に置き換えて、「記紀」のハイライト、天孫降臨神話を描いたのです。
女帝「持統天皇」から孫「文武天皇」への皇位継承の正当化です。
神話では、高天原の「天照大神」は、孫の「瓊瓊杵尊」を地上の葦原中つ国(あしはら なかつくに)の「君主」として天降(も)りさせます。
それゆえ「持統天皇」の和風諡号は、「高天原広野姫天皇(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)」と申し上げます。
文武天皇の諡号は、2つあって、ひとつは「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよ おほぢの すめらみこと)、もうひとつは「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよ おほぢの すめらみこと」です。
24歳ほどで、若くして崩御されたにもかかわらず、「祖父(おほぢ)」と号されるのは、天孫降臨した「最初の現人神」=瓊瓊杵尊になぞらえているゆえです。
当時、このことは誰でも理解できました。
こうして、女帝から孫への皇位継承が大義をもって正当化されたのです。

One-Point ◆ 父、草壁皇子が薨御(こうぎょ)されたとき、7歳だった軽皇子は、15歳になって女帝からの史上初の禅譲を受け(注:女帝「皇極天皇」は架空です)、第42代「文武天皇」として即位されます。その文武も、わずか24歳ほどの若さで崩御され、異例中の異例、母、元明天皇(草壁妃)が第43代天皇として即位します。


《 誓約(うけい)の秘密 》

さて、「天照大神」を女性神に替えたことで、大きな「課題」が生じました。
このままでは、男性神である元祖「天照大御神」と、女性神である皇祖「天照大神」が並立してしまいます。
実際の歴史と、『日本書紀』の、つじつまが合わなくなるのです。
これでは、過去を知る当時の人々に対して説得力がありません。
最初に大和の国を治めていたのは、元祖「天照大御神」を祖とする「大已貴神」「大国主神」「饒速日命」といった男性(神)です。
しかし、神話では、上述したように「天照大神」を持統天皇になぞらえ、女性神にしてしまいました。
豪族たちにも、過去の伝承は残っているのです。
皇祖は「男性神」なのか「女性神」なのか、このままでは誰でも判断に迷い、マユにツバをします。
では、どのようにして舎人親王ら『日本書紀』編纂プロジェクトチームは、この矛盾を操作したのでしょうか。
答えは、「天照大神」と「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を誓約(うけい)させることによって、どちらにもとれるように交錯させたのです。
少し長い引用ですが、『日本書紀』からみてみましょう。

『日本書紀』「神代(上)」
天照大神がまた尋ねられ、「もしそれなら、お前の赤い心を何で証明するのか」と。
答えていわれる。
「(中略)もし私の生んだのが女だったら、汚い心があると思って下さい。もし男だったら清い心であるとして下さい」と。
そこで天照大神は、素戔嗚尊の十握(とつか)の剣を借りて3つに折って(中略)吹き出し、その細かい霧から生まれた神を、名づけて田心姫(たごりひめ)といった。次に湍津姫(たぎつひめ)。次に市杵嶋姫(いつきしまひめ)。
皆で三柱の神である。
素戔嗚尊は、天照大神がみずらと腕に巻いておられた、八坂瓊(やさかに)の五百箇の御統(みすまる)を乞われて(中略)噴き出し、そのこまかい霧から生まれた神を、名づけて(中略:豪族の先祖の神々など)。
皆で五柱の男神である。
このとき天照大神がおっしゃるのに、「その元を尋ねれば、八坂瓊の五百箇の御統は私の物である。だからこの五柱の男神は全部私の子である」と。
そこで引き取って養われた。
またいわれるのに、「その十握の剣は、素戔嗚尊のものである。だからこの三柱の神はことごとくお前の子である」と。
そして素戔嗚尊に授けられた。

これでは、素戔嗚尊が勝ったのか、負けたのか、意味が不明です。
誓約(うけい)の意味をなさないのです。
実は、誓約そのものに意味はなく、「交錯」させるための単なるエピソードです。
男性神、元祖「天照大御神」に連なり、かつなぞらえている「素戔嗚尊」の子孫と、女性神「天照大神」の子孫とを、どちらの系統か分からないようにゴチャ混ぜにしたものなのです。
史実と神話の矛盾が「誓約」によって解消され、両者は「交錯」したのです。
これによって、元祖「天照大御神」は、素戔嗚尊へとつながり、その子孫が史実どおりに、大和の国を先に平定していくことにできました。

One-Point ◆ 書いている意味はお分かりでしょうか。これによって、多くの謎が解き明かせます。日本古代史と『日本書紀』のつながりを解明しようとされている方々にとって、こんがらがっていた大きな謎がこれによって解けます。しかし、ほかにも史実を解明するヒントが、この誓約には秘められています。いずれ書く予定ですが、「三柱の神」として3人の姫を記していますが「三女神」とは記していないことです。


《 卑弥呼でもある「天照大神」 》

最後の「天照大神」は、多くの方が指摘していることなので、付け足しです。
神話の「天照大神」は、実在の倭の女王、邪馬台国の「卑弥呼」と、2代目女王「台与」にも重ねられています。
男性神「天照大御神」を、女性神「天照大神」に替えなければならない事情が生じたために、倭の「女王」の存在は都合がよく、うってつけでした。
では、神話の「天照大神」は、どこから卑弥呼や台与になったのでしょうか。
もちろん、誓約(うけい)後のお話で、具体的には天岩屋隠れによってです。
その証拠を挙げましょう。
『日本書紀』に描かれる天照大神は、素戔嗚尊との誓約(うけい)までは、「これは全部私の子である」と、勇敢に素戔嗚尊に対峙しています。
しかし、誓約後の天照大神は、織殿(はたどの)で神衣を織られています。
また、素戔嗚尊の言動におどろいて、織折(はたおり)の梭(ひ)で身体をそこなわれるなど、急速に女性化しています。
その結果、「もうイヤッ!」とばかりに「天の岩屋に入られて、磐戸(いわと)を閉じてこもってしまわれた」のです。
男性神から女性神への「キャラ変」です。
ちなみに“身体をそこなわれて、岩屋にこもった”という意味は、亡くなって石棺墓に葬られたことを意味しています。
俗称「魏志倭人伝」に記された「卑弥呼もって死す、大いに冢(つか)をつくる。径百余歩なり」です。
なので、卑弥呼や台与にも、「天照大神」はなぞらえられていることで間違いはありません。
ただし、卑弥呼や台与だけではなく、上述してまいりましたとおり、「天照大神」は複数の人物に当てられているのです。
まとめて書いておきます。

「天照大神」になぞらえられた人物
1、元祖天照大御神」…天武の意志による実質の初代。(実は九州系)
2、「素戔嗚尊饒速日命」…最初に大和国(本州国)を平定し治めていた人物。
3、「倭の女王(卑弥呼、台与)」…九州「倭国」と本州「大和」を結んだ象徴。
4、「持統天皇」…「万世一系」を実現するためになぞらえらた女帝。

結論を申し上げますと、「天照大神」は、九州「倭国」を含めた本州国「大和」の国々を統治してきた人物たちの「統合的象徴体」となっています。
これが重要です。
そのような人物たちを、「天照大神」として、「万世一系」の天皇につなげることで、すべての豪族や臣民たちが、「『日本書紀』の3大編集方針」どおりに、天皇のもとに一つにまとまることができます。
戦中のスローガンではありませんが、全員一丸、火の玉となって、日本を守ることができるのです。
ここでいう「火の玉」とは、当然、物質の火ではなく、「霊(ひ)の魂(たま)」、すなわち「心」=「精神」のことです。
魚宮の「民族性」と水瓶宮の「国体」による日本の原点「根本精神」、また「霊性」を象わしていることは、ご推察のとおりです。

One-Point ◆ 『日本書紀』では、素戔嗚尊は荒ぶる神で、「悪者」かのように描かれています。実際はそうではなく、祭祀と武力を兼ね備えた信心深く勇敢な人物です。『古事記』では、「建速須佐之男」(たけはや すさのお の みこと)と申し上げ、饒速日命(にぎ はやひの みこと)と同様に、「先に国を治めて建てた、“須佐”の男」という意味を持ちます。



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