宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

★ 建国記念の日 特別編9 ★
「シュメール起源説」の間違い
― 好戦的民族と平和的縄文人 ―

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「天皇シュメール起源説」は、戦前からまことしやかに流布されてきました。
戦後は、GHQによって関連本が“禁書”になり一時、下火になりました。
しかし、現在、海王星が「魚宮」を運行中ゆえに、再燃している状況です。

「スメラミコト」も「菊花紋章」も、実はシュメールとは無関係

↑ アッカドの王を描いた粘土板。
シュメール都市国家を支配下においた。


●第1稿 : 2019年 2月11日 アップ

※後日、リライトすることがあります。

伊予国(愛媛県今治市)一宮の「大山祇神社」(大三島)の元宮司・三島敦雄氏が、昭和2年12月に『天孫人種六千年史の研究』を発刊しました。
いわゆる「天皇シュメール起源説」の論証です。
当時は、まだシュメールについて詳しく知られておらず、まことしやかに「シュメール宇宙人起源説」を吹聴した人物の説と、現在、明らかになった実際の「シュメール」とのあいだには、乖離が生じています。


《 海王星と「シュメール」の発見 》

占星学から、「シュメール」の遺跡が発見された当時をみますと、“理想的事実誤認”のディレクションが働いていたことがわかります。

海王星の発見は「1846年」。

理想的社会主義をかかげて発表され、その後の世界を大混乱に陥れたマルクス、エンゲルスらの『共産党宣言』の発刊が2年後の「1848年」。

おなじく、世界的な心霊ブーム(神秘主義)のキッカケとなったフォックス姉妹の「ポルターガイスト事件」も「1848年」。

さらに、シュメールにかかわる古代都市「ニップル」が最初に発見されたのが「1851年」です。

その後も、メソポタミアではひきつづき都市遺跡(ラガシュ)が発掘され、今から142年前の1877年(明治10年、西郷の西南戦争が勃発した年)に「シュメール文明」の存在は、明らかになりました。

1846年〜1861年までの15年間は、海王星の発見と「魚宮」の運行によって、なにかと“事実誤認”や“誇大解釈”が起きやすく、あたかも人類の“理想の未来”が出現したかのように“勘違い”することが強まるディレクションの時期でした。

その理由は、発見されたばかりの「海王星」の象意を人類がまだ使いこなせなかったこともそうですし、上述の“幻想”をいだきやすい海王星の象意がもっとも顕著になる「時代的ディレクション」によって海王星は発見されたからです。

それゆえ、海王星と共鳴する「魚宮」の影響圏がはじまる水瓶宮25度の位置を逆行中のときに海王星は発見されました。
1846年9月23日のことです。

One-Point ◆ その後、163年が経った2009年、海王星はホロスコープを1周し発見された位置に戻りました。その3年後の2012年に「魚宮」に正式に再入宮しています。今年2019年現在は魚宮の真ん中あたりをトランシット中で、これは「魚宮」の象意を強め、“双魚宮時代のリバイバル”がもたらされるディレクションを意味します。同時に、人類が海王星の象意を使いこなせるように、“一歩前進”すべき事由から、逆に“共産主義問題”や“スピリチュアリズム問題”また“シュメール問題”や“芸能界問題”など「魚宮」や「海王星」にかかわるさまざまな出来事が生じてくることになります。


● 存在できない「惑星ニビル」

「シュメール宇宙人起源説」のゼカリア・シッチンによると、地球外生命体“アヌンナキ”が住んでいた「惑星ニビル」は、公転周期が3,600年だそうです。
そして、火星と木星の間にあった“惑星ティアマト”と衝突して、彗星、小惑星帯(アステロイド・ベルト)、地球を形成したと語っています。
どうやら、シッチンは、天体学の基礎さえ知らない素人のようです。
小惑星帯を通過する3,600年もの周期をもった“惑星”自体が天体学的に存在できません。
冥王星をはるかに超えるや長楕円軌道自体がありえないのです。
星の位置や軌道また周期は、星の質量(大きさ)などによって天体学(物理学)的に計算できます。
そこからみると、シッチンのいう「惑星ニビル」は天体学上、存在不可能だということです。
仮に、存在したとしても、それは生命体も住めないほどの小さな彗星になってしまいます。
つまり、シッチンは、“惑星ニビル”、“アヌンナキ”、“惑星ティアマト”、宇宙人が“シュメール文明を指導”などと、当時、最初の文明とされたシュメールにあてはめ、自らの「人類宇宙人起源説」にそってでっち上げたインチキ学者なのです。
           *
※唯一、事実とあっているのは、旧約聖書の記述がシュメールからきたという部分です。
ですが、それはシュメールだけでなく、シュメール以前のウバイド文化をはじめ、奈辺の神話を流用したものだといえます。

《 “作話師”の「ゼカリア・シッチン」 》

「シュメール文明」の本当の姿が明らかになるキッカケは、1920年代です。

「ニップル」や「ウル」また「ウルク」などのシュメール遺跡から、シュメール語で書かれた楔形文字や粘土板が多数出土したことによってです。

三島氏が『天孫人種六千年史の研究』を発刊するわずか7年前のことでした。

第三次中東戦争が起きた1967年になると、遺跡への立ち入りが禁止され、再びウルの発掘調査が開始されたのは、50年後の今から3年前、2016年のことでした。

今や“トンデモ学者”で知られる「ゼカリア・シッチン」(1920年〜2010年)は、シュメール語を読み解き、“ニビル”という惑星から45万年ほど前に地球にやってきた地球外生命体“アヌンナキ”という神々の指導によって、メソポタミアにシュメール文明が建設されたと、かたったのです。

事実を調べずに、なぜか信じこむ“不思議系”大好きのスピラー(スピリチュアリスト)たちが、“これら”にくいつきました。

書き直された偽書「竹内文書」などもふまえて、日本の起源はシュメールで、シュメールは宇宙人によるものなので、“日本人(人類)の起源は宇宙人だ”とする妄想を語りはじめたのです。

では、シュメール語を読み解いて“シュメール宇宙人起源説”を唱えた「ゼカリア・シッチン」なる人物は、信用できるでしょうか。

実は、シュメール語がまだよく知られていない初期のころ、自説の「人類宇宙人起源説」に都合がいいように、シュメール語を読み替えていたことが現在では明らかになっています。

たとえば、目視できる5つの惑星しか「ホロスコポス」(星を観察した時の見張り人)の民、カルデア人が知らなかったころ、シュメール人は現在のように冥王星までの9つの惑星を知っていたと主張したのもその一つです。

シッチンは、神の名前であるエンキを“海王星”と読み替えたり、水の神アプスーを“太陽”と解釈したり、同じくイシュタルを“女性飛行士”、シュメールの象徴ディンギルを“火を噴くロケット”と読み替えるなど、自説の「人類宇宙人起源説」に合わせて、シュメール文明を利用し、“シュメール宇宙人起源説”を吹聴したのです。

昨今では、シュメール語の解明がすすみ、シッチンのついた“ウソ”がバレています。

One-Point ◆ 海王星(発見)の影響を受けて発表された『共産党宣言』や心霊ブームのキッカケとなった「フォックス姉妹事件」と「シュメール宇宙人起源説」は、同じ構造をもっています。そういった“事実誤解”の影響を受けた『天孫人種六千年史の研究』による「天皇シュメール起源説」も、結局は“妄想”や“誇大解釈”また“事実誤認”といった勘違いからはじまったものなのです。当時の海王星の「星のディレクション」から、それらのことがみえてきます。


《 シュメールではなく「ウンサンギガ」 》

では、“天皇シュメール起源説”の間違いをみていきましょう。

古代日本語で天皇のことを「スメラミコト」と申し上げます。

シュメールも実際は「スメル」(Sumer)が正しいのですが、「スメラミコト」と誤解されないように「シュメール」と呼ぶようにしたものです。

三島氏によれば、「スメラ」はスメル(シュメール)の転訛で、「ミコト」は、ミグト(Migut)すなわち“天降る開拓者”(神)が転訛したもので、両者が合わさり「スメラミコト」になったと述べています。

つまり、“シュメールからの天降る開拓者”が「スメラミコト」だと考えて、「天皇シュメール起源説」の論証のひとつにしています。

この“ウソ”を見破るのは簡単です。

だれが、彼らを「シュメール」すなわち“葦の多い地域”と呼んだのかということです。

シュメール人は、自らのことを「ウンサンギガ」すなわち“黒い頭の民”と呼んでいました。

一方、ほかの民族は、チグリス・ユーフラテス川の下流域すなわち“葦の多い地域”に住む人々のことを、「シュメール人」(葦の多い地域の人)と呼んだのです。

そんなシュメール人が、仮に日本に“降臨”したとして、どうしてシュメールに敵対していた古代アッカドの言葉で「スメル」(シュメール)と呼ぶのでしょうか。

自らのことなので、“スメラミコト”ではなく、“ウンサンギガ・ミグト”と呼ぶはずです。

三原氏の当時は、シュメール語が粘土板で発見されてから7年ほどしか経っておらず、自らを「ウンサンギガ」と呼んでいたことを知るよしもなかったようです。

そのため、アッシリアやバビロニア人が古代アッカド語で「スメル」(シュメール)と呼んでいたものを、そのまま考証して発表したようです。

One-Point ◆ 古代日本にも、“葦の多い地域”があったのは事実です。たとえば、筑後川の下流域の築後平野、淀川下流域をふくめ、かつては入り江(河内湖)だった大阪平野、奈良盆地も古代は湖だったのでそうですし、東京も江戸時代までは葦が大量に生い茂る沼地がいたるところにありました。だからといって、それを“スメル”(シュメール)などとは呼びません。『日本書紀』に記されているように、”豊葦原”(とよあしはら)なのです。


● 「すばる」(プレアデス)

上の画像は、おうし座の「プレアデス」こと和名「すばる」の位置。
「プレアデス星団」は、1つの星に見えます。
下の画像は、「すばる」(プレアデス星団)の拡大です。
複数の星が集まっていて、日本では別名を「六連星」(むつらぼし)と言いますし、欧米では「セブン・シスターズ」(ギリシャ神話のプレイアデス七姉妹)と呼ばれることがあります。

《 「すめらみこと」の意味 》

では、「すめら」とは何でしょうか。

定説どおりに、「統(す)べる」(総べる)の転訛が「すめら」で間違いはありません。

おうし座の「プレアデス」のことを和名で「すばる」といいます。

中国から漢字が入ってきてのち、二十八宿(月の位置による区分)から“昴”の字かあてらるようになりました。

なぜ、「すばる」と呼んだのかと申し上げますと、ご存じのようにプレアデスは“プレアデス星団”とも呼ばれ、目のいい人なら6つ〜7つの星が集まって1つの星のように見えることから、「すばる」(統ばる)と呼んだわけです。

プレアデスは、別名「六連星」(むつらぼし)と呼ばれることがあることからわかるように、6つ〜7つの星が1つに統ばって(総ばって)見えることから「すばる」なのです。

もしかして、そういった“和”が「すばらしい」ことなのかもしれません。

同じように、日本各地の豪族たちを1つに統べる(総べる)貴いお方のことを「すめらみこと」と申し上げたわけです。

のちに漢字が入ってきて「大王」や「天皇」と記されるようになりましたが、「だいおう」や「てんのう」の一方で、日本式には「すめらみこと」が正解でした。

次に、なぜ「みこと」なのかというお話です。

これも簡単で、『日本書紀』の「神代」上巻に、次のように記されています。

”たいへん貴いお方は「尊」といい、それ以外のお方は「命」といい、ともに「みこと」とよむ”と。

One-Point ◆ 少し私見を開陳しておきますと、「かみ」(上、神)につかえる人のことを“みこ”と呼んだようです。たとえば、神社の巫女(みこ)もそうですし、大王や天皇の子、王子(みこ)や皇子(みこ)もそうです。「みこ」が成長して一人前の“人”(ひと:霊十)になると、「みこと」と呼ばれたのではないでしょうか。ヒミコの場合も「みこ」で、鬼道によって「霊」(ひ)を呼び込み、託宣をする霊媒能力もっていたことから、“霊の巫女”「ひ・みこ」と呼ばれたというお話です。


《 菊の紋章は「明治」になってから 》

次に、天皇家の「菊の御紋」についてです。

「天皇シュメール起源説」を言いつのる人々は、天皇家の紋章「十六八重表菊」がシュメールと同じだと主張し、論拠のひとつにしています。

たしかに、「菊花紋章」に似た文様が、古代のメソポタミアで使われていたのは事実です。
また、サダム・フセインがもちいていたことも知られています。

ですが、「菊花紋章」が天皇家の紋章と定められたのは、今年2019年からわずか150年前のことで、明治維新の翌年(1869年)に「太政官布告」が発布されてからです。

これ以降、天皇家以外に使用することはできなくなりました。
もっとも、戦後は許可を受けた神社などが使いはじめています。

なぜ、勘違いをしているのかというと、明治以降、天皇を“現人神”(あらひとがみ)と権威づける大々的なアピールによって、初代神武天皇の紀元前660年ころから、天皇は「菊花紋章」をつかっていたかのように誤解しているからです。

実際は、江戸時代には一般人がお菓子に「菊の御紋」を使っていましたし、天台宗の宗章としても「菊の御紋」は仏具などに用いられていました。

そもそも観賞用の「菊」が支那(China)から日本に入ってきたのは、奈良時代になってからです。

平安時代には「吉祥文様」として貴族などに好まれ、鎌倉時代になってようやく後鳥羽上皇(南朝)が“自らの印”として菊花紋章を愛用したのです。

南北朝並立ののちは「北朝」系天皇が江戸時代まで続きました。
そのため、南朝の天皇がもちいた「菊花紋章」は、江戸時代までほとんど使われていなかったといえます。

ところが、幕末期に尊皇思想が高まり、幕府と薩長のあいだで戦争になったとき、薩長側の岩倉具視卿が600年も前に後鳥羽上皇が「承久の乱」で授与されたとされる、だれも見たことがない「錦の御旗」(朝廷軍の旗)に「菊の御紋」をつかったことから、賊軍になるのをおそれた幕府に勝利し、「明治維新」に成功したことが大きいのです。

ということから、天皇家の「菊花紋章」は明治2年になって決定されましたので、シュメールの“菊型”にみえる「文様」とは、直接の関係はありません。

One-Point ◆ シュメールまたメソポタミアの”文様”は、一部に類似のものがみられますが、多くが日本とは逆に“花弁”にあたる部分が引っ込んでいたり、“矢車状”だったり、「菊」ではありません。シュメールの“菊型”の壁の文様にしても16花弁ではなく“20花弁型”になっているなど、支那(China)原産の「菊」が西欧に入ったのは18世紀ですし、紀元前のシュメールの時代に「菊」はなく、単に類似しているだけでまったくの別のものです。


● 壁画 : シュメールの軍隊

●上の画像「Sumerian war chariots on the attack:復元」は、戦闘用馬車「チャリオット」。
下の画像「Sumerian soldiers on the attack」は、武器を持ったシュメールの兵士たち。
いずれも、日本の平和な「縄文時代」とは、まるで異なるシュメール兵士の姿が残されています。

《 戦争民族と平和民族の時代 》

最後に、「シュメール文明」自体に、“誤解”や美化した“ウソ”が多くあります。

よく、どこからともなく現われて消えていった“世界最古の文明”などと紹介されているのですが、“誇張”です。

シュメール文明以前に、紀元前5,000年頃からウバイド文化がありました。
日本にはない彩色土器や都市型生活をしているなど、シュメールの前段となる文化が確認されています。

また、“シュメール”とひとくちいっても、実態は多国家で、それゆえ、かの地がめまぐるしく王朝や帝国が移り変わっていったように、シュメール内外も戦争が絶えませんでした。

シュメールの壁画に記された隊列を組んだ兵隊や、武具、戦闘用馬車「チャリオット」(Chariot)などをみてもわかるように、シュメール文明は戦争を繰り返していたのです。

そんなシュメール人が“日本人の先祖”として日本に来ていれば、平和で穏やかな芸術的創作にあふれた「縄文文明」を営んだはずがありません。

シュメールという場合、ウバイド文化以降、紀元前4,000年頃にはじまった「ウルク期」から、「ウル第三王朝時代」が滅びた紀元前2,000年直前までをいいます。

日本の三内丸山遺跡がちょうどこの頃で、6,500年〜6,000年前くらいの縄文時代前期中頃にはじまり、縄文中期末の2,500年前くらいまで続きました。

このような縄文時代に、好戦的なシュメールの痕跡がひとつでも残っているかというと、まったくの正反対です。

One-Point ◆ 念のために補足しておきます。日本に古代オリエントの影響が何度かあったのは事実です。ただし、それは「シュメール」ではなく、古代イスラエルをはじめフェニキアです。ユダヤの信仰の祖「アブラハム」はシュメール人の「サラ」を妻にして、イサクを生み、イサクの子が最初に「イスラエル」と名乗ったヤコブです。また、その後、古代イスラエル王国を築いた「ダビデ王」は、ヒッタイト人の「バテ・シバ」を妻にしてソロモン王が生まれています。そういった古代オリエントの影響が部分的ながら日本にあったゆえに、“シュメール”だと勘違いされているのです。
ちなみに、アブラハムや古代イスラエルの以前から、日本原住民となる縄文人がいました。「三内丸山遺跡」などもそうですが、それゆえ「日ユ同祖論」というのも間違いです。縄文晩期以降に、大小をとわず何度か影響があったということです。




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