宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
番外編:ヤマトタケルと武内宿禰
− つくられた4代の天皇と皇后 −

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九州を平定した「ヤマトタケル」武内宿禰は東征に向かう


●第1稿 : 2014年 5月12日アップ

4代の天皇や皇后に仕えたとされる武内宿禰は、確かに「長寿」ですが、200年も300年も生きたわけではありません。
実は、4代の天皇や皇后のほうが架空の存在で、彼は歴史の主人公「初代天皇(大王)」として人生を生き、活躍をしました。
しかし、後年、天智系天皇と藤原不比等によって、偉大な「功績」を秘匿されてしまいます。

《 つくられた4代の天皇 》

繰り返しますが、歴代天皇の中で、皇后までも含めれば、なんと4代も続いている箇所があります。
それは、私見ではなく、歴史学者も、天皇の名前や業績から「架空の天皇」だと認めている箇所です。
『古事記』でいえば、名前に「帯(たらし)」がつく天皇がそうです。
学者先生がおっしゃるには、「帯」というのは、7世紀頃の習慣なので、1世紀〜3世紀とされる天皇につくのはおかしいし、またその天皇が定めたとされる「国造」や「県主」、また「国境」は5〜7世紀前半の成立なので、「記紀」に記された業績からみても、つくられた天皇だというわけです。
ちなみに、すでに「占星学と解く日本成立史」でお伝えしましたとおり、『日本書紀』で和風諡号に「足(たらし)」がつく天皇や皇后は、すべてつくられた架空の天皇です。
今回のテーマ「ヤマトタケルと武内宿禰」にそっていえば、4代続いた架空の天皇や皇后は、次のようになります。

●4代続いた架空の天皇と皇后
歴  代 漢風諡号  『古事記』の諡号    『日本書紀』の和風諡号
第12代「景行天皇」……大日子淤斯呂和氣天皇…大彦忍代別天皇
第13代「成務天皇」……若日子天皇………………稚彦天皇
第14代「仲哀天皇」……中日子天皇………………仲彦天皇
応神の母「神功皇后」……息長日賣命………………気長姫尊


上述の天皇や皇后が架空の存在ですが、案外と有名どころが多いのです。
「記紀」の編纂者は、当然、事実を知ったうえで、架空の天皇を創作しています。
知ってはいましたが、絶対に、書くことができません。
書いたら自分のクビが飛びますし、また「記紀」すなわち『古事記』や『日本書紀』編纂の目的や意図に反してしまうので、やはり書けないのです。
そこで、史実を残したい「記紀」編纂者は、架空の天皇を創作する代わりに、名前(諡号:しごう)に「暗号」を残しました。
「帯(たらし)」や「足(たらし)」をつけることによって、架空の天皇であることを示したのです。

One-Point ◆ いずれも「和風諡号」のことです。8世紀中頃に「バレてはマズイ!」と思ったのかどうかはともかく、天智系天皇の一族、淡海三船(おうみのみふね)が、762年〜764年に、歴代天皇に対して「漢風諡号」を新たに定めました。現在では漢風諡号のほうが通称となり、分かりやすいのは事実です。ただし、ニセモノの天皇であることが分からなくなってしまいました。


●右上本文、「和風諡号」の読み

「和風諡号」の読みは、それぞれ以下のようになります。

景行天皇
大帯日子淤斯呂和氣天皇
「おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」

成務天皇
若帯日子天皇
「わかたらしひこのすめらみこと」

仲哀天皇
帯中日子天皇
「たらしなかつひこのすめらみこと」

神功皇后
息長帯日賣命
「おきながたらしひめのみこと」

※『日本書紀』の和風諡号も、読みは同じです。

《 和風諡号の「暗号」 》

つくられた架空の天皇や皇后の名前に残された「暗号」をご紹介いたします。
実は、「暗号」というほどのものではありません。
古代の人なら、誰でも分かる「言葉」だからです。
ところが、明治以降、『日本書紀』史観を絶対視するようになった現代人は、漢風諡号で歴代天皇を認識することもあって、4代にわたる有名な天皇や皇后が、つくられた架空だとは思わないし、もし思っていても、公然と発表するのを半ばはばかっているようです。
宝瓶宮時代は、真実があからさまになる時代なので、これらは、いずれ明らかになってまいります。
ではご紹介いたしましょう。
あまりにも単純なので、にわかには信じられないかもしれません。
まず、「占星学と解く日本成立史」の「その5:蘇我「天皇」政権の3代」に書いたとおり、『日本書紀』で「足(たらし)」がつく天皇は、文字どおり「付け足された」天皇を表わしており、つくられた架空の存在です。
足し算の「足す」という意味です。
次に、『古事記』で「帯(たらし)」がつく天皇や皇后がそうです。
こちらは、「たらし込んだ」天皇という意味です。
「人たらし」や「女たらし」という言葉をご存じですよね。
その「たらし(誑し)」です。
意味は、「言葉巧みに人をだますこと」です。
片や、「たらし込んだ」の意味で「帯(たらし)」、片や、「付け足した」の意で「足(たらし)」です。
同じ「たらし」という韻をふみながら、『古事記』も『日本書紀』も、いずれも架空の天皇や皇后であることを表現しています。
一つひとつの言葉(言霊)を大事にして歌を読んだ古人(いにしえびと)らしく、「イキ」ですよね。
なかなか「シャレ」が効いています。

One-Point ◆ 漢風諡号には、使われる漢字が決まっています。「上(美諡)」「中(平諡)」「下(悪諡)」とランクがあり、たとえば「美諡」であれば、「神」「聖」「武」「賢」など数十種の文字が使われます。和風諡号には厳密な決まりはありませんが、たとえ和風であっても、「足(あし)」という文字を使って命名するのは、実在の天皇に対しては失礼です。「帯」という文字にしても、本体ではなく付帯ものをさす言葉なのです。当時、あったかどうかわかりませんが、「帯に短し、たすきに長し」というくらい、あまり良い意味はないので、和風諡号といえども、実在の天皇の名前に使う漢字ではありません。


●武内宿禰は天皇(大王)だった

第13代「成務天皇紀」には、次のように記されています。

●『日本書紀』より抜粋
3年春1月7日、武内宿禰を大臣(おおおみ)とされた。
天皇と武内宿禰は同日生まれであって、そのためとくに可愛がられた。

古代の大臣(おおおみ)は、豪族たちのトップなので、現代の「総理大臣」にあたります。
さて、本文に記しましたように、「成務天皇」は「稚彦天皇」と諡号されることからもわかりますように、架空の天皇です。
ということは、この時代の実際の天皇(大王)は、誰でしょうか。
当然、武内宿禰なのです。
それゆえ、『日本書紀』には、「天皇と武内宿禰は同日生まれであって…」と、武内宿禰が天皇であることを暗喩しているのです。

《 当時の歴史の主人公 》

さて、ここで、誰にでも分かるご質問です。
上述の4代の天皇や皇后が、架空の存在であれば、では、その天皇に該当する時代、「記紀」は何を書き残したかったのでしょうか。
わざわざニセ天皇やニセ皇后をつくってまで、歴史として記録する必要があった「出来事」です。
当然、日本の歴史にとって重大な出来事です。
架空の「景行天皇」「成務天皇」「仲哀天皇」「神功皇后」の時代です。
その時代、本当は「誰」の「何」について記しているのかということです。
「記紀」を読み込んでおられる方なら、すぐにわかりますよね。
「ヤマトタケル」と「武内宿禰」です。
つまり、日本各地が「ヤマトタケル」によって平定されたのち、武内宿禰が、神功皇后や幼児の誉田別皇子(応神天皇)とともに、大和へ東征した、まさに歴史のエポックメイキングとなった時代が、これら架空の天皇や皇后の時代なのです。
番外編:神武天皇と武内宿禰」を読まれた方なら、すぐにおわかりだと思います。
実在の「神武」である武内宿禰(と応神天皇)が、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」から東征に至る時代と、その直前の時代なのです。
それらが、実際は武内宿禰によるもので、彼こそが日本を平定した天皇(大王)だということは、死んでも書けないのです。
「記紀」が記されたり上奏されたときの天智系天皇や藤原氏の手前、絶対に書けません。
ですが、これだけ重要な出来事は、「記紀」編纂者としては、何らかのカタチで書き残しておかなければなりません。
それゆえ、4代の架空の天皇や皇后を立てて、そのもとで「ヤマトタケル」と「武内宿禰」が動いたことにしたのです。

One-Point ◆ 『古事記』と『日本書紀』とでは、景行天皇とヤマトタケルに対する記録が違いすぎます。詳細は省きますが、そこから「記紀」編纂の違いがみてとれます。『古事記』は、文学的で格調は高いのですが、「対立」的な記述が多いのです。一方、『日本書紀』は、修飾を避けて淡々と記していますが、かなり善意で、「和」を大事にしています。ちなみに、天智系天皇と藤原氏に関して悪く書かないのはともかくとして、「権威づけ」があざとすぎるので、そのまま信じると、史実を見失います。

《 3人のヤマトタケル 》

さて、お話は上述で終わりではありません。
実は、「ヤマトタケル」なる人物そのものも、いわば「架空」なのです。
『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」、いずれも「やまとたけるのみこと」と読みますが、倭国を建国した人物、また日本を武で平定した人物ということがわかります。
それなら、「ヤマトタケル」が「初代天皇」であっても、おかしくはありません。
実は、ほとんど事実上、そうなのです。
ただし、「ヤマトタケル」とされた人物は、1人ではなく、2〜3人の実在の人物を、その実態が分からないように、1人にまとめたドラマ上の存在なのです。
『古事記』では3人、『日本書紀』では2人です。

1、九州を平定した「ヤマトタケル」
川上梟帥(かわかみのたける)の熊襲討伐を行い、九州を平定した「ヤマトタケル」は、実在の武内宿禰です。

2、出雲平定のモデル
出雲梟帥(いずもたける)を討伐し、出雲を平定した「ヤマトタケル」は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。
こちらは、やや古いので「ヤマトタケル」としては『古事記』にしか記されていません。

3、東国を平定した「ヤマトタケル」
最後に、東海や関東など、東国を天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)こと草薙剣(くさなぎのつるぎ)をもって平定した「ヤマトタケル」は、最初に大和(豊葦原中国)の国づくりを行なった、大已貴命(おおあなむちのみこと)です。

後者の2と3は、初代「神武天皇」の東征の前のお話として、「神代紀」に記されています。
別におかしいことではありません。
紀元前660年に即位されたとされる初代「神武天皇」は、当然、架空です。
であれば、「神代紀」のお話は、紀元前660年以前の出来事ではなく、実在した「初代天皇」(3世紀末)の直前の出来事なのです。
それを「高天原神話」として、紀元前のお話として記したのが「神代紀」で、実際は上でご紹介した架空の4代の天皇や皇后の時代、だいたい1〜3世紀頃の出来事がベースになっています。
もっとも、紀元前660年頃、つまり紀元前7世紀頃には、すでに日本(国東半島)には鉄器文化がありましたので、その時代をふまえて、「歴史」として書き残したものともいえます。
つまり、紀元前7世紀から実際に、日本には「王」の歴史があったのです。
ただ、その詳細な記録がないために、1世紀〜3世紀の実際の出来事をモデルにして、「神代紀」に投影して記したということです。
実際の東征は、「神功皇后」の時代、3世紀末に起こります。
それを架空の初代、紀元前660年即位の「神武天皇」の東征として記し、武内宿禰の「功績」を秘匿しました。
意味は、おわかりですか。
「神武天皇紀」と「神功皇后紀」は、「初代」をキーワードに、タイムスリップして重なっているのです。
それゆえ、お二人には、「神武」と「神功」、すなわち始祖を象わす「神」の文字を頭につけて、それを暗示しています。

One-Point ◆ ちなみに、うしろに「神」がつく第10代「崇神天皇」と第15代「応神天皇」は、実在の始祖です。すなわち、最初に「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」を治めた大已貴神(おおあなむちのかみ)、またの名を、大国主神、大物主神、大国霊神が、「崇神天皇」にあたります。一方、「応神天皇」は、九州から東征によって、大已貴神の「豊葦原中国」をゆずり受けた実在の初代ですが、実質は武内宿禰で、応神天皇(仁徳天皇)とのコンビネーションになります。


●「ヤマトタケル」の九州平定

『古事記』では、「ヤマトタケル」が、九州を平定します。
しかし、『日本書紀』では、「景行天皇」が先に九州を平定します。
その後、再び熊襲がそむいたので、「ヤマトタケル」に討たせたことになっています。
『日本書紀』は、前半期の「ヤマトタケル」こと、武内宿禰の功績を徹底的に隠したのです。
下図は、九州平定の経路とされる図です。

景行天皇の九州遠征

《 熊襲を討伐した武内宿禰 》

さて、実際に東征した実質上の「初代天皇」は、武内宿禰で間違いはありません。
もちろん、正統は、第15代「応神天皇」です。
ただ、東征時はまだ幼児でした。
お二人の関係は、祖父と孫、つまり武内宿禰の娘の子どもが「応神天皇」になります。
このお話は、機会がありましたら述べさせていただきます。
では、東征に至る経緯はどうなのでしょうか。
九州「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」から東征しますが、それには「九州平定」が大前提です。
でなければ、大和の「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」を目指すことはできません。
つまり、東征の直前に、九州を平定した「タマトタケル」が、武内宿禰なのです。
彼は、北部九州をまとめ、次に南九州の熊襲を討伐して、九州全体を平定したのち、日本平定に向けて「豊葦原中国」への東征を開始します。
ときは、西暦283年です。
なぜ、そんなことが分かるのかというと、「宝瓶宮占星学」だからです。
占星学では、倭国大乱から、卑弥呼の登場、その後の男王と台与の時代、また東征から日本平定にいたる一連の星の動きを把握しています。
これらの「星のディレクション」は、1世紀以上にわたって変化が大きく膨大なので、これも機会をみて、卑弥呼の時代をはじめとした史実を交えて、いずれ明らかにしたいと存じます。
お話を戻しますと、熊襲を討伐した「ヤマトタケル」が武内宿禰であることは、『日本書紀』自身からも読みとることができます。

『日本書紀』
●景行天皇紀:大足彦忍代別天皇より抜粋
(景行天皇の)2年春3月3日、播磨稲日大郎姫を皇后とされた。
后は2人の男子を生まれた。
第一を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二を小碓尊(おうすのみこと)という。
(中略)小碓尊は、またの名を日本童男(やまとおぐな)。また日本武尊(やまとたける)という。
(中略)3年春2月1日、(中略)屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)は、阿備の柏原にいて神祇を祀った。
そこに9年住まわれた。紀直の先祖莵道彦(うじひこ)の女影媛(かげひめ)を娶とって、武内宿禰を生ませた。
…途中略…
(景行天皇の27年)冬10月13日、日本武尊を遣わして、熊襲(くまそ)を討たせた。このとき、年は16歳。

さて、上述の引用文の中に、計算が合わない箇所かあるのをお気づきでしょうか。
日本武尊は、景行天皇の27年、16歳のとき熊襲討伐を行ないます。
小碓尊、またの名を「日本武尊」は、景行天皇の2年の生まれです。
景行天皇の27年には、25歳になっていなければなりません。
9歳、計算が合いません。
実は、景行天皇の2年に生まれた小碓尊こと「日本武尊」は、後年、草薙剣をもって東国を平定した後半期の「ヤマトタケル」のことで、大已貴命(おおあなむちのみこと)なのです。
では、「このとき、年は16歳」という熊襲を討伐した「ヤマトタケル」は、いったい誰なのでしょうか。
ちゃんと『日本書記』に書いています。
小碓尊に遅れること、武雄心命が阿備の柏原に9年住まわれて生んだ武内宿禰こそが、このとき16歳なのです。
つまり、熊襲を討伐した前半期の「ヤマトタケル」は、武内宿禰です。
表記ミスではなく、「記紀」編纂時の権力者の手前、武内宿禰だとは絶対に書けませんので、工夫して、史実が分かるように残しているのです。
「武(たけ)」は九州、「内(うち)」はそのまま内、「宿禰(すくね)」は「主」や「王」のことなので、「武内宿禰」という名前は、九州を平定した「九州王」という意味が込められていることからも、それが分かります。
また、『古事記』が記す「倭建命(やまとたけるのみこと)」つまり九州「倭国」を建国したという名前と「武内宿禰」は、同じ意味なのです。

One-Point ◆ ちなみに、武内宿禰は通称「黒男様(くろどん=黒男殿)」と呼ばれています。武内宿禰を祀る「黒男神社」は、有名なところでは、大分県の宇佐神宮の入り口、大鳥居の傍にありますし、ほかにも福岡県粕屋郡久山町の約1,800年の歴史を持つ「黒男神社」や、同じく福岡県の大野城市にもあります。マイナーなところでは、大分県日田市にも隠れた黒男殿神社があります。こちらは別名「玉垂神社」とも呼ばれています。他にも武内宿禰の母影媛を祀る佐賀県武雄市の「黒尾神社」(武内宿禰や武雄心命を祀る「武雄神社」の外宮)や、国東半島にも武内宿禰を祀る「黒雄神社」が確認できます。


『古事記』にみる蘇我氏の由緒

孝元天皇…第8代
大倭根子日子國玖琉命
「おほやまとねこひこくにくるのみこと」

比古布都押の信の命
「ひこふつおしのまことのみこと」
※『日本書紀』では屋主忍男武雄心命
「やぬしおしおたけおごころのみこと」

建内の宿禰
「たけのうちのすくね」
※『日本書紀』では武内宿禰。

蘇賀の石河の宿禰
「そがのいしかわのすくね」
※『日本書紀』では蘇我石川宿禰。

蘇我本宗家
……、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿/「乙巳の変」で滅亡。

《 武内宿禰の系譜 》

『日本書紀』には、当然のように、蘇我氏が武内宿禰と関係することは、いっさい記されていません。
なぜなら、『日本書紀』編纂時の天智系天皇と藤原不比等の父祖、中大兄(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が、蘇我入鹿(大王)を弑した「乙巳の変」で、蘇我氏を滅ぼしてしまったからです。
知らなかったとはいえ、蘇我氏は九州「倭国」の大王家で、実質の「初代天皇」である武内宿禰を先祖に持つ、由緒ある一族です。
そんな蘇我大王家を、父祖が弑逆して滅ぼしてしまったことが『日本書紀』によって知れ渡れば、彼らは権力の座を失うどころではなく、永遠に「逆賊」呼ばわりされてしまいます。
藤原不比等は、『日本書紀』編纂の総裁だった舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の皇子)に働きかけ、以降も、藤原一族は、必死になって隠蔽工作を行ないます。
『日本書紀』の記述にそって、各地に伝説をつくらせて既成事実化しようとしたり、地名を変更したり、神社に「記紀」にそった神々を新たに祀らせたり、最後は「風土記」の一部を書き変えることさえ命じています。
そういった「記紀」以降、つまりは、後の世に「記紀」に由来して創作された伝承や地名、または神社のご祭神やご由緒や、残された「風土記」の記述を、まるまる頭から信じると、史実が見えなくなってしまうのは、お察しのとおりです。
結局、『日本書紀』からは、蘇我氏の由緒や功績は徹底的に隠されました。
もちろん、武内宿禰の「功績」は、真っ先に秘匿され、架空の「景行天皇」や「ヤマトタケル」の功績にされてしまいます。
しかし、『古事記』には、かろうじて次のように記されています。

『古事記』
●孝元天皇:大倭根子日子國玖琉命より抜粋
大倭根子日子國玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命、(中略)また内色許男(うつしこを)の命が女、伊迦賀色許賣(いかがしこめ)の命に娶ひて、生みませる御子、比古布都押(ひこふつおし)の信(まこと)の命一柱。
(中略)比古布都押の信の命、(中略)また木の國の造が祖、宇豆比古が妹、山下影日賣に娶ひて、生みませる子、建内の宿禰。
この建内の宿禰の子、あはせて九人(男七柱、女二柱)。
波多の八代の宿禰は、波多の臣、林の臣、波美の臣、星川の臣、淡海の臣、長谷部の君が祖なり。
次に許勢の小柄の宿禰は、許勢の臣、雀部の臣、輕部の臣が祖なり。
次に蘇賀の石河の宿禰は、蘇我の臣、川邊の臣、田中の臣、高向の臣、小治田の臣、櫻井の臣、岸田の臣等が祖なり。(以下略)

第8代「孝元天皇」の皇子「比古布都押の信の命」が、建内の宿禰(武内宿禰)の父親だと記されています。
『日本書記』でいう「屋主忍男武雄心命」です。
武内宿禰は、「七柱」の男子を生みますが、その一人が「蘇賀の石河の宿禰」、『日本書紀』でいう「蘇我石川宿禰」で、蘇我氏らの祖だと記されています。
蘇我氏は、武内宿禰や孝元天皇を先祖とする由緒を持つのです。
それゆえ、蘇我氏が九州「倭国」の大王家で、アメノタリシヒコ大王が蘇我馬子であっても、決しておかしくはありません。
ですが、上述の「記紀」には、さらに重大な意味があります。
まず、武内宿禰の子を「柱」と表現すること自体、尋常ではありません。
単なる臣下ではなく、「皇統」の扱いなのです。
「柱」というのは、「神」のことを表わす言葉だからです。
それもそうですが、「記紀」というのは、「天皇は万世一系」にして、永々と続く皇統ゆえに「天皇」であることを本旨とします。
つまり、端的にいえば、歴史的な出来事の記述などはどうでもよく、「皇統」を明らかに記すことが、「記紀」の第一義の意義と価値なのです。
その皇統以外の臣下の生まれはもちろん、臣下の系譜などを記す必要は、どこにもありません。
ところが、武内宿禰に関しては、「記紀」ともに、父祖はもちろん、子や一族までも書き残しているのです。
意味がおわかりでしょうか。
4代の天皇や皇后は架空でも、九州を平定した「ヤマトタケル」こと武内宿禰は、間違いのない実在で、実質上の東征した「初代天皇(大王)」であるゆえに、その大王の系譜は、ちゃんと書き残しておかざるをえないのです。

One-Point ◆ 畿内が出自で、歴史も古くなく、権力しか見えなった中大兄と中臣鎌足は、九州「倭国」からきて、推古天皇を輔弼(ほひつ)し、実質政務を執った蘇我氏の正しい由緒を知りませんでした。「乙巳の変」ののち、蘇我氏の甘樫丘の宮殿に残された文書によって、はじめてその由緒の正しさを知ります。それゆえ「乙巳の変」のとき、蘇我氏が自ら文書を焼いたことにしました。「証拠隠滅」を図ったのです。しかし、実際には、文書は重要な財産なので、持ち帰り、後年、『日本書紀』編纂の資料になったのは、ほぼ確実視できます。それも平安時代には、本当に焼却されたようです。



※「卑弥呼」と「武内宿禰」のかかわりも書く予定でしたが、すでに分量が多くなってしまいました。 いずれ、「星のディレクション」を交えた「邪馬台国」の時代や、「東征」のときの「星の動き」などもお届けして、古代日本の成立を明らかにすることを考えていますので、そのさいにでもご紹介したいと存じます。



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