宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
参考:「邪馬台国」と「邪馬壱国」
− 「台与」なのか、それとも「壱与」か −

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どちらが正しい表記か拙文を読まれてご判断ください


●第1稿 : 2014年 5月20日アップ

このサイトでは、一貫して「邪馬国」や「与」と表記しています。
もちろん、根拠があるからです。
ところが最近、ときどき「邪馬国」や「与」と書かれた一文を目にするようになりました。
では、本当のところはどうなのでしょうか。

《 「壱」と記されているのに 》

かつてより定説は、「邪馬台国」であり「台与」でした。
ところが、最近は、「台」ではなく「壱」が正しく、「邪馬壱国」や「壱与」だという人々が増えてきました。
その根拠は、誰もが知っている通称「魏志倭人伝」こと、正式名称『三国志』の中の「魏書 第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の中に、ちゃんと「邪馬壱国」(1か所)また「壱与」(3か所)と記されているからだというわけです。
そんなことは、とうのむかしから中国も含めた歴史学者はご存じです。
にもかかわらず、「邪馬台国」や「台与」としてきたのです。
不思議に思われませんか。
古代の数々の文献を研究した学者先生方が、「魏志倭人伝」の中には、ちゃんと「壱」と記されていることを知ったうえで、なおかつ「邪馬台国」や「台与」と呼んできたのです。
「魏志倭人伝」の作者は、陳寿(233年〜297年)。
その完成は、265年に魏が滅んだ約20年後の280年〜290年の間。
しかし、「原本」は残っていません。
最も古いのは、12世紀の写本、「紹興本」と「紹煕本」の2つです。
それらは、いずれも「壱」と記されています。
もちろん、誤写ではなく、陳寿が記した3世紀の原本の「倭人条」には「壱」と記されていたのです。
にもかかわらず、これまでずっと「邪馬台国」や「台与」を定説としてきました。
それで異をとなえる人は、かつてはいなかったのです。
ところが、近年の古代史ブームのゆえか、「古代史マニア」ともいうべき方々がふえて、ブログやサイトなどで「壱」が正しいと自信をもって書いていたりします。

One-Point ◆ では、かつて「邪馬台国」や「台与」と結論づけた古(いにしえ)の歴史学者のほうが間違っているのでしょうか。歴史学者には「台」が正しいと結論した理由があるのです。一方、古代史マニアの場合、一般的に申し上げますと、F氏が書いた『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎―』(1971)というセンセーショナルなタイトルの書籍の一説を、他の検証をすることなく信じているようです。

《 悪字をあてた中国人 》

では、「台」ではなく「壱」が正しいとする方々の理由を挙げておきます。
卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」の中に、ちゃんと「邪馬壱国」また「壱与」と記されているということが第1点です。
第2点は、「台」ではありえない理由として、自分たちこそが文化の中心だとする尊大な中華思想を持つ中国人が、日本人が「ひ・み・こ」と発音したのを、「卑」「弥」「呼」という字を使って表わし、「やま(た)い国」を「邪」「馬」という字を使って書き表わしているように、「(た)い」も、当然、天子の宮殿などを表わす「台(たい)」ではなく「壱(い)」であって当然だ、それで間違いはないというわけです。
なので、「邪馬台国」はなかった「邪馬壱国」があった、「台与」ではなく「壱与」が存在したというわけです。
理屈は、間違っていません。
しかし、そこまでお分かりなら、もう一歩踏み込んで、全体を検証してお考えにならなければなりません。
古代中国人は、たしかに、東夷(東の野蛮人の意)の倭人に対しては、志賀島や博多湾岸にあった「なこく」を、奴隷の「奴」の字を使って「奴国」と書き表わしたように、華外の蛮族に対しては、決して美しい意味を持つ字を用いません。
ちなみに、「漢委奴国王」という金印の印刻も、どうみても「漢が委ねる奴国の王(漢に従う奴国王)」としか読めません。
それを「委」は「倭」の略字だとか、「奴国」ではなく「委奴国」だと詭弁を弄して解釈してみても、事実は、漢は「奴国」を奴隷国、すなわち「属国」としてみていたのです。
その点では、約200年後の卑弥呼は、「親魏倭王」の金印を受けたと記されています。
これを「魏に親(ちか)しい」と読んでもいいのですが、「親(おや)」というダブル・ミーニングを込めて、儒教的に子は親に従うべしといった「倭王」を子の立場において取り込んでいることがわかります。
さて、F氏は、「台」という文字は皇帝(天子)の住む場所を表わすので、倭人の国名に使うはずがない。
よって、「邪馬台国」や「台与」は間違いで、陳寿がまとめた「倭人伝」の表記どおり、「壱」が正しいといった説明をしていたように記憶しています。
理は、通っているのです。
作者の陳寿は、たしかにそうしました。
では、日本人は、女王が都するところを「やまたい」国ではなく、「やまい」国と呼んでいたのでしょうか。
ここに中国人も「悪評」する陳寿の「問題点」があるのです。

One-Point ◆ 当時の日本人が「やまい」国や「いよ」と言っていたのなら、陳寿が正しいことになります。しかし、残念ながら、正解は、陳寿が記録を無視して、国名や人名の「台」を、「壱」に勝手に書き変えたのです。日本人は「やまたい」国や「とよ」と発音していました。証拠は後述しますが、陳寿の「倭人条」以外の古い文献は、「邪馬台国(邪馬臺國)」であり、「台与(臺與)」であることからも、それがわかります。


●「倭人条」の「邪馬壹國」表記

「魏志倭人伝」

画像は「魏志倭人伝(倭人条)」に「邪馬壹國(壱)」と記された部分。
12世紀の写本「紹煕本」。
これらの写本、12世紀以降は「邪馬壱国」や「邪靡惟」また「壱与」と記されることもあります。
「邪馬台国」や「台与」と記された古い文献を照合せず、そのまま引用したからです。

《 陳寿の作為 》

陳寿は、「魏志倭人伝」こと「倭人条」を、実際に倭国を訪れて報告した人の記録や、倭国からの使者に対面した記録を参考にしてまとめました。
陳寿自身は、日本に来たことはないのです。
彼が典拠にした文献には、「邪馬台国」や「台与」と書かれています。
それを陳寿は、F氏が考察した理由によって「壱」に変えたのです。
なので、「魏志倭人伝」に記された「壱」のほうが、実は例外で、陳寿が資料として用いた『魏略』も、その後の古代中国の文献も、「邪馬台国」また「台与」や、それに類する表記になっています。
古代の歴史学者たちは、当時残っていた文献を検証をしたうえで、「倭人条」に記された「壱」は意図的な書き換えで、元の文献どおり、「台」のほうが正しいと結論して「邪馬台国」や「台与」と記しているのです。
それが、正解です。
なぜなら、邪馬台国(やまたい、ヤマドィ、ヤマド)や台与(とよ)といった呼称でなければ、日本史がつながりません。
「大和」と書いて、だれも「やまと」とは読めないのです。
九州の「邪馬台国」がいわば「小和」といえる北部九州連合で、各豪族が女王・卑弥呼を共立して「和」によって統治する政治形態を編み出しました。
そのパターンを、大王(天皇)を中心とした日本全国の統治に転用したのが、「大和(やまと)」だからです。
九州の「邪馬台国(やまたい)」と、日本全体の「大和(やまと)」は、実は同じ意味を持つのです。
また、『古事記』や『日本書紀』の重要な歴史的な人物や天皇に、「豊(とよ)」という名前が多くつくのも、邪馬台国の2代目女王「台与」と無関係ではないのです。
学問を抜きに、そういった歴史のつながりからみても、「邪馬台国」や「台与」でなければなりません。

One-Point ◆ まあ、どうお考えになられようと、それはご自由です。信教の自由もありますので、どの壱説を信じてもかまいません。また、他人の権利を不当に侵害しないかぎり、表現の自由は保障されていますので、いいのです。ただ、その責任は、自分自身が受けなければなりません。自身の言論によって、自分がどう見られるかは覚悟したうえで表現することです。


●国宝『翰苑』複製(倭国部分)

『翰苑』レプリカ

福岡の太宰府天満宮に所蔵されている国宝『翰苑』の複製(画像上)。
倭国の部のみで、レプリカは3万円で販売しています。

《 古代文献をあたる 》

順番が前後しましたが、古代文献で「台(臺)」と記されている原本をご紹介しておきます。
陳寿も参考にした、邪馬台国時代の倭国に関する記述が多く残る3世紀中頃の書が、魚豢(ぎょかく)の『魏略』(ぎりゃく)です。
原本は散逸して残っていませんが、その逸文(引用文)の一つが、福岡の太宰府天満宮に残っています。
唯一、現存する『翰苑』(かんえん)がそれです。

『翰苑』より抜粋
『魏略』にあった本文部分
「鎮馬 以建都」…邪馬台国を以って都を建てる。
○上記部分の『翰苑』自体の注釈
「其大倭王治邦」…その大倭王は(邪馬)台で治める。

『魏略』にあった本文部分
臺與幼歯方諧衆望」…台与は幼なく衆望にかなう。
○上記部分の『翰苑』自体の注釈
「名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女臺與 年十三爲王 國中遂定」…名は卑弥呼という。死してさらに男王を立てる。国中不服。さらに相誅殺。再び卑弥呼の宗女台与を立て十三歳を王となす。国中ついに定まる。

※参考:この一文は陳寿の「倭人条」では、「再び卑弥呼の宗女壱与を立て…」と記されています。
つまり、『魏略』では、もともと「馬臺」「邦臺」(邪馬台国)や「臺與」(台与)と記されていたのです。
それを陳寿は、「台」を自分の考えによって「壱」に変え、「邪馬壱国」や「壱与」と「倭人伝」に記します。

『後漢書』…5世紀前半
「其大倭王居邪馬國」…その大倭王は邪馬台国に居す。

『梁書』…7世紀前半
「又南水行十日 陸行一月日 至邪馬國 即倭王所居」…また南に水行十日陸行一月、邪馬台国に至る。すなわち倭王の居すところ。
「復立卑彌呼宗女臺與為王」…ふたたび卑弥呼の宗女台与を王となす。

『隋書』倭国伝…7世紀
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬者也」…都を邪靡堆(やまたい)におく。『魏志』におけるいわゆる邪馬台国なり。

以下、同様に『北史』『太平御覧』 なども「邪馬台国」です。
これらの正史を著した古の中国人は、「倭人伝」に「壱」と記録されていたことを承知しながら、それ以外の文献や記録を考証して、「邪馬台国」や「台与」と訂正して書き残しているのです。
つまり、「倭人条」は「壱」でありながら、のちの世の正史においては、中国人自身が「邪馬台国」また「台与」と記しているのです。
陳寿の「倭人伝」を、中国人自身が信用していないのです。
なので、後世の人々が「壱」を「邪馬台国」に書き改めたのではなく、陳寿が勝手に「壱」に書き変えたものを、元に戻したのです。
古代日本人は、「やまたい」国また「とよ」と呼んでいたことで間違いありません。

One-Point ◆ まず、大きく全体像をつかんだうえで、そこから細部を押さえていかないと、壱説のみを信じると、憶測や珍説に迷い込んでしまいます。「占星学と解く日本成立史」は、星のディレクションからまず大きく全体像をつかんだうえで、そのバックボーンに基づいて、「細部」を検証して、お届けしています。

《 「台」は「しもべ」の意味 》

さて、最後にダメ押しをしておきます。
尊大な中華思想を持つ中国人が、「や・ま・た・い」を「邪」「馬」「台」と当て字したのです。
たしかに、「台」は、天子の宮殿また直属の中央政庁を意味します。
ですが、「台」には、天子そのものではなく、「しもべ」といった読みがあることを知らなければなりません。
それは、「ウィクショナリー日本語版-臺」の訓読み欄にも、「うてな」「しもべ」「つかさ」などと読むことが記されています。
それゆえ「邪馬台国」であっても、中国の属国また冊封体制下にある「しもべ」の国として表現できます。
このへんは、中国人お得意のダブル・ミーニングが込められています。
しかし、身びいきの強い陳寿だけは、「台」を使うことを嫌ったのです。
彼は、自分に便宜を図ってくれた人物や国家、つまり味方や身内のことは、良く書きますが、そうでない人や国に対しては、蔑視(憎悪)して記録するといった「悪評」が中国に残っています。
客観的な史述家とはいえず、史実を無視して、勝手に「国名」や「人名」を変えてしまう偏った記述をする人物なのです。
「倭人条」の最後に、台与が魏に使いを送ったときの記述があります。
「よって台(臺:天子の宮殿また直属の中央政庁)に至り」です。
彼にとって、魏は「親」も同然の正統な国で、その天子(皇帝)が住む宮殿また直属の中央政庁を「台」と記すゆえに、同じ文字を東夷の倭人の国名や人物名に使うことを嫌い、発音も似たところのある「壹(壱)」に変えたのです。

One-Point ◆ 中国では、皇帝と同じ「字」が自分にあれば、自分の名前を別の字に変えていた時期があります。そういった文化があったので、陳寿も「台」を倭人に使うことを避けたのです。ただやみくもに信じてしまったり、価値ある説のように思ってしまうと、間違うことがあるのは日常茶飯事です。純粋さや人の好さは美しい精神につながるのですが、こと中国に対しては、やはり相手を見ないと、「友愛」の通じない「権謀術数」を使う相手にさえ、「友愛幻想」で接してしまうどこかの国の元首相のようになってしまいかねません。



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