宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
特別編:「卑弥呼と邪馬台国の誤解」
− 無意識のうちに思い込んでいる“幻想” −

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邪馬台国への「誤解」を解けば日本の古代史がみえる?

↑ 「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)
画像は、奇跡的に残っていた模様の一部をもとにCGで復元したもので、実物は国の重要文化財に指定されています。
2〜3世紀の支那(中国)製の鉄鏡で、金、銀、ルビー、トルコ石、ヒスイ、水晶などがはめ込まれており、支那(中国)でも鉄鏡は王族しか持てないといわれ、一説では九州に逃げてきた「王族の鏡」とも、また「卑弥呼の鏡」とも推測されています。
大分県日田市の古墳から1933年に発見されました。


●第1稿 : 2017年 3月18日アップ

この記事は、「宝瓶宮占星学のクオリアルな観点からの過去・現在・未来のホロスコープ」に掲載した短文を一つにまとめて、加筆修正したものです。
当該短文は、本サイトの「占星学と解く「日本成立史」」また「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を適時アップしていく記事の中で、“「邪馬台国」の誤解”と題する5回に分けて掲載したものです。

《 「邪馬台国」への誤解 》

多分、多くの人が「邪馬台国」を誤解しています。
「卑弥呼」に対してもそうですが、日本のはじまりが邪馬台国だという“誤解”です。

たしかに、日本の国体「水瓶宮」、すなわち天皇を象徴としていただく国民平等の“和”や“絆”の精神からみれば、2〜3世紀の卑弥呼の「倭国」を原点としますが、“国”自体をみれば、けっして邪馬台国がはじまりではありません。

支那(中国)の歴史書に記されたもっとも古い「日本」に関する記録が、卑弥呼の「邪馬台国」、いわゆる「倭国」(わこく=当時の女王国)であるために、日本のはじまりが「邪馬台国」であると思い込んでいるのです。

実際には間違いです。

あくまでも「魏志倭人伝」に日本に関する最初の記述として、卑弥呼の「邪馬台国」の記録が残ってるというだけです。

「魏志倭人伝」は、ご存じのように、正式には『三国志』の中の「魏書」第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」の最後に記される「倭人」条のことです。
それが日本に関するもっとも古い記述であるために、日本のはじまりは「邪馬台国」だと勘違いしているのです。

しかし、記録に残っている最古のものだからといって、それが実際にもっとも古い国だったということにはなりません。
事実、考古学からみても、記録に残らない日本の古い歴史は多々あります。
邪馬台国以前に、日本の各地方に数々の“国”と歴史があったことは、遺構などからわかっているのです。

『日本書紀』をみても、天孫一族に国譲りをした国があったことが書かれていますし、いわゆる大国主(おおくにぬし)の本州“大国主連合”(仮称)などは、その一つです。
さらに古くは、縄文のイメージをくつがえし、縄文時代に千年近くも定住生活をしていたことがわかって世界からも注目されている青森の「三内丸山遺跡」などの国(集落)もそうです。

そういったことからも、「邪馬台国」がもっとも古い日本の“国家”だということにはなりません。
このことが考古学からも充分に理解できると、日本のはじまりが「邪馬台国」(女王の都)ではなかったことが明確にみえてきます。

つまり、いくら“前方後円墳”が発見されようとも、それが日本のはじまりということにはならないのです。

まして、邪馬台国が統一大和のはじまりでもありません。
7世紀の統一大和の御陵(みささぎ=天皇の墓)が、前方後円墳ではないことからも、それがいえるというわけです。

また、日本各地に前方後円墳が広がろうと、それが4〜6世紀の「原初」統一大和にかかわる出来事だったとしても、そのことが2〜3世紀の邪馬台国を女王の都とした「倭国」(女王国)とイコールにはならないということも当然です。


One-Point ◆ 「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の墓は、「径百余歩なり」と記されています。このことから卑弥呼の墓は「円墳」であることがわかります。また、当時の倭国の墓葬については、「棺あれども槨(かく)なし」と記されていることから、前方後円墳にみられるような「槨」(石室)はありませんでした。むしろ2〜3世紀以前の九州にみられる「棺」を直接土中に埋めた「甕棺墓」と同じ様式です。ちなみに、最初に7世紀の統一大和にさいして「天皇」と名乗った天武天皇の御陵は「八角形」で、箸墓古墳のような前方後円墳ではありませんでした。

《 「邪馬壱国」はなかった 》

まず、邪馬台国の根本問題に触れておきます。
国号は、「邪馬国」か「邪馬国」か、という問題です。

俗称「魏志倭人伝」では、女王が都するところ「邪馬国」(壱=原書は「壹」)と記されています。
つまり、「やまこく」です。

しかし、すこしややこしいのですが、魏志倭人伝のあとに書かれた『後漢書』は、魏志倭人伝の『三国志』の前の時代を記した支那(シナ)の歴史書ですが、その「東夷列伝」の「倭」条には、ちゃんと「邪馬国」(台=原書は「臺」)と書かれています。
つまり、「やまたいこく」に修正されているのです。

『後漢書』を記した南朝宋の范曄は、「魏志倭人伝」を記した陳寿の「邪馬国」という表記を信用せずに、改めて「邪馬台国」と書き残しているのです。

実際、陳寿が「魏志倭人伝」を書くために参考にした文献をみても、「邪馬台国」でした。
それを、陳寿は身びいきから、かってに「邪馬国」と書き換えたわけです。

古代史研究家の古田武彦氏の著書『「邪馬台国」はなかった』という題名も、陳寿の記録は「邪馬国」になっているということを言いたかったようですが、出版社(編集者)が「あえて誤解されるセンセーショナルなタイトルをつけたというお話です。

二流、三流の編集者は、“タイトルマッチ”などといって、そういった売らんかなの“サギ”まがいのタイトルを「陰謀論好きな人」「都市伝説好きな人」、要は「信じやすい人」に向けてつけることがありますので、注意が必要です。

結論として、陳寿の魏志倭人伝はたしかに「邪馬国」と記されていますが、それは陳寿が意図的に「台」(臺:うてな)の字を東夷(東の野蛮人の意)の「倭国」に使うことを避けただけで、実際には「邪馬台国」だったのです。

陳寿が浅はかなのは、「台」(臺:うてな)という字は「皇帝」そのものをさすわけではなく、その配下の府(役所)や“しもべ”などの意味をふくみますので、「邪馬台国」と書いても、ちゃんと皇帝の属国という意味になります。
それを知っていながら、それでも台(臺)の字を避けて、わざわざ壱(壹)にしたことです。

ということから、尊大な“中国人”の意図からみても、「邪馬台国」で間違ってはいないのです。


One-Point ◆ この項は、「占星学から解く日本の原点」シリーズに書いた記事「参考:「邪馬台国」と「邪馬壱国」」を要約しました。詳しい論拠をお知りになりたい方はご参照ください。陳寿が参考にしたとされる原書に関する記載も掲載しております。


●「支那」(シナ)と「中国」の違い

もう一つの“誤解”です。
「中国」というのは、共産党独裁による現在の「中華人民共和国」の略称です。
なので、それ以前の「清」や古代の「秦」「漢」「魏」「晋」…また「元」などは、本来「中国」とはいいません。
事実、19世紀頃までは、「清国」また「清国人」と呼んでいて、“中国人”といった呼びかたはなかったのです。
その清が滅びたこともあり、歴史的に国号が異なる当該地域を呼称するときに、世界では伝統的に「China」と呼ばれていたこともあって、学術的にも「支那」(シナ)と呼称するようになりました。
なので、そこに住む人々を総称していえば支那人(シナ人)です。
中国人も清国人も呉人も総称して支那人なわけです。
ところが、現在の中国は、支那(シナ)と呼ばないように日本政府に申し入れています。
なぜなら、70年ほどの歴史しかない中国にとって、「中国三千年の歴史」とプロパガンダ(政治宣伝)を展開するさいに、都合が悪いからです。
もちろん、日本のマスコミも「支那」と表記すると、中国から圧力がかかり取材をさせてもらえないし、情報を得られないために、中国以前の支那のことを、なかば“自主的”に中国と表記しています。

《 「倭国」の統治が可能な範囲 》

さて、名称は「邪馬台国」で間違いがないことを確認いたしました。

その邪馬台国がどこにあったのかは、当時2〜3世紀の日本のインフラ状況を考えれば簡単にみえきます。
要は、交通手段また連絡手段をはじめとした「倭国」30余国(女王国連合)の統治を可能とする範囲は、どれほどかということです。

どこの国でも常識ですが、国内に道路や橋が整備されるのは、国家が統一されて平和になってからです。
国内で争っている状況下では、ヘタに道路を整備したり、橋をかけると、ほかの国々からたやすく攻められてしまいます。

たとえば、わずか200〜400年ほど前のことですが、家康によって日本が統一された江戸時代にあっても、西国から江戸を守るために静岡の大井川には、橋をかけませんでした。
また、江戸城の東は、明暦の大火(1657年)まで、隅田川にさえ両国橋をはじめとした橋はかけなかったのです。

五街道も現代のように舗装されていないのはもちろんのこと、藩と藩をつなぐ今に残る古道などをみても、一人がとおれるほどのいわゆる「山道」が多かったのも事実です。

ましてや、人口も少なく、獣も多かった邪馬台国の時代に、大軍がとおれるような整備された道はもちろんのこと、道路などないに等しく、せいぜい国(村落)の中にのみ「道」とよべる道ができていた程度です。

そういった事情からも、当時の交通手段は、天候まかせ、また風や潮まかせの海、そして河川がメインでした。
要は、帆掛け舟がなくはなかったのですが、大半が手漕ぎの舟です。

では、そのような2〜3世紀の邪馬台国の時代に、どれだけの兵隊がいれば、どれだけの範囲を支配下におくことができたでしょうか。

たとえば、畿内国(のちの大和)に、どれだけの兵隊がいれば、東日本はともかくとして、西日本の要衝の国々を支配下におくことができ、女王国連合を保つことができたのか、というお話です。

各地を治めるには、兵の常駐支配か、江戸時代のように「代官所」があって、ことあれば直ちに畿内に連絡がいき、兵を動員して、不穏な動きや反乱を治めなければ統治することはできません。

それだけの兵や動員力、また食料や武器などの兵站はもちろんのこと、輸送力や交通手段や連絡手段が、どの範囲に効力を発するまで万全に整っていたのかということです。

それができなければ、当時、三国志で有名な「魏」の使者の窓口となった「伊都国」などの北部九州はもちろん、瀬戸内海沿岸の「吉備国」をはじめとした国々を治めることができません。
そういった通行の安全が確保されなければ、海運の時代に「魏志倭人伝」に記される邪馬台国を中心とした30余国の倭国連合を運営も維持もできないのです。

いかがでしょうか。

考えるまでもありません。答えは決まっています。
当時の状況下では、人も多くない畿内国(のちの大和)が、そのように北部九州までも支配下におくことは無理です。

であれば、女王・卑弥呼の「倭国連合」の範囲と位置は、おのずからみえてきます。


One-Point ◆ 現代人の地理感覚や交通運搬などの便利なインフラによって、無条件に「魏志倭人伝」の記述を読むと、邪馬台国は九州のはるか南の海の中にあったなど、おおげさに語ることになります。そんなわけはありません。あくまでも、当時の状況下で、敵対国はもちろん、獣からの安全や、食料はもちろん、宿泊施設が整っていたわけでもないし、雨風などの悪天候を防げる車があったわけでもありませんので、そういったもろもろの自然条件なども考えて、移動できる距離や日程を推定しなければなりません。

《 「邪馬台国」以外の国々 》

古代史における“誤解”は、ほかにもあります。
それは、7世紀の統一大和にいたるまで、日本は一つの歴史を営んできたという“幻想”です。

江戸時代、とくに明治以降は、『日本書紀』や「万世一系」といった歴史観が、なかば強制的に学校教育や社会マスコミの風潮として喧伝されましたので、多くの人がそのように無意識のうちに思い込んでいます。

つまり、日本は当初から一つの国だったという“刷り込み”です。

それが100%間違いだというわけではありません。
日本という国の精神史からみれば、『日本書紀』に流れるバックボーンは、卑弥呼の倭国(女王国)にもつうじる“和”を重んじて、一つの国を志向していたことに間違いはないからです。

しかし、実際の歴史をみていくと、最後は一つの国に収斂されていく“国体”をもつとはいえ、そのプロセスにおいては、古代日本はかならずしも一つの国としての歴史ではなかったという事実があります。

要は、当初から日本は一つの国だったという“思い込み”があるために、7世紀の統一大和の源流は、「魏志倭人伝」に残る2〜3世紀の卑弥呼の「倭国」(女王国、女王の都“邪馬台国”)しかないと思い込んでいるのです。

そのため、古代の環濠跡や宮室跡または楼観跡など、「魏志倭人伝」に記された建造物の可能性がある遺構がみつかると、すぐ「邪馬台国か!?」とマスコミをはじめとした歴史学者の一部や歴史マニアが騒ぎ立てます。

日本にあった卑弥呼の「倭国」また女王の都「邪馬台国」は、当時の日本においては、単にワン・オブ・ゼムにすぎません。
事実、「魏志倭人伝」をみても、「倭国」と争う「狗奴国」が記されています。
さらには、海をへだてた東には、同じ「倭種」とよばれた人々がいて、名称までは「魏志倭人伝」に記されていませんが、いくつかの“国々”があったことは当然です。

というか、考古学の発掘調査から、「邪馬台国」の時代に多くの国々が日本の各地にあったことは明白です。

このことがわかると、畿内国(のちの大和)に宮殿跡や前方後円墳などが残っているとしても、それが即、卑弥呼の「邪馬台国」ということになりません。
それを騒いでいるのは、邪馬台国畿内論者や、視聴率を稼ごうとするCMベースのマスコミか、反日ベースのマスコミというしかありません。

第一、いくら北部九州の「伊都国」に“一大卒”を置いたとしても、畿内国周辺の銅鐸文化よりも、北部九州の鉄剣文化のほうがはるかに有利なのは当然で、畿内に“邪馬台国”に類する国があったとしても、その国が、九州をふくめた西日本一円を、“倭国”として統治し、運営することは不可能です。


One-Point ◆ もし、箸墓古墳が3世紀の卑弥呼時代のものだと主張するなら、それは間違いなく邪馬台国以外の国の王族の墓だったことになります。では、奈辺がだれの国だったのかと申し上げますと、断定していえば、本州“大国主連合”の集会地の一つです。もっとも、3世紀末になると台与を旗印とした九州(倭国)勢力が大和(畿内)にも移動し、影響を与えています。

《 「卑弥呼」の美化と幻想 》

「邪馬台国」から少し脱線しますが、卑弥呼についても触れておきます。
卑弥呼もまた「魏志倭人伝」がもたらした大いなる“幻想”と“美化”の象徴です。

2〜3世紀の日本を記した文献が「魏志倭人伝」しかないのでしかたないのですが、卑弥呼を共立することによって“平和”が訪れ、また魚宮を民族性にもつ日本人好みの“鬼道”といわれる衆を惑わす術を使ったこともあって、どこか神秘めいて“女傑”かのように想われています。

これも間違いです。

支那人のいう“鬼道”が、一般的には何のことか分からないために、いかにも神秘的なものすごい術を卑弥呼がもちいたかのように考えがちです。

ですが、“鬼道”の正体は、いわゆる「イタコ」と同じです。
要は、死者の霊を自分の体(魂)に憑りつかせて、なにやら霊言を語る怪しげな自称“霊能者”や“霊媒者”と同じです。

古代には、そういった「イタコ」のたぐいや審神者(さにわ)がたくさんいました。

卑弥呼ひとりが、魏志倭人伝に記される“鬼道”につかえていたわけではなく、『日本書紀』を読めば、「神がかり」によって託宣を伝える人物や出来事のお話は、案外と多く出てきます。

さらにいえば、「卑弥呼=天照大神」と限定するのも間違いです。

『日本書紀』の性格(編集方針)からして、当時の「魏」など支那の冊封下にあった「邪馬台国」や、「親魏倭王」の金印を仮授された「卑弥呼」は、ぜったいに記されることはありません。

なぜなら、『日本書紀』が成立した7〜8世紀以降の独立日本=「統一大和」が保たれなくなるためです。

この点からも、「邪馬台国=畿内国」(のちの大和)とするのは、「7世紀の統一大和は、“中国の冊封下”にあった倭国の延長線上にある国家だ」と主張するのと同じで、いわば“日本は支那の属国”に等しくなり、明らかに間違いです。

なぜなら、冊封下だった「倭国」は、7世紀の初頭に弟国の「日本」に自ら国をゆずり、消滅しているためです。
これが『旧唐書』のなかに、「倭国」伝と「日本」伝の2つが併記されていた理由です。
このときまで、九州を中心とした「倭国」と、本州を中心とした「日本」がありました。

事実、『旧唐書』の次の記録『新唐書』になると、「日本」伝しかなく、もはや「倭国」が登場することはありません。

つまり、「倭国=日本」ではなく、別の国だったのです。
『日本書紀』は、最初から天皇のもとにある一つの国家として歴史をまとめましたので、誤解されている節があるのですが、実状は九州「倭国」と、その東に本州「日本」とがあったというのが事実です。

付記すれば、この時代の「日本」というのは、かつて台与を旗印とした九州(倭国)連合が東征をして、本州“大国主連合”を融合し、それらが変遷した国の姿です。

それゆえ、6世紀までの九州「倭国」からみれば、日本は「弟国」にあたります。
そのため、当時の倭王「阿毎多利思比狐」(あまのたりしひこ)大王(おおきみ)は、「日出れば、政務を弟に委ねん」と隋の文帝に述べたわけです。

これは、『隋書』に歪曲されて記載された一文ですが、実際は次のとおりです。
正しくは、「わが倭国は、弟国の日本に国を譲る」という趣旨で述べたもので、要は支那(当時は隋)の冊封下から倭国は離れると伝えたのです。

そのときの文帝の言葉は、「はなはだ義理なし」で、そのことを証明しています。
プライドの高い支那人が、そんな不名誉なことを正史に残すはずもなく、わけの分からない未開人の文言かのように記録したわけです。

また、7世紀中頃には、統一大和の天武天皇は、大王から「天皇」へと改号することによって、支那の「皇帝」よりも、天(神)に近い立場に日本国(王)を位置づけました。

結局のところ、「倭国」(かつての女王国)は、北部九州のごく一部にすぎず、女王を象徴とする「和」の統治形態を歴史的に日本に残したものの、往時の邪馬台国そのものは、卑弥呼の代をもって終わり、男王の傀儡「台与」を立てた北部九州連合政権(第2次倭国連合)に変わっています。


One-Point ◆ 北部九州倭国連合は、3世紀末に台与を旗印に東征し、畿内国(のちの大和)に“国ゆずり”を承服させます。占星学からみれば、卑弥呼の死後、狗奴国(くなこく)王が倭国を統治しています。しかし、倭国諸国は服せず、結局は卑弥呼の一族(宗族)で13歳の台与を擁立して治まります。ですが、台与は狗奴国王の傀儡にすぎないのは当然です。台与が40歳〜50歳になったころ、倭国(当時の北部九州)を完全に掌握した倭国王は、台与を旗印にして大和に向かいます。当時の「星のディレクション」からみて、今のところいちばん納得のできる筋書きです。もちろん、学術的な裏づけがとれたものではなく、考古学的な見地を交えつつ占星学によるリーディングから導いた“事実”です。




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