宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学から解く日本の原点
その9:海人族と「大国主連合」
− 大和以前の最初の国づくり −

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『古事記』や『日本書紀』に記された日本の原点は「海人族」です。
直接、そう書いているわけではありませんが、そのように解釈できます。
そして具体的な国づくりは古代「大国主連合」からはじまりました。

『日本書紀』が消し去った九州「倭国」と本州「大国主連合」

●第1稿 : 2016年 4月21日アップ




おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

これまで、「占星学と解く日本成立史」や、当「占星学から解く日本の原点」の連載は、『日本書紀』をベースにすすめてきました。
ですが「日本の原点」を探ろうとするとき、どうしても『古事記』が重要になってきます。
なぜなら正史『日本書紀』は、7世紀に成立した統一国家日本「大和朝廷」一国史の立場から記されたものなので、それ以前の歴史をひもとこうとするとき、俗にいう「出雲神話」が記された『古事記』(ふることのふみ)に大和以前の国づくりを知るヒントが記されているからです。

《 日本国家の成立 》

7世紀の「壬申の乱」を制した正統「天武天皇」は、1,000年の大計をもって「統一国家日本」のグランド・デザインを描きました。
天武崩御後、その意志を受けて天武の正妃「持統天皇」は、天武が描いた「天皇制」を実体的に推し進めていきます。
その結果、藤原不比等のサポートもあって、天武と持統の孫「文武天皇」への譲位が成功しました。
この譲位の成功と万世一系を記した「日本書紀」によって、名実ともに「天皇制」が確立されていきます。
「記紀」においては、「天武天皇」第40代、「持統天皇」第41代、「文武天皇」第42代ですが、実質的には天武が初代(1数)で、持統が次代(2数)、そして文武が3代(3数)、この三代の天皇によって皇統が定着していきます。
天武天皇が、在位中に編纂のみことのりを発した『日本書紀』は、天武崩御後、天武が描いた「万世一系」のビジョンを利用するかたちで、藤原不比等や天智系の関与によって歴史の一部内容が彼らに有利なようにゆがめられて残されました。
しかし、幸いにも、統一国家「独立日本」のグランド・デザインは引き継がれます。
結果、日本は神代の当初から大和朝廷による独立国として描かれ、高御産巣日神(たかみむすひのかみ=日本書紀一書では高皇産霊尊)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)を皇祖また皇祖神とする万世一系の皇統が記されていきます。
実際の歴史においては、大和以前に国づくりを行なった九州「倭国」や本州「大国主連合」(大和、出雲)や丹波(丹後)、尾張、また伊予など瀬戸内海の国々もあったのですが、それらは『日本書紀』が描いた歴史から消されていきました。
最初からの「大和一国史」と「万世一系」また「独立国家日本」をもって『日本書紀』はデザインされましたので、そうせざるをえなかったのです。
ちなみに、実際の日本の成り立ちとは少々異なりますが、間違いとまで断定できないのは、少なくとも『日本書紀』には、日本の民族性「魚宮」と日本の国体「水瓶宮」がバックボーンとしてあるためです。
それはともかく、九州「倭国」は、幸か不幸か俗称「魏志倭人伝」など中国の歴史書に残されました。
一方、本州「大国主連合」は、真実の「皇統」を残そうとされた天武天皇によって、『日本書紀』にさきがけて稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦(よ)み習わせた『古事記』に、わずかに「出雲神話」として姿をとどめています。
ここに、大和朝廷成立以前の歴史をひもとくヒントがあります。

One-Point ◆ 『日本書紀』だけを読んでも、原点の「国」はみえてきません。『日本書紀』が「国譲り」のエピソードを記している以上、当然、大和以前に「国」があったのは事実です。ただ、その実像を探ろうとするとき、古き事を記した『古事記』(ふることのふみ)が参考になります。その上巻「出雲神話」から、最初に国づくりをした出雲や畿内また東日本に存在した古代「大国主連合」の姿が浮かび上がってきます。

《 「記紀」に見る日本の原点 》

まず『古事記』と『日本書紀』からみた、日本の原点をお届けいたします。
イザナギとイザナミの「国生み神話」はいずれ触れるとして、日本の原点は「海人族」です。
「記紀」の記述からそのことがみえてきます。
なぜなら、「海人族」の神々が生まれてのち、日本を治めることになる皇祖神「天照御大神」や「建速須佐之男命」(たけはや すさのおの みこと=日本書紀では素戔嗚尊)が誕生しているからです。
ただし、「記紀」のお話とは異なって、実在の両者は、私たちが知っている「天照大神」や「スサノオ」とは別人といっていい存在です。
大和朝廷は、彼らを皇祖神として「神話」に描き、日本統合の正統性の根拠として利用しました。
よくいえば、日本を一つにまとめあげたのです。
実在の元祖「天照大御神」は男性です。
実在の「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)は、神話の「スサノオ」とは別人物です。
にもかかわらず、イザナギが生んだ「天照大御神」と「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)を、大和朝廷の正統な先祖神として「記紀」に描くことで、天照の倭国(九州)も建速の出雲(本州)も、大和朝廷が支配し統合する根拠としたわけです。
詳しくは後述します。
まずは、日本の原点が「海人族」であることを「記紀」からご紹介いたします。
『古事記』も『日本書紀』も、この内容は一致しています。
「国生み」を終えたイザナギ(伊邪那岐神、伊弉諾尊)とイザナミ(伊邪那美神、伊弉冉尊)は、最後に敵対します。
『古事記』にいわく、イザナミの黄泉の国「いな しこめ しこめき 穢(きたな)き国」から帰ってきたイザナギは、「小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)」で禊ぎ祓いをします。
このエピソードが重要なのです。
ともに「国生み」を行なったイザナギが、イザナミと訣別して、禊ぎ祓いをすることによって独立国「新生日本」がはじまるためです。
「禊ぎ祓い」というのはそういう意味です。
そのため、イザナギの禊ぎ祓いによって、皇祖神「天照大御神」と「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)が誕生しています。
それはいいのですが、その前に「禊ぎ祓い」によって生まれた神々がいます。
次の3種、計9柱(10柱)の神々です。
繰り返しますが、天照やスサノオより先なのです。

1、八十禍津日神(大禍津日神)、神直毘神、大直毘神 … 海向こうとこちらの神。
2、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神 … 安曇三神。
3、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命 … 墨江大神(住吉三神)。

「八十禍津日神」(やそ まがつ ひの かみ)というのは、「瀬織津姫津」(せおりつひめ)や「與止日女」(よとひめ=與止姫、淀姫)に習合されていることから、海の向こうからくる津波の神を象わします。
神直毘神や大直毘神は、そこからの復興や新生と立て直しの神々です。
残りの「安曇三神」と「住吉三神」の計6柱の神々は、ご存じのように「海人族」を象わし、その神々です。
なので、禊ぎ払いによって最初に生まれたこれら9柱の神々は、いずれも「海」や「海人族」を象わしています。
「日本の原点」がここにあるためです。

One-Point ◆ 日本が「海」また「海人族」によってつくられたことを、当時の人々はこのような「神話」であらわしました。「国生み」を行なった「イザナギ」と「イザナミ」自身からして、「凪(なぎ)」と「波(なみ)」であって、凪や波に誘(いざな)われて日本が成立したことを象わしています。島国日本は当然のことながら、海や海人族を抜きにしては成り立ちません。


●記録はそのまま「地名」を変更

イザナギの「禊ぎ祓い」の場所にしても、ニニギ(瓊瓊杵尊)の「天孫降臨」の地ももちろん、また神武天皇の「東征」の出発地も、ほぼ同地域で通説とは異なります。
その4:海人族と星の神々たち」にも書きましたが、博多湾岸です。
ちなみに、今も「小戸(おど)」の地名が糸島半島の東側あたりの海辺に残ります。
ですが、「記紀」が奏上されてのち、北部九州にあった「日向」の地名は、現在の宮崎県地方の旧国名として移設されました。
そのため、「記紀」にのっとった「伝説」の「跡」が宮崎には次々と創られていきます。
これらは、中国の冊封下以前の「北部九州」とはいえ、神代の昔から「独立日本」であることを編集方針とする「記紀」や大和朝廷は、その地を天孫の場所とすることは政治的にマズイので、同じ九州の南(宮崎)に「日向」の地名を移しました。
地名の命名権をもつ天皇(大和朝廷)によって、同様に九州北部の山や地名は、名称を変えさせられたが例がいくつかあります。
これらは、九州の地名で記された歴史記録を、畿内での出来事として操作するためでもありました。

《 歴史上の日本の原点 》

「記紀」の記述はともかく、では史実はどうなのでしょうか。
結論的に書いておきます。
考古学による遺跡発掘や研究からは、すでに「石器時代」や「縄文時代」に「日本原住」となる民族がいたことが確認されています。
しかも、「旧石器時代」の遺蹟数は、半島が100程度で、中国でも1,000以下、なのに日本では3,000以上もの遺蹟があります。
彼らは、遺伝子でいえば大陸にも半島にもない日本固有の「D1b」(旧D2)をもつ人々で、これは新人が発祥したアフリカのDNA「A」や「B」についで古い遺伝子です。
もちろん、中国(漢民族)の「O3」よりも古いタイプです。
それほど太古の昔から日本には原住民族がいました。
彼らは、シベリアから渡ってきた人々を混えた「山族」をベースに、南方のポリネシアから渡ってきた「海族」や東南アジアの「海族」がこれに加わり、さらには、やや時代はくだりますが製鉄技術など最先端文化をもってきた古代オリエントの「海人族」らによって構成されます。
このような縄文の人々を「未開人」として片づけると大間違いです。
現代日本人は、先の敗戦の反動によって、何でもかんでも大陸や半島から渡ってきた文化によって日本が築かれたとする風潮(思い込み)が左翼的な歴史学者やマスコミらによって刷り込まれました。
これらの考えは、終戦直後の占領軍GHQによる「日本民族弱体化政策」や、東西冷戦時代のマルクス(共産主義)史観の学者やマスコミらを交えた「日本共産化」工作との相乗効果によってつくりあげられた「自虐史観」です。
早い話が、でっち上げのプロパガンダで「国民総洗脳教育」の結果です。
しかし、戦後70年、最先端の研究からは、事実はまったくの逆であることが明らかになっています。
世界に類例をみない日本独自の「縄文文明」が存在したことが、近年の発掘調査や世界的な考古学研究で注目されています。
黄河文明よりも古く、また平和的で長く続いたのが「縄文文明」です。
縄文文明は、上述した北方、南方、また西方(メソポタミア)の文明を融合して築かれました。
いくつか具体例をあげておきますと、北方シベリア系の人々は、ナイフ代わりの黒曜石をコールタールで固めた狩猟具を用い、約1万6500年前に世界最古の土器を使ったことが、青森県の大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)からの出土によって確認されています。
土器は、食物の保存や煮炊きに使ったもので、定住型の文化生活に必要なものです。
その後、火焔土器や土偶など高い芸術性を加えていきました。
南方ポリネシア系の海族は、日本語の原型を各地に広め、食糧や装身具となる海産物の調達を容易にし、生活の豊かさと安定に貢献しています。
彼らは、海を舞台に、沖縄から北海道まで、広く交易をすすめたことが日本各地で発掘されるオオツノハタの装飾貝輪などから明らかになっています。
一方、西方系の海人族は、数は少ないのですが、古代オリエントから太陽が昇る東を目指して進んできて、鉱物資源を求めて極東アジアにも訪れています。
世界で最初に鉄器文化を築いた「ヒッタイト帝国」を滅ぼした「海の民」の流れを引くフェニキア人は、航海術に優れていることが知られており、祭祀文化を持つ古代イスラエル民族とともに製鉄技術やメソポタミア文明をいち早く縄文時代の日本にもたらしています。
彼らは大陸や半島にも寄港したのですが、敵対され、日本近海の「島」(対馬や沖ノ島など)に拠点を築いたあと、最終的には日本に上陸して影響を与えています。

One-Point ◆ 日本人の民族性は、海に象徴される「魚宮」なので、多様な民族を受け入れる心やさしい精神性を持ちます。ですが大陸や半島は、異民族を「敵対者」として攻撃します。そのため、古代オリエント系の渡来の海人族は、「しこめき穢き国」には定着せず、彼らのホーム・グラウンドである「海」に囲まれた日本に定着することになりました。ヒッタイトから受け継いだ製鉄技術は、中国大陸よりも早く日本に伝えられています。また、外洋を渡る構造船の修理や造船に必要な鉄の「船釘」をつくり、刳り舟(丸木舟)だけではなく、一部の地域では縄文時代にすでに構造船が造られていたのです。


●無視される「古代オリエント」

かつてマルクス史観の学者が多数を占めた日本歴史学界は、中国大陸や半島から人や文化が日本に渡ってきて、日本文化を築いたことにするために、日本に残る「古代オリエント」の痕跡を完全に無視しました。
このことは、戦後GHQが「天皇アラブ起源論」など古代オリエントとの関係を、徹底的に禁止し、封殺したことにも起因しています。
しかし、古代日本にかつてのオリエントの痕跡が残る以上、何らかの関係があったとみるしかありません。


●日本の「DNA」の構成比率

日本原住の「山族」のDNAは、日本固有のDNA「D1b」タイプです。
現在、だいたい日本人の40%くらいを占めます。
一方、南琉球に残る「O2b」は、「海族」のDNAで、本土には35%程度みられます。
これは日本固有の「D1b」についで多い遺伝子です。
大陸の漢民族のDNAは「O3」で、日本に15%程度みられます。
ところが半島は、中国の「O3」と、日本の海族の「O2b」が40%程度ずつで、原住のDNAはみられません。
彼らは、DNA的には、大陸から来た民族と、日本(南方の海族)からきた民族によって成り立ちます。
そのせいか、日本に付いたり中国に付いたり、俗にいう「事大主義」で生き残りをかけています。

《 最初の国「大国主連合」 》

さて、それらは最初に「国づくり」をした本州「大国主連合」とどのようにかかわるのでしょうか。
「大国主」というのは、「最初」(大)の「国」の「主」を意味します。
一般に「大国主神」(おおくにぬしのかみ)といえば、出雲が有名ですが、この方は古代「大国主連合」の長(大王)となった人物を象徴したものです。
その「大国主神」のもとに、出雲だけではなく、畿内や関東など各地に農耕や病気平癒の教えを受けた「大国主」たちがいました。
「大国主神」には、別名が5種類以上も「記紀」に記されているのは、そういう事情からです。
いずれも、各国のリーダー(王)たちで、一般名称で「大国主神」と称されます。
彼らは、毎年10月頃に収穫の情報や祭祀などの情報交換をかねて、「大国主連合」の長(大王)のもとに集まりました。
それが各地では「神無月」、出雲では「神在月」(諏訪を含む)と呼ばれる由来です。
この「大国主連合」の長(大王)が、「記紀」では三輪山にまつられる「大物主神」(おおものぬしのかみ)にかかわります。
いわゆる「国譲り」をした神です。
「神武天皇紀」では、「饒速日命」(にぎはやひのみこと)に相当します。
この三輪山の「大物主神」(おおものぬしのかみ)こそが、日本に製鉄技術を伝えた古代オリエントの海人族の流れを引く人物です。
もともとは、オリエント系の人物なので、土着の日本原住の王(「神武天皇」とされる人物)に国を譲りました。
今年2016年1月に三輪山に登拝した際、その随感を「番外編:三輪山登拝の光と影」に書いておきました。
あとでわかったことですが、やはり三輪山に祀られる人物は、海を渡ってきた神で、三輪山の山麓には、年代不明の鉄滓堆積や採鉱の跡が発見されています。
「日ユ同祖論」というのではなく、古代オリエント系の海人族の一部が、出雲を盟主とした古代「大国主連合」を大和にもつくっていたということです。
もともとは、「対馬」また「壱岐」や宗像の「沖ノ島」を中継点として、南方の海族とともに古代「出雲」に一大交易拠点を築きます。
そこから北陸道や東海・関東・東北へ影響圏を拡大していくとともに、丹後→近江→難波と北から大和にはいり、東は尾張から陸路で大和にはいって「大国主連合」の集会地としたものです。

One-Point ◆ 三輪山麓の鉄滓が「年代不明」というのは、いかにもその手の「学者」らしい表現です。「製鉄技術は中国からきた」という前提で学説を発表していますので、それより古い鉄滓が日本に存在することを認めると、自説が崩壊しますし、先輩教授を含めて自らの権威が失墜します。そのため「年代不明」と結論づけざるをえません。日教組が強い大分県にも、かつて紀元前6世紀頃の大量の製鉄跡が残ることを記したWEBページがあったのですが、これも中国渡来後のものとされるなど、なくなっています。

《 「大国主神」と「熊野大神」 》

さて、順番が前後しますが、「大国主神」のまたの名を『古事記』や『日本書紀』からみておきましょう。

『古事記』上巻より抜粋
(須佐之男命が)
刺国若比売(さしくに わかひめ)を娶して生みし子は、大国主神。
またの名は、大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)。
またの名は、葦原色許男神(あしはら しこをのかみ)。
またの名は、八千戈神(やちほこのかみ)。
またの名は、宇都志国玉神(うつし くにたまのかみ)。
あわせて5つの名あり。

『日本書紀』「神代上」一書より抜粋
大国主神は、大物主神とも、また国作大已貴神(くにつくり おおあなむちの みこと)ともいう。
また、葦原醜男(あしわらの しこお)ともいう。
また、八千戈神(やちほこのかみ)ともいう。
また、大国玉神(おおくにたまのかみ)ともいう。
また、顕国玉神(うつくにたまのかみ)ともいう。
その子は皆で181柱おいでになる。

日本書紀では6つの別名が記されています。
その子は181人だそうです
これらは「大国主神」の「またの名」とされますが、一人ではなく、各地の「大国主神」の名前もふくまれます。
でなければ、一人で181人もの子は生めません。
181柱というのは、むしろ「大国主連合」を構成する国々の配下にある「分国(クニ)」の数だと考えるとすっきりします。
唐突ですが、「大国主神」(大物主神)とされる実在の人物には、本当は別の神名があります。
本来の名は、出雲の熊野大社にまつられる「熊野大神」です。
一説では、「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)の別名とされます。
実際はそうではなく、「熊野大神」こそが古代出雲を治め、古代「大国玉連合」につらなっていく人物です。
では、なぜ「熊野大神」は、建速須佐之男命(素戔嗚尊)に変えられたのでしょうか。
大和朝廷は、「記紀」編纂にさいして、「熊野大神」を先祖神の1柱である「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)として神話に描くことで、出雲や大国主連合を大和朝廷の一つとして組み入れ、統合し、配下におく根拠としたのです。
出雲は「国譲り」をしたために、それで間違いとまではいえないのですが…。
ただ、実在の須佐之男命とは別人です。
ですが「建速」であることに間違いはありません。
そういうこともあって、事実と異なるために『出雲風土記』には、ほとんど須佐之男命(素戔嗚尊)は登場しません。
また、国津神であるはずの「熊野大神」が、天孫族の天津神として記されることがあるのは、熊野大神を「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)に習合させたためです。

One-Point ◆ 「出雲大社」は、明治4年まで「杵築(きつき)大社」と呼ばれていました。杵築大社ともう一つ出雲にある大社が「熊野大社」です。こちらのほうが出雲の源流です。しかし、国譲りと「記紀」編纂後は、杵築大社が格上げされて有名になり、主流になっていきます。ちなみに「熊野大神」は「櫛御気野命」(くしみけぬのみこと)とも呼ばれています。


●「銅鐸文化圏」の範囲

上図は、各県ごとの銅鐸発掘数を分布図にしたものです。
このほか「方形墳丘墓」や「四隅突出型方墳」が残る範囲も、本文でいう、ゆるやかな「大国主連合」の範囲と考えられます。

《 「大国主連合」の範囲 》

史実は複雑ですが、要約して書くとそういうことです。
では最初に国づくりを行なった「大国主連合」とは、どの地域なのでしょうか。
当時、出雲はいわゆる「日本海文明」の中心地で有数の「海人族」の国でした。
西は、九州北部の宗像(三女神)を半島(新羅)と交易する海のルートとしています。
東は、海流に乗って天橋立や籠神社で有名な丹後(丹波)を拠点とし、北陸道など日本海側の当時の「先進諸国」を基盤としています。
これらの地域から内陸に入って、瀬戸内海東部をはじめ、畿内一帯、また太平洋側の海人族の拠点だった尾張はもちろん、東海や東日本までふくまれます。
その全部ではなく、ポイントとなる局地の国々を治めた「大国主神」と協力して、平和的で穏やかな「大国主連合」を形成していました。
古代史に詳しい方なら、「銅鐸文化圏」の範囲や、また3世紀中頃以前の「方墳」(方形墳丘墓)や「四隅突出型方墳」が残る範囲とお考えいただければ、わかりやすいでしょう。
「記紀」に記された人物でいえば、「建速須佐之男神」(素戔嗚尊)や「大国主神」が活躍した出雲国はもちろん、海人族の拠点だった丹後国、「大物主神」がまつられる畿内大和国をはじめ、「大穴牟遅神」(おほなむぢのかみ)こと「大已貴神」(おおあなむちのかみ)が国を平らげたときに用いた広矛をまつる尾張国、また「建御名方神」(たけみなかたのかみ)が逃げこんだ諏訪国、さらには国譲りに最後まで抵抗した星の神「天津甕星」(あまつみかぼし)こと「天香香背男」(あまのかかせお)が治めた「関東」以北の国々などが古代「大国主連合」の範囲です。
九州「倭国」(邪馬台国)と同様に、『日本書紀』は本州「大国主連合」そのものを歴史から消し去りました。
なので、具体的に直接そう記されているわけではありませんが、考古学的発掘と「記紀」などに残る文献と占星学による星のディレクションからみていくと、そうなるということです。
「出雲神話」が、なぜ『古事記』上巻に残されているのかは、暗に古代「大国主連合」の存在をほのめかす結果にとどめられたためです。
即位される以前は「大海人皇子」(おおあまのみこ)と呼ばれた「海人族」を出自とする正統「天武天皇」は、古代「大国主連合」を『古事記』上巻に残そうとされたのです。
しかし、崩御後、大和朝廷(編纂チーム)は、『日本書紀』との整合性を考えて、結果的に「出雲神話」とし、建速須佐之男命(素戔嗚尊)の活躍にとどめたわけです。
考えればわかりますが、三輪山に「大物主神」がまつられる以上、本来の「国譲り」は畿内大和で行なわれたはずです。
事実、「神武天皇紀」はそうなっています。
ですが、その事実を「神話」にまで書き残すと、「大国主神」(大物主神)の国が大和にあったことが明白になってしまいます。
そのため、国譲りの舞台は「出雲の伊耶佐(いなさ)の小浜」がメインにされてしまいました。

One-Point ◆ 『日本書紀』では「神代 下」と初代「神武天皇紀」に国譲りのエピソードが記されています。なので「国」があったことは事実です。また「崇神天皇紀」では、「この神酒は私の造った神酒ではありません。倭(やまと)の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です」という歌が記されています。この「やまとの国」が、本州にあった古代「大国主連合」です。もう一つの国、邪馬台国で知られる九州「倭国(わこく)」につきましては、次回、ご紹介いたします。



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