宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学から解く日本の原点
その10:邪馬台国と九州「倭国」
− 「偵察報告書」と「プロパガンダ」 −

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通称「魏志倭人伝」に記される女王「卑弥呼」と「邪馬台国」。
その正体と所在論争から「邪馬台国」は過大に評価されています。
「倭国」の実態は小国で、「滅びる」ことによって影響力を拡大しました。

「倭国」を偵察した軍事報告をまとめた「魏志倭人伝」

●第1稿 : 2016年 4月29日アップ




おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

これまでも「建国記念の日」特別編や「占星学と解く日本成立史」番外編などで、卑弥呼と邪馬台国については、当「宝瓶宮占星学」サイトでもとりあげてきました。
一般的には、「邪馬台国」はどこにあったのか、その所在が今なおマスコミで視聴率稼ぎにとりあげられますが、「竜馬暗殺」の真犯人と同様に、もはや「解決済み」といってもよい問題です。
なぜなら、文献に記された九州「倭国」の所在は、もはや明白で、その中にしか「邪馬台国」はありえないためです。
3世紀当時、朝鮮半島南端部を含めた北部九州連合「倭国」は、「魏志倭人伝」に「大国」かのように意図的に記されていますが、実像は現在の「福岡県」にも満たない範囲の小国でした。

《 古代国家「邪馬台国」 》

まずは、そこからはじめましょう。
「倭国」自体が福岡県に満たない範囲なので、その中の「邪馬台国」は、現在の市町村でいえば「町」か「村」程度の規模にすぎません。
女王として象徴的に共立された「卑弥呼」が、都としたところが「邪馬台国」ではあっても、倭国を実際に検察し、統率権を行使する、今でいう「首相」がいたのは、魏志倭人伝に「世々王あり」と表現され、「一大卒」がおかれ、大陸との窓口でもあった「伊都国」です。
そこが「倭国」全体を統属する首長府、いわゆる「総理官邸」や「官庁」のあった場所なのです。
そういうこともありまして、倭国を冊封下とした魏の使者は、常に「伊都国」に駐(とど)まりました。
周囲の二方(また三方)を山に囲まれた古くからの国「邪馬台国」に長老的な権威はあっても「権力」はなかったのです。
「やまたいこく」とは、魏に渡った「海人族」からみたとき、「山のたい国」をさし、「たい」(だい)は古くからあった由緒ある原住の国を意味します。
でなければ、「卑弥呼」が共立され女王に選ばれる理由がありません。
新興国をはじめとした国々が争いになったとき、どんな人を担げばみんなが納得するかといえば、まず双方に利害関係が少なく、次に「武力」によらないこと、さらには古くからの長老的国家です。
その点、原住の「邪馬台国」の出自で、「鬼道」につかえる卑弥呼は、権力ならぬ権威であって女性でもあり最適でした。
もう少し書いておきますと、日本原住の「山族」と「海族」の融合によって成立したのが邪馬台国です。
なので、海族と山族の双方から支持される中立国でした。
それゆえに、魏の使者(軍人)がはるばる足をのばして「邪馬台国」を訪れたところで、そこは「霊場」や「御所」と同じで、実際の首都機能や政治機能はありませんでした。
なので伊都国にとどまれば充分だったのです。
当時の交通機関は水運、すなわち船です。
なので、邪馬台国も山の中ではあっても川沿いにありました。
当然、安全を考えて、下流ではなく上流域にいち早く古くから国づくりをしていたのです。

One-Point ◆ 倭国(女王国)や邪馬台国が、広大な国家かのように考えるのは間違っています。先入観を抱かず、また過大評価をせず、すなおに「魏志倭人伝」を読めば、「倭国」の位置や範囲は、おのずから明らかです。その倭国の北部でもなく南部でもなく中間部に「邪馬台国」は位置します。魏志倭人伝だけで「特定」まではできませんが、そのほかの状況証拠と歴史的事実をあわせていくと、所在はあきらかです。

《 「魏志倭人伝」の性格 》

まず所在を比定しましょう。
そのためには、「魏志倭人伝」が、どんな性格の記録か、また誰のための古文書かを知ることが重要です。
多くの人が勘違いしているのは、「魏志倭人伝」は歴史書という認識です。
違います。
『三国志』(魏書)は歴史書でも、その中の「倭人条」(倭人伝)に関しては、純然たる歴史書ではありません。
もちろん、歴史小説や娯楽小説でもないのは当然です。
では何かと申し上げますと、「倭国」に関しては、第一に軍事記録つまり「偵察報告書」です。
第二に、魏による「プロパガンダ」(政治宣伝)の書です。
なので、「偵察報告書」という軍事記録の面では、90%以上、ほぼ100%正確であることをもって記されています。
でなければ、偵察報告の意味がありません。
ですが「プロパガンダ」の書という点では、中国特有の「白髪三千丈」とばかりに、10%以下ながら誇張して書かれた「部分」があります。
このことを最初にご理解できないと、正しく読み解くことができません。
「魏志倭人伝」のワナにまんまとはまってしまいます。
その結果、方角は「南」だ、いや「東」だ、距離は「(長)里」だ、いや「短里」だ、はたまた中国の記録に記されるはずもない「倭里」があったや、「陸行1月」は「1日」の間違いなど、議論百出して、所在が定まりません。
なぜそうなるのかといえば、だれもがわかるウソで書かれていればハナから信用されないために、もめることはないのです。
ですが「魏志倭人伝」は、90%以上が真実で、そのなかに当たり前のように10%以下の「真実に近いウソ」が紛れ込んでいますので、そのウソさえ「真実」かのようにとらえてしまうからです。
そういった類(たぐい)は、世の中にごまんとあります。
日本人はとくに素直に信じるお人好し的な民族性から、「魏志倭人伝」を100%事実を記した「歴史書」だととらえます。
なので、ウラのウラさえある中国人お得意の「プロパガンダ」を、正直な日本人は見抜きにくいのです。

One-Point ◆ 大陸において「魏」「蜀」「呉」が争った三国志時代の記録をもとに、魏志倭人伝は記されました。それだけではなく、半島にも敵対勢力がいた時代です。そんな時代に魏から訪れた使者が、倭国を軍事・国防の観点から記した「偵察報告書」をもとに、魏の権威や強大さを示す戦略的意図をもって、東南の大海中に「冊封下の大国」があるかのように倭国を描いたというのが本当のところです。


《 「偵察報告書」の要諦 》

「プロパガンダ」の部分はあとで述べます。
まずは90%以上、100%近い事実をもって書かれた軍事記録の「偵察報告書」の部分からみてまいります。
要諦は、次の5点です。

1、国境
2、方向
3、距離
4、体制…TOPや主要人物名を含む
5、国力…風習、山河、地形を含む

報告の順番は、通常、「基本フォーマット」はありますが、総合的に判断した結果をもって重要度順に記します。
もし倭国が軍事大国であれば、「国力」や「体制」などが重要視されます。
その場合、最初に長々と「方向」や「距離」など行程の説明はしません。
ところが「魏志倭人伝」は、最初に倭国の「国境」に続いて、「方向」や「距離」を長々と記しており、まるで旅行見聞録です。
それは「倭国」が脅威となるほどの大国ではなく、海の向こうのごく小国にすぎなかったためです。
ですが、そこは倭国を「大国」にみせるために、「プロパガンダ」によって「白髪三千丈」とばかりに、意図的に誇張して記された部分があるのです。
まずは、順番にみてみましょう。

1、国境
国境は、軍事行動において最重要なので、正確に記されます。
「魏志倭人伝」には、「その北岸、狗邪韓国に到る」と記されています。
船での往来なので「北岸」です。
ちなみに「南岸」は、船で行けば九州北部沿岸の「末盧国」や「伊都国」です。
当時の「倭国」の北の国境は、半島南部の狗邪韓国(くやかんこく)で、倭人が住む倭国の領地だったのです。
鉄がこの近くで採れたこともあって、半島には案外と多くの倭人が住んでいました。
そこから日本に戻ってきた人が「渡来人」かのように記されたりします。
博多湾岸の志賀島(しかのしま)を拠点とした海人族「安曇族」(奴国)は、半島と九州のあいだの玄界灘(瀚海)を「庭」として、かつて大陸と交易をしたり、半島から鉄を運ぶなど往来をしていました。

2、方向
次に方向です。
国がどの方向にあるかは重要です。
飛行機もミサイルもない当時、戦さは「陸兵戦」でした。
そのため、方向や距離や地形といった「地理情報」は、絶対的に必要不可欠です。
なので「方向」を誤まって記すことはありません。
実際は「東」なのに、「南」と間違えて報告することなど、絶対にありえないのが「偵察報告書」です。
ただし、正確なコンパス(方位磁針)がなかったと考えられる当時です。
その場合、太陽がのぼる方向を「東」とします。
ところが、太陽がのぼる方角は、季節によって50度近くもズレます。
「春分の日」や「秋分の日」を基準に、「夏至」は北側に移動し、「冬至」は南側に移動します。
それゆえ、真東より若干、北寄りや南寄りが東になる「可能性」はあります。
だからといって、90度もズレて「南」や「北」になることはありません。

One-Point ◆ 魏志倭人伝が、倭国の「偵察報告書」をもとにしたことを理解しないと、「南」と書いてあるにもかかわらず、平気でこれは「東」の間違いだとボケをかまします。要は、平和ボケした「観念的平和論者」や「理想主義者」など左翼的歴史学者やマスコミまたコメンティターに多い典型です。邪馬台国「畿内説」は、そういう複数の典型的な「思い込み」と、いまさら「九州説」に訂正はできないという学者らの浅薄な「見栄」から成り立っています。


《 距離は「プロパガンダ」 》

お話が長くなりますので、次の「距離」にうつります。

3、距離
懸案の距離と行程です。
魏志倭人伝に案外と正確に書かれた「距離」ですが、それが「おかしい」のは、だれもが知っています。
たとえば、倭国の北岸「狗邪韓国」(半島南端部)から、「一つ海を渡る、千余里にして対馬国に至る」という記述です。
日本で「里」といえば、1里=約4km。
それだと千余里の対馬までは、約4,000kmもあることになります。
もちろんそうではなく、当時の魏(中国)の里は、1里=約434m。
なので、一千余里は、約434km。
……。
実尺では釜山(プサン)から対馬北端まで、約50kmしかありません。
対馬の長さが約70kmなので、両方をたしても120km。
魏志倭人伝の記述とは大きく異なります。
これ以外の距離も実際と合わないのは周知のことなので、ご紹介は省略いたします。
結局、学者や歴史マニアは、つじつまを合あわせるべく、1里が70m程度の「短里」があったなど、さまざまな短里説が飛び出します。
では、なぜ正確をきすべき「軍事記録」なのに、「距離」だけが実際と大きく異なるのでしょうか。
重要なポイントが、ここにあります。
それがわかれば、「邪馬台国」のおおよその位置が比定できるのです。
理由は、ただひとつ。
魏の冊封下にあった小国「倭国」を、実際よりも広大な国にみせるためです。
「親魏倭王」の金印・紫綬を卑弥呼に授けたと記されるのも、ここに理由があります。
それほどの「大国」を冊封下においているとみせかけて、敵対国家をけん制するためです。
魏志倭人伝のもう一つの側面「プロパガンダ」がこれなのです。
魏に敵対する「呉」や「半島勢力」に恐れを抱かせるための「遠交近攻」の外交戦術です。
仮に、遠交近攻でなくても、倭国の実際の寸法をありのままに書くと、小国すぎるために、見栄から「白髪三千丈」式に記したということもいえます。
いずれにしても、結論的に申し上げますと、魏志倭人伝は、「距離」のみならず「行程日数」や「戸数」といった重要な数字のみを、上述の理由から一律7倍(5〜10倍)にして記しました。
なので「短里」などありません。
当時の魏の1里は、1里(俗に長里)、約434mです。
では、対馬までの距離のみならす、ほかの里程日数や戸数、また卑弥呼の塚(墓)の歩数(大きさ)や婢や殉葬などの人数まで、主なもろもろの数字のみを、なぜ一律7倍にしたのでしょうか。
それは知る人のみ「7分の1」で計算すれば、ちゃんと「軍事記録」として成立するためです。
意味はおわかりですよね。
「一律」にしておかないと、間違う可能性があるためです。
なので投馬国まで「水行20日」と記されているのは、実際は7分の1で「水行3日」です。
邪馬台国まで「水行10日、陸行1か月」と記されているのも、「水行1〜2日、陸行4日」の距離です。
当時は、まだ道路や通信網などインフラが整っていません。
なので遠すぎると「連合国家」としての態(てい)をなすことができません。
さらにいえば、平野が少ない日本では、1日に進める距離は中国の半分程度です。
そういった狭い範囲の中に「邪馬台国」はありました。

One-Point ◆ 邪馬台国の南方の旁国が記されています。「旁国」は「わきの国々」という意味ですが、魏志倭人伝には、「旁国は遠く絶(はな)れて」と誇張し、矛盾する記述になっています。またそれらの国は7倍しても距離や戸数を記せないほどの「集落」もあったので、「つまびらかにできず」として国名のみしか書いていません。いずれにしても「倭国」は広くはなく、現在の福岡県のうち、北九州市周辺やかつて「豊前」の東岸部を除いた半分ほどの広さです。また、魏の冊封下にあったというのも、もしかしたら実際は話半分なのかもしれません。

《 大自然の河川「インフラ」 》

では、「邪馬台国」の所在をみてみましょう。
「魏志倭人伝」に記された「末盧国」(佐賀)「伊都国」「奴国」「不弥国」(福岡)が、九州北岸部で、博多湾周辺また福岡平野というのは定説です。
「女王国より以北は、その戸数・道里、略載すること得べけれど…」と記されている国々で、これに異議をとなえる人はいません。
であれば、倭国の範囲はかんたんです。
当時の交通手段、また運搬は水行・水運がメインだからです。
なので博多湾また福岡平野につうじる川を「主要幹線」とした範囲内で倭国は成立します。
そういった大自然の河川インフラがないと、連合国家として連携できません。
注目すべきその川の一つが、「御笠川」(牛頸川)です。
博多湾から、ほぼ那珂川に並行して、水城(みずき)をとおって、南方の太宰府近辺に伸びるゆるやかな川です。
この川から、現在の西鉄大牟田線「朝倉街道駅」付近や鹿児島本線「天拝山駅」付近を分水嶺として、今度は筑後平野方面に流れる山口川に乗り換え、宝満川を下れば、久留米で筑後川に合流できます。
筑後川は、有明海(湾)を河口とし、むかしは洪水のたびに吉野ヶ里近辺まで流れを変えることがある暴れ川で、久留米から上流は、東に朝倉、うきは、大分県に入って日田へと、ゆるやかな流れをさかのぼれます。
日本三大河川の一つで、「筑後次郎」の名で知られます。
蛇足ながら、残り2つの川は、「坂東太郎」こと利根川と、「四国三郎」こと吉野川です。
この3つは、「日本三大暴れ川」で、水量が豊富、すぐに洪水が起きる、平野部を流れ、広くゆるやかなので水運に適し、古代の国家はこの周辺部につくられます。
古くからあった「邪馬台国」は、御笠川の上流域や、宝満川(筑後川)の上流域の平野部に、いちはやく国づくり行ないます。
2方また3方を山に囲まれた防御にも適した土地です。
要は、博多湾に流れる御笠川とかつて連結していた山口川、宝満川、筑後川を「主要幹線」として、博多湾から有明海に抜けられる交通網を共有していたのが、北部九州連合「倭国」です。
このことがわかれば、なぜ福岡県が、北部九州を斜めに横断するような地理をもつのかがみえてきます。
古代「倭国」の名残りが、県のかたちに残されているのです。
もっとも、筑後川下流域は、当時は葦が生い茂る沼とも海ともいえる土地で、「記紀」でいう「豊葦原中国」(とよ あしはら なかつ くに)の1つでした。
お話を行程に戻して、邪馬台国に行くには、伊都国からは博多湾へ進んで、そこから御笠川(牛頸川)に入って南に遡行すれば、数日程度でいけます。
昔の曲がりくねった道なき古道を、草木をかきわけつつ歩いても、約4日前後でいける場所が「邪馬台国」です。
邪馬台国のみ、水行だけではなく、なぜ陸行も記されているのかといえば、上流域にあったために、全部が水行だとかえって時間がかかったり、遠回りになるような地にあったためです。
ちなみに、魏の使者が出発した帯方郡から、女王国までの総距離は、1万2,000余里。
これから里程があきらかな1万1,400里(注)をひくと、残りは600余里。
実際は、その7分の1程度なので、約86里。
これに1里=約434mをかけた37km前後ほどの場所が、あくまでも目安ですが、卑弥呼が都とした邪馬台国です。
直線距離ではなく、当時の曲がりくねった古道や坂道を道なりに進んだときの距離です。

One-Point ◆ (注)上記、距離計算には、対馬国と一大国(一支国)の広さ(方)や不弥国までなど、すべての数字を含みます。ただし、水行や陸行の行程は、伊都国からで、投馬国まで「水行3日」、邪馬台国まで「水行1〜2日、陸行4日」です。
※ちなみに、一律7倍ではなく、5倍の場合は、投馬国まで「水行4日」、邪馬台国まで「水行2日、陸行6日」になります。一律10倍の場合は、投馬国まで「水行2日」、邪馬台国まで「水行1日、陸行3日」になります。いずれも流域の範囲内です。
※彼らが総距離を算出した計算法を書いておきます。帯方郡から伊都国まで1万500余里であることが記述からわかります。これに水行20日、水行10日(陸行1か月)の分を加味して1,500余里とし、総距離を1万2,000余里にしたものです。1日の水行が50里(黄河や揚子江の上り下りをならした概算距離)で30日(1か月)分、それで1,500余里。ピッタリです。


《 卑弥呼の「鬼道」は審神者 》

さて、「邪馬台国」の所在は確認できました。
朝倉街道駅また天拝山駅付近の分水嶺を中心に、そこから宝満山(御笠山)方面(宝満川上流域)と、北は、そこに隣接する太宰府天満宮のある太宰府市(御笠川上流域)をはじめ、南は、最大でも、大已貴神社のある「三輪」(筑後川支流の小石原川流域)の範囲です。
邪馬台国の北は「福岡平野」群の国々で、南は「筑後平野」群の国々、ちょうど倭国の中間あたりにあり、魏志倭人伝の記述ともドンピシャです。
大已貴神社(地元では「おんがさま」=大神様)の付近は安川地区と呼ばれ、ここを流れる小石原川は、かつては「夜須川」(やすかわ)という名称でした。
さて、場所が明確になれば、占星学(術)のホロスコープが作成できます。
ホロスコープは、1、「時間」、2、「場所」(空間)、3、「主題」(人、事件)などの3つの基本データが必要です。
主題は「邪馬台国」なので、残りは「時間」(年月日)があれば、ホロスコープの作成が可能です。
ただし、女王「卑弥呼」など当時の個人の「生年月日」はわかりません。
なので、当時がどのような「星のディレクション」の時代だったのか、年代から鬼道をもちいた「卑弥呼」や「邪馬台国」また「倭国」をリーディングすることになります。
その前に、「鬼道」とは何かを明確にしておきましょう。
魏志倭人伝には、卑弥呼が「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と書かれています。
学者のなかには「霊」の存在をみとめない人がいて、「鬼道」とは道教の一種だと学究っぽく解釈する人がいますが、間違いです。
なぜなら、当時は「霊」にかかわる双魚宮時代(魚宮時代)で、日本の民族性は「魚宮」でもあったので、「霊」や「言霊」(ことだま)は、当時の日本においては日常的な「常識」でした。
一方、学者の中には卑弥呼は「シャーマン」だという人もいます。
ピンポ〜ン♪ こちらが正解です。
シャーマンというのは、「超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する職能また人物のこと」です。
なので「鬼道」とは、平たくいえば「霊能力」です。
もっと正確にいえば、卑弥呼の場合は「さにわ」(審神者)型の神がかりによって、「神託」や「託宣」を述べる霊媒師タイプでした。
また、「鬼道」は古代中国語の表現なので、「鬼」が何を意味するのかがわかれば、かんたんにみえてきます。
最近、中国で「鬼城」という言葉がよく聞かれます。
建設ラッシュでマンションを建てたものの、住む人がなく、空き家状態の「ゴースト・タウン」のことです。
「鬼城」がなぜ「ゴーストタウン」なのかというと、古代中国では、城壁に囲まれた中に町がつくられたので、「町」(タウン)は「城」(城塞)と同じだったのです。
なので「タウン」は中国では「城」を意味します。
ここまでわかれば、「ゴースト」は説明するまでもありません。
「鬼」が「ゴースト」で、「幽霊」また死者の「霊魂」のことです。
それゆえ古代中国で「鬼道」といえば、死者などの「霊魂」を扱う霊能力のことを意味しました。
卑弥呼は、「霊魂」を自分に乗り移らせて、「神託」や「託宣」を行ないました。
このような霊媒師タイプの神事は、天武系で最後の称徳天皇の御世に、「道鏡が皇位に就くべし」との託宣(神託)が有名です。
世にいう「宇佐八幡宮神託事件」(道鏡事件)です。
宇佐こと、かつての「豊の国」は、2代目女王「台与」(とよ)の国で、宗族の初代女王「卑弥呼」とも関わります。
卑弥呼は「神託」に秀でていたこともあって、女王に共立されました。
「ひみこ」と呼ばれたのは、「建国記念の日 特別編2 海王星入宮と日本の霊性」にも書きましたが、「霊」(ひ)を「見る」「(み)女」(こ)のことです。
「ひ」は「日」の字があてられることもありますが、古来は「高皇産霊尊」と書いて「たかみむす ひ のみこと」と読むように、霊は「ひ」で魂(たましい)のことでした。

One-Point ◆ 女王になって以降、卑弥呼はほとんど人前に姿を現わしていません。それでも倭国の運営は伊都国でなされていましたので、支障はありませんでした。もともと御輿(みこし)にかつがれた象徴女王だったからです。この「象徴」をTOPに戴き平和を維持する統治形態は、例外の時期はあるものの、8世紀以降、象徴天皇のもとで各豪族の協議や、武家幕府によって政権が運営されていく日本の国体「水瓶宮」の由縁ともなります。「水瓶宮」はまた、18世紀に建国されたユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ(USA)の国体を象わすサイン(宮)でもあります。駄洒落でいえば、古代日本とアメリカは、「宇佐」=「USA」つながりです。おあとがよろしいようで、今回はここまでです。次回は引き続き、「倭国」について書いてまいります。



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