宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学から解く日本の原点
その12:古代オリエントの“海人族”
− 断層地帯を求めて日本に渡来 −

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「日本の原点」をあつかう以上、いつかは触れざるをえない内容です。
それは紀元前10世紀〜同6世紀における「古代オリエント」の痕跡です。
先に書いた「番外編2:幣立神宮の実と虚構」にもかかわります。

紀元前-上古日本に“イスラエル”の痕跡が残る理由

●第1稿 : 2016年10月29日アップ



おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

上古の日本に、遠く海をへだてた古代オリエントの影響があったのは事実です。
ただし、それは巷間、言われるような「天皇シュメール起源説」や「日ユ同祖論」ではありません。
もっと現実的なお話で、『古事記』や『日本書紀』に記された紀元前7世紀の「神武東征物語」の時代の前後に、当時、最先端の「航海術」と「製鉄技術」をもった古代オリエントの“海人族”が、東アジアにも訪れ、俗にいう日本の“パワースポット”をめぐっているのです。

《 紀元前10〜同6世紀 》

“パワースポット”というのは話のあやですが関連しています。
実は、パワースポットと重なる日本の「断層地帯」をめぐっているのです。
くわしくは後述いたします。
このサイトをご高覧の皆様なら「日本は何座宮?」に書きましたように、日本の民族性は12サイン(宮)の「魚宮」で象わされることをご存じだとおもいます。
「魚宮」というのは、12サイン(宮)の最終位として、すべてのサイン(宮)の“集合体”のような象意を持つといっても過言ではありません。
それは「数理法則」においても、「魚宮」と共鳴する「数理」の意味からもそう申し上げられます。
「魚宮」によって象わされる日本人の民族性は、すべての象意を包括する魚宮のように、どんな宗教や神仏や人々でも、排斥することなく受け入れて、吸収し自分のもの(感性)にしてしまいます。
魚宮の象意を持つ個人ではなく、日本民族総体としてみれば、そうなるのです。
さらにいえば、相手の痛みを自分のことのように感じる同情心をもちます。
そういった魚宮の民族性をもつ日本人は、はるか紀元前の縄文時代に四方の海から日本に来た人々を受け入れ、その習俗、文化、知識、技術を吸収して、縄文文明を築いていきました。
ちょうど、大海原のさまざまな漂流物が、浜辺に流れ着くように、上古の日本列島に集まってきたのです。
時代は、さらにさかのぼりますが、北はシベリアあたりからきた原住日本人となる人々が、東日本を中心に狩猟・採取をメインとした森の「縄文文明」を築いています。
一方、東や南の太平洋の島々からは、ポリネシアをはじめミクロネシアやメラネシアなど海を舞台に生活する人々が、潮流を利用して島伝いに伊豆半島をはじめとした日本沿岸を訪れ、アウトリガーのついたカヌーや魚介類の採取など海の「縄文文明」をもたらしています。
『日本書紀』には、船のことを「枯野」(カヌーの意)と名づけたことが記されています。
さらには、西方からは古代オリエントの“海人族”が、栄華を極めた古代イスラエル王国のソロモン王の命を受けて、自らの冒険心とともに東アジアや日本に来ています。
このお話が、今回のポイントです。
紀元前922年(前10世紀)にソロモン王が死ぬと、古代イスラエル王国は「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」に分裂します。
北王国は、紀元前722年(前8世紀)に滅び、南王国も紀元前587年(前6世紀)に滅びます。
このような変遷の中で、遠くはなれた海外に出ていた古代オリエントの“海人族”は、帰る場所を失い、再び日本をめざして航海をし、その一部は日本に定住したのです。
なぜなら、“海人族”にとって、日本はホームグラウンドの海に囲まれた安全な“拠点”でした。
また、狭く細長い大地や、温暖な瀬戸内海をかかえていますので、地中海のように海や山の食料が豊富です。
さらには、大陸や半島の民族とは異なり、平和的な民族で、他国の民を受け入れる「魚宮」の民族性をもっていたからです。
東の彼方の海の中に、そのような選ばれし“約束の土地”があることを、古代オリエントの“海人族”は、フェニキアやイスラエルに帰るたびに、周囲の人々に伝えていたのは当然のことです。
これが後日、「失われた10支族」が東方を目指して旅する根拠になります。

One-Point ◆ 古代イスラエル王国が南北に分裂したのは「信仰上」の理由です。イスラエル12支族のうち、「ユダヤ教」を堅持するレビ族とユダ族は「南ユダ王国」に、それ以外の残りの10支族は北イスラエル王国に分かれます。この北イスラエル王国の10支族が、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされて強制連行されたのち、行方不明になり、「失われた10支族」と呼ばれるようになります。彼らが南ユダ王国の2支族と異なるのは、いわゆる“多神教”であることです。一方、エルサレムを首都とする南ユダ王国は、紀元前586年に滅ぼされますが、バビロン捕囚のときもその後も、彼ら2支族はユダヤ教の伝統を守り、後年、その一族からイエス・キリストが生まれます。

●フェニキア船-Phoenician Ship

上図は、二段櫂船のフェニキア船です。
帆船であることはもちろんですが、上段に13本、下段に12本の櫂(かい)が描かれています。
両舷で50本もの櫂をもちますが、記録では三段櫂船もあったといわれていて、このような船で大海原を航海したようです。

《 古代オリエントの“海人族”の正体 》

では、古代オリエントの“海人族”とはどんな人たちだったのでしょうか。
ご理解いただくために、古代メソポタミアの“いきさつ”からご説明いたします。
ご退屈かもしれませんが、重要なのでご興味のある方はお付き合いください。
現在のイラクあたり、メソポタミア地方に世界最古といわれるシュメール都市文明が栄えます。
そのシュメールも、紀元前18世紀にメソポタミアを征服した古バビロニア帝国によって滅ぼされ姿を消します。
紀元前16世紀になると、古バビロニア帝国も、現在のトルコあたりにあった「ヒッタイト帝国」によって約200年後に滅ぼされます。
このヒッタイトが人類最初の鉄器文明を築きます。
要は、「製鉄技術」を最初に確立した民族です。
そのヒッタイトも、地中海を自分の庭のように荒らしまわったナゾの“海の民”によって、紀元前13世紀頃に滅ぼされたといわれています。
なぜナゾの“海の民”なのかというと、どの民族なのかがわからず、国をもたなかったからです。
一方、メソポタミアでは、アッシリア帝国が勢力を広げ、メソポタミアの全域とシリアやパレスチナを支配します。
また、地中海では、海を舞台に盛んに交易を行ない「航海術」に優れた“フェニキア人”が大活躍をしていました。
正確に申し上げますと、“海の民”と同様に“フェニキア人”という民族はなく、彼らもまた(日本のように)複合民族で、地中海沿岸に拠点となる都市を築いても、国家をもたなかったのです。
ただ彼らは、船材にレバノン杉を主に用いたために、古代イスラエル王国の北方(現在のレバノンあたり)に一大拠点を築きます。
それを“国”と呼ぶなら、そこが“フェニキア”です。
彼らは、最盛期を迎えた古代イスラエル王国のソロモン王と手を結び、世界に雄飛し、鉱物や珍品を約3年に1度のペースで持ち帰っています。
『旧約聖書』には、次のように記されています。

『旧約聖書』「列王記」より抜粋
ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金でできていた。
銀製のものはなかった。
ソロモン王の時代には、銀は値打ちのないものと見なされていた。
王は海に、ヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、
3年に1度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、孔雀を積んで入港した。

もともと砂漠や山の民のイスラエルに、世界を回れるほどの航海術はありません。
フェニキア人は、船材のレバノン杉を必要とし、栄華を極めたソロモン王は鉱物や珍品を必要としていたのです。
また、壊れた船の修理や建造には、鉄製の船釘が欠かせませんでした。
そのため、ナゾの“海の民”が滅ぼしたヒッタイトの製鉄技術にかかわる人々をも取り込んでいます。
そういったことから、紀元前の日本を訪れた古代オリエントの“海人族”は、「航海術」に優れたフェニキアをメインとし、「製鉄技術」を持ったヒッタイトの流れをひく人々と、ソロモン王配下のイスラエルの民といった「山師」による混成チームだったのです。

One-Point ◆ フェニキア人は「フェニキア文字」をつくったことで有名です。各国と交易するさいに必要だったのでしょう。アルファベットは、思想哲学や科学が栄えた古代ギリシャの文字をベースとします。そのギリシャ文字は、フェニキア文字をベースとしています。そのため、フェニキア文字はアルファベットのもとになりました。また、古代オリエントの人々は、石の文化でした。なので日本に来た古代オリエントの“海人族”は、石に文字(記号)を刻んで、再訪の目印や鉱脈の場所としています。これが俗にいう「ペトログリフ」(ペトロ;岩、グリフ:文字、岩刻文字)として、日本各地に残っているものの一部です。


●フェニキア由来のガラス

上はフェニキア人が地中海で交易にもちいた青いガラス片です。
           *
下は約2,000年ほど前の古代丹後の遺跡から発見されたガラスの釧(くしろ:腕輪)です。
」で青く発色したもので、被葬者が左腕にはめていました。
直径9.8cm。

当該遺蹟は、阿蘇海を見下ろす丘陵上にあり、「その7:古代をつなぐ丹後の海人族」でも触れましたが、阿蘇海に面した元伊勢こと籠神社(この じんじゃ)の奥宮には、ダビデの紋章の碑がありました。
今は、わけあって三つ巴紋に変更されていますが、籠神社(この じんじゃ)の宮司(神職)は海部氏で、海人族の出自なのです。

《 断層地帯とパワースポット 》

以上のようなことがわかれば、古代の日本のナゾが解けます。
また、「天皇シュメール起源説」や「日ユ同祖論」が間違いであることが簡単にみえてきます。
戦後、日教組による左巻きの反日教育や、マルクス史観(共産主義史観)の歴史学界は、日本のルーツがすべて共産主義国の中国大陸や朝鮮半島かのように解釈してきました。
そのため、中国よりも古い製鉄の跡が日本に発見されても、なにかの間違いだとし、認めることをせず、黙殺どころか歴史から抹殺しています。
しかし、昨今は、最先端のDNA鑑定から、日本人は独自のDNA(D1b)をもつ民族であることがわかり、稲もそのDNA研究から、半島経由ではないことが明確になっています。
ほかにもありますが、世界に類をみない日本の縄文文明は、黄河文明よりも古い文化的な生活を営んでいたことが明らかになっています。
実際、大陸や半島からの影響を受ける前に、原住日本人は、ポリネシアなど東や南の海人族からの影響はもちろん、当時、世界で最先端の文明を築いていた古代オリエントの“海人族”からの影響を受け、末期縄文文明や初期弥生文化を発展させていたのです。
それが記録として残らなかったのは、インド(ネパール)で生まれた「仏教」の経典が中国の「漢字」で記され、日本に輸入されたために、漢字文化が日本に根づいたからです。
そのため、あたかも中国からすべての文化が入ってきたかのように錯覚してしまうのです。
今では、日本独自のひらがなやカタカナはもちろん、西洋の近代文化を表現する漢字熟語は、江戸時代や明治の日本人が生み出したもので、それを知らずに現代中国人は自分たちの漢字だと思って使っているほどです。
お話をもどしましょう。
古代オリエントの“海人族”は、どのような地域で鉱物を探したのでしょうか。
彼らの目的は、金や銀はもちろん、武器や船釘に使う鉄鉱脈などの発見と製鉄でした。
日本は世界有数の火山地帯なので、断層が多く、鉱脈が剥き出しになっていた箇所が多かったのです。
そのため、彼らは、まず日本の島々や天然の良港を拠点とし、河口をめぐります。
なぜかといえば、断層の脇には川が流れることが多く、断層から落ちた鉱石片が洪水などによって河口付近に流され、その様相から奥地の地層を垣間みることができるためです。
信長や秀吉の安土桃山時代もそうですが、日本の山師たちは、川沿いをさかのぼり、崖から落ちた鉱石を見つけて、金や銀の鉱脈を断層から発見していました。
現代のように掘削機はありませんので、むき出しの断層から探すしかありません。
紀元前の古代オリエントの“海人族”も、日本各地の断層地帯をめぐり、河口や川辺りを手がかりに鉱脈を探したのです。
ペトログリフ(岩刻文字)が、断層地帯の山や川辺、また海の要衝近辺に多いのも、彼らが鉱脈を探して、何らかの目印にしたゆえだといえます。
ちなみに、日本には数多くの断層地帯がありますが、その中でも有名なのは、日本を東西に分ける「糸魚川-静岡構造線」と、その構造線の中央付近の「諏訪」から、「伊勢」を経て四国を縦断し、「阿蘇」を経由する「中央構造線」です。

これらの地域や近隣には、古くからの神社や「古代イスラエル」(海人族)にかかわる伝承が多く残ります。
実は「パワースポット」と呼ばれる場所も、この地域や近隣に多いのです。
なぜなら、断層地帯ゆえに通常とは異なる「磁場」や「気」が流れていたり、古代イスラエルの「波動」が残っていたりするためです。

One-Point ◆ 『古事記』や『日本書紀』によれば、初代神武天皇が即位したのが紀元前660年(前7世紀)。その前後の時代に古代オリエントの“海人族”が日本に来ています。彼らは西方から日本に来たので、そのことが「神武東征神話」に少なからず投影されたと考えられなくもありません。それでも“天皇”の起源は、神武東征神話も応神天皇の大和帰還(実質は東征)の記録も、北部九州を主体勢力としたことがわかります。
※注)“東征”は何度か行なわれていますが、神武東征に近いのは3世紀末です。『日本書紀』の「神武天皇記」に東征の出発地として明確に記されているのは、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはら みずほのくに)です。比定地を書けば、豊かに葦や稲穂が実る土地なので、古代は肥沃な沼地が多かった福岡平野か筑紫平野が有力で、いずれも九州北部になります。
つまり、天孫降臨の地とされる古代の“日向の高千穂”は、九州北部で、現在の宮崎が“日向”と名付けられたのは『日本書紀』編纂の前後、7世紀中期以降です。事実、『古事記』の国産み神話には、「筑紫国」(現在の福岡あたり)や「豊国」(福岡東部+大分)は出てきても、日向国(宮崎)は出てきません。統一大和以降の国なので、そこに天孫降臨はありえません。


●ヤコブと天使の組み打ち

ヤコブは、ヤボク川のほとりで天使と組み打ち(相撲)をします。
天使に勝ったヤコブは、天使から「イスラエル」の称号を与えられます。
そのため、ヤコブの息子たちは「イスラエルの12支族」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、アブラハムを信仰の祖とするのは、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じです。
ですが、ユダヤ教とキリスト教は、正妻の子イサクと孫のヤコブ(次男)を正統とします。
一方、イスラム教はアブラハムの側室の子で長男のイシュマエルを正統としています。


●『旧約聖書』創世記より抜粋

すなわち、彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。
ヤコブは独りあとに残ったが、一人の人が、夜明けまで彼と組打ちした。
ところで、その人はヤコブに勝てないのをみて、ヤコブの腿のつがいにさわったので、ヤコブの腿のつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。
その人は言った、「夜が明けるから私を去らせてください」。
ヤコブは答えた、「私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。
その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。
彼は答えた、「ヤコブです」。
その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに力を争って勝ったからです」。

《 古代イスラエルの痕跡 》

もう少し、古代イスラエルについて書いておきます。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、アブラハムを信仰の祖とします。
「イスラエルの12支族」というのは、アブラハムの孫、「ヤコブ」の12人の子どもたちのことです。
ヤコブは、帰郷するさいにヤボク川のほとりで一晩中、天使と組み打ち(相撲)をし、勝利します。
そのとき天使から「イスラエル」(神に勝った者=イシャラ、イスラ:勝者、エル:神)の称号を授けられたために、彼の息子たちは「イスラエル」の12支族と呼ばれるようになりました。
この12支族のうち、信仰に篤かったのがユダ族(もう一つは司祭のレビ族)で、そこから後年「ユダヤ教」と呼ばれるようになります。
つまり、狭義の意味では、ユダ族が住む場所がユダヤとされ、それゆえ「ユダヤ人」さらには「ユダヤ教」と称されます。
ちなみに、広義の意味で「ユダヤ教徒」といえば、必ずしもユダ族とかぎりません。
彼らにとって聖書といえば、『旧約聖書』のことで、新約聖書はふくまれません。
キリスト教は、新約聖書と旧約聖書の両方を『聖書』とします。
一方、そのほかの10支族は、ユダヤ教というよりも、ユダヤ教では禁止されている「金の子牛像」を崇拝するなど、ユダヤ教からみれば「不信の民」ですが、同じヤコブの息子たちで、イスラエル民族なのは同じです。
日本に来た古代オリエントの“海人族”は、上述のようにフェニキア人の船で来ていますが、その中に『旧約聖書』の素養をもったイスラエルの民がいたのは当然です。
また、フェニキア人やその流れを受けた人々は、古代日本人の言葉を「阿比留文字」(あびるもじ)といった、表音文字であらわし、意思疎通のために考え出したと思われます。
阿比留文字は、幣立神社の石板に関連して後述しますが、後日、ハングルの原型になりました。(左欄最下段をご参照ください)
半島では、15世紀になって、世宗大王がハングルの制定を行なっています。
それはともかく、日本を横断する断層「糸魚川-静岡構造線」と縦断する断層「中央構造線」が交わる「諏訪」には、数多くの縄文遺跡が残ります。
鉱物資源を求めてやってきた古代オリエントの“海人族”の中で、砂漠や山の民であるイスラエルの「山師」たちは、この地を拠点としたことがうかがえます。
なぜなら、諏訪には、イスラエルまた旧約聖書にかかわる数多くの伝承がみられるためです。
多くの人が知っている事実ですが、ソロモン王が神殿を築いた“モリヤ山”にちなんだ「守屋山」が諏訪市にあります。
その神殿の柱にする大木を切り出したように、7年に1度の「御柱祭」があることも有名です。
また、アブラハムがモリヤ山で、信仰の証に1人息子のイサクを神に献祭(燔祭)しようして、天使から止められ、代わりに羊を捧げたことに由来する「御頭祭」が今も続いています。
さらには、諏訪大社の“十間廊”が、古代イスラエルでモーゼの石板を入れた聖櫃(アーク:契約の箱)を祀る「幕屋」と同じ寸法であることなど、単なる偶然でこれだけの事実が重なることはありません。
だからといって、「日ユ同祖論」を持ち出すのは早計です。
なぜなら、神武東征による国ゆずりにさいして、“海人族”の健御名方神(たけみなかたのかみ)は、出雲から、仲間がいる諏訪に逃げ込んで、国ゆずりを了承したことからも、彼らが「天皇」につらなる天孫族側ではないことがわかります。
むしろ、神武に国をゆずった大物主神にかかわる一族で、最初に日本を治めて国づくりをした大国主命の側です

One-Point ◆ 『日本書紀』は、大和統一国家を築くにあたって、その統合的象徴として「天照大神」を定めます。そして主だった各地の「王」を天照大神に習合させています。国ゆずりをした元祖「天照大御神」を筆頭に、出雲の王「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)も誓約(うけい)によって習合させ、北部九州連合倭国の女王「卑弥呼」や二代目女王「台与」も、さらには伊勢神宮を今日のように築き、万世一系を定着させた「持統天皇」までも「天照大神」に習合させています。詳しくは、「その3:「天照大御神」の系譜」をご高覧ください。


●東西の海人族が祀った星々

日中はともかく、真っ暗闇の海の中で、夜空にきらめく満天の星は、美しく壮大で、神秘的なものです。
羅針盤がなかった当時、古代オリエントの海人族は、ひときわ輝く星を目印に航海をしました。
右の本文(竹内文書)に書かれた神々が来たとされる「北極星、スバル、オリオンの三つ星」は、いずれも海人族が祀り、目印として崇めた星です。
           *
★「スバル」ことプレアデスは、フェニキア人が、航海の季節が到来したことを知るための星です。
※地中海にプレアデスが見えはじめると春の到来で、航海をはじめました。
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★「北極星」は、現在と2,000年前では異なる星ですが、海人族が航海の目印にしたのは当然です。
※北極星は「妙見さま」とも呼ばれ、神社のご祭神にもなっています。
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★「オリオンの三つ星」は、日本では冬によく見え、南に向かう航海には欠かせない星です。
※宗像三女神に比定されるなど、海人族にかかわりの深い目印となる星たちです。

《 「竹内文書」と古代イスラエル 》

次に、偽書「竹内文書」(たけのうちもんじょ)に触れておきます。
竹内文書は、「皇祖皇太神宮」(こうそ こうたい じんぐう)に伝わるものと、自称「正統竹内家」に伝わる口伝との2つがあります。
前者は、戦前に裁判でとりあげられたのち、戦争で消失したといわれ、今残っているものは、記憶をたどって再述されたもののようです。
後者は、口伝なので、正確なところは不明ですが、一部が単行本として発刊されています。
いずれも、初代神武天皇以前に、72代の不合朝(あえずちょう)があり、その上古の25代、また天神7代が最初にあったとしたり、太古の昔に、神々が北極星スバルオリオンの三つ星(左欄ご参照)などの宇宙から来たとしたり、日本が世界で最古の民族で、そこから世界に散らばったとしたり、それゆえ孔子や釈迦やキリストが日本に学びに来たとするなど、要はニセ歴史のトンデモ本です。
ですが、なぜそういった記録が残るのかには理由があります。
天神族の「神武天皇」以前の王朝のお話でもあることからおわかりのように、それ以前に国を治めていた大物主神や大国主命の側で、要は、古代イスラエルの“海人族”にかかわり、最初に国づくりをした側が持ち出したお話なのです。
それゆえ、神武以前の皇祖を意味する「皇祖皇太神宮」を称し、本来は自分たちのほうが「元祖」だと記録しているわけです。
さらには、「竹内文書」の内容を伝え聞くと、どうしても『旧約聖書』との類似性を想起せざるをえません。
『旧約聖書』は、「創世記」第1章の神による「天地創造」からはじまる雄大なお話で、そこから人類の始祖、最初の人間であるアダムとエバが生まれ、その子孫のノアを経て、ノアの子どもたちセム、ハム、ヤプテがそれぞれに「黒人」「黄色人」「白人」の先祖になって世界に散らばったというお話です。
つまり「竹内文書」というのは、紀元前10世紀〜同6世紀頃に日本に来た古代オリエントの“海人族”の流れを引き、神武以前に国を治めていた人々が、日本における自分たちのプレゼンス(存在感)を、『旧約聖書』をタネ本として記したものです。
それが後年、書き直されたり、伝言ゲームのように口伝で伝えられていくうちに、少しずつお話が変わったり、尾ひれがついたりして、現在のような「天皇宇宙人起源説」といった「竹内文書」になっていったわけです。
「火のないところに煙はたたない」といいますが、「煙」に実体はありません。
火は『旧約聖書』で、煙は「竹内文書」です。
以上のことがわかれば、なぜ「竹内文書」が存在するのかといった理由がわかります。
また、その内容が日本離れしていて「世界」や「宇宙」におよんで壮大であることが納得できます。
日本に来た古代オリエントの“海人族”は、古代オリエント(中東地域)はもちろん、インドや東南アジアの島々や中国大陸など、アジア各地を航海していますし、天地創造を記した『旧約聖書』の世界観をもっていましたので、それらを日本における自分たちの歴史として原書「竹内文書」に記したものです

One-Point ◆ お話がみえていますでしょうか。さらに書いておきますと、「竹内文書」は、武内宿禰を祖とする竹内家や皇祖皇太神宮に伝わります。『日本書紀』では、武内宿禰は天皇ではなく、300歳前後も生きて天皇につかえた大臣(おおおみ)として記されています。しかし、武内宿禰の時代の天皇たちの記述には矛盾が多く、実際的には架空の天皇たちです。史実としては、“武内宿禰”になぞらえられた実在の人物が、元祖「天皇」(大王)か、その一人なのです。それは当サイトの「建国記念の日」特集や連載「占星学と解く日本成立史」で示唆したとおりです。


●幣立蔵の石板とフェニキア文字

左側の石板には、ハングルの原型となった阿比留文字で「アソヒノオホカミ」と書かれています。
下がその写しと読みですが、右のフェニキア文字と比べてみれば、似ているのがおわかりでしょう。

●同じく五色人面

お面に残る彩色から、左から「黒・白・黄・赤・青」の五色人(神)だとされますが、古代の単なる素朴な「神楽面」にしかみえません。

《 「幣立神宮」の虚構 》

番外編2:幣立神宮の実と虚構」に書いたとおり、自称「幣立神宮」の由緒は、虚構(フィクション)です。
ただし、阿蘇山やその周辺は断層地帯ゆえに、鉱脈を探しに古代オリエントの“海人族”が訪れています。
なぜ、阿蘇の山奥まで来たのかというと、太平洋に注ぐ五ヶ瀬川沿いをさかのぼってきたケースと、阿蘇の噴煙を見て鉱脈を探しに来たケースが考えられます。
九州のヘソと幣立神社を訪れたとき、五ヶ瀬川の川原に降りて、しばし涼みました。
そのとき、川には小さな“5色”の石が点々とありました。
要は、火山活動によって、それだけさまざまな石や鉱物が生成された土地なのです。
なので古代オリエントの“山師”が、この地を訪れたことは、阿蘇の「押戸石の丘」にもペトログリフが残されていることからも明らかです。
かといって、今から1,000年前後前にできた幣立社(幣立神社)と、紀元前の古代オリエントの“海人族”に直接の関連はありません。
まして、20年の歴史しかない「幣立神宮」など、なおさらです。
むしろ、阿蘇神社の主祭神で、神武天皇の孫とされる「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)に退治された「ナマズ」のほうが、古代オリエントの“海人族”との関連性を象わしています。
ナマズ祭祀は、阿蘇にかぎらず、有明海沿岸や九州北岸また福岡の那珂川沿いなど、北部九州に多く残ります。
そういったことからも幣立神社(幣立社)は、「ナマズ」にたとえられた古代オリエントの“海人族”の「山師」らを鎮めるために、阿蘇神社の摂社「幣立社」がつくられ、それゆえ古代イスラエルゆかりの文物が、鎮魂祭祀のために幣立神社に集められて残ったとしてもおかしくはありません。
その一つと考えられる石板には、阿比留文字で次のように書かれています。
「アソヒノオホカミ」
これが「阿蘇霊(日、火)大神」を意味するのかは不明ですが、ハングルを読めれば意味は不明でも、誰でもほぼ読めます。
ちなみに「ナマズ」のことを「asotus」(アソトゥス)といいますが、関係あるのでしょうか。
それはともかく、フェニキア文字は発音を表わす表音文字なので、同じ表音文字で形もよく似た「阿比留文字」は、古代オリエントの“海人族”のフェニキア人が考案して、日本原住の縄文人との「会話」や「記録」に使ったと考えられます。
もう一つ、幣立神社に残るものに「五色人面」(五色神面)があります。
こちらは、『旧約聖書』に記された「セム(黒人)、ハム(黄色人)、ヤプテ(白人)」に加えて、アジア各地を航海してきた“海人族”が、見聞から「赤人」と「青人」を追加したと考えられます。
だからといってこれは、神社で行なわれる「神楽」(かぐら)に用いられた古代の素朴な「神楽面」にすぎません。
近年の神楽面とは異なり、形もシンプルですし、詳しい彩色もわかりづらいのですが、神社に残る「面」といえば、都会の現代人には馴染みがうすいかもしれませんが、だれでも神楽面だとわかります。
単にそういうことで、これらをどう勘違いしたのか、「竹内文書」を流用して、「大宇宙大和神」(おおとのちおおかみ)を創作して主祭神に加えたり、幣立こそが天孫降臨の地で、高天原であり、また神武東征の出発地など、神社の当人たちも“ウソ”だと知っていながら、虚構の由緒をつくりあげて、権威づけと人集めを図る自称「幣立神宮」になっているわけです。

One-Point ◆ もっとも、神社のほとんどが、由緒をたどれば、だいたいそういうものです。かつては統治者が変わることによって、神社名や主祭神が変わったり、神秘的な由緒がでっちあげられることはしょっちゅうでした。とくに著しい時期を挙げれば、『古事記』や『日本書紀』ができてから、そこに記される神々を主祭神にしたり、また仏教が定着し「神仏習合」が行なわれたときもそうで、さらには明治になってから逆パターンの「神仏分離」や「廃仏毀釈」が行なわれたときも、神社名や主祭神の変更は著しく、また敗戦の時期もそういうケースが全国的にありました。
なので、ほんものの由緒あるごく少数の神社を除いては、神社のご祭神や由緒を額面どおり信じると、間違った歴史解釈をしてしまいます。自称「幣立神宮」も、そのような事実を知っていますので、20年ほど前から「15,000年の由緒をもつ幣立神宮」として、いまさらながら虚構の由緒の既成事実化を図ろうとしています。



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