宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
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日本の国体はご存じのように「天皇制」です。
その国体は、占星学では「水瓶宮」で象わすことができます。
天皇という権力ならざる「権威」のもと、対等な合議制だからです。
●第1稿 : 2017年 2月11日 アップ
※近日中にリライトする可能性があります。
日本は、天皇を実質上、「国家元首」とする国です。
「天皇制」というと、一般的には太古のむかしからあって、皇祖神「天照大御神」を祀ってきたかのように考えますが、それが当然となったのは、明治維新からです。
もちろん、天皇はそれ以前から存在していましたし「権威」でしたが、名実ともの「天皇制」となったのは近年のことです。
当たり前ですが「天皇」なくして日本は成り立ちません。
なぜなら、天皇がいなければ日本に「天運」がともなわないからです。
日本は、2,000年以上前の「双魚宮時代」から、民族性を「魚宮」とし、昨今の「宝瓶宮時代」にそなえて、国体を「水瓶宮」とする天皇をいただく国家でした。
そのため、双魚宮時代にそう“民族性”もそうですが、宝瓶宮時代にそった“国体”をもつ日本は、名実ともに「天皇制」をいだく国家となった明治以降、天皇のもと臣民平等の“自由民主主義国家”として、以前にもまして「天運」をえてきました。
それゆえ、当時、アジアで唯一の近代国家となり、西洋列強の仲間入りをします。
もちろん、先の戦争とその直前、一時的にいわゆる“軍国主義”といわれるようになりましたが、国家存亡の危機に追い込まれたために「民主主義」たりえなかったのはしかたのないことです。
しかし、戦後、「天皇制」の存続はもちろん、さらなる自由民主主義国家として、「天運」を失うことなく、急速な復興と高度経済成長を成し遂げ、アメリカに次ぐ第2位の経済大国になりました。
そういったことをふくめて、日本が他国に一度も侵略されることなく、今日の繁栄を築いてきたのは、人類歴史の奇跡といって過言ではありません。
実際は、幾度となく国家の危機を迎えています。
しかし、不思議なことに、敵国側の状況変化により日本まで攻め込まれなかったり、攻めてきても、いわゆる「神風」が吹いたり、高い識字率をふくめ素養をそなえてきたことによって、たちまち近代化を成し遂げたために植民地にならなかったり、いわゆる“偶発的”ともいえる変化によって守られてきました。
そのため、日本人は国家が1,000年単位で続くのは当然のように思っていますが、たとえば中国は、わずか70年ほどの歴史しかありません。
そのように興亡盛衰の悲哀を味わうのは、人類歴史の“常”です。
ちなみに「中国4,000年の歴史」というのは、日本より優位に立とうとするプロパガンダ(政治宣伝)で、中国共産党の常套手段の大ウソです。
なぜなら、日本人にとって歴史は「真実」たるべきものですが、中国などかの国々にとっての「歴史」は、政治のための手段でしかないためです。
いずれにせよ日本は、権力者が変わっても、常に権威は「天皇」にありました。
これが日本に「天運」がともなってきた理由で、きたるべき「宝瓶宮時代」にそなえて、人類の“サンプル”として温存されてきたのです。
One-Point ◆ 書いている意味はおわかりだと存じます。平たくいえば、宝瓶宮時代を築くには、“民度”が必要です。日本はその“モデル”になるべく天皇制による天運によって守られてきました。日本と同じく「水瓶宮」を国体とするアメリカは、世界の「自由民主主義体制」はもちろん、日本を守る「天命」をもちます。これが先の戦争をふくめて、幕末のペリー来航による「開国」や、その後の「大政奉還」による「明治維新」(近代化)の誘発や、先の敗戦にともなう「日米同盟」の締結や「米軍駐留」を可能にしたことです。
ここに人類歴史の一つの「軸」があります。
宝瓶宮時代への流れをみた場合、占星学的にそういえるのです。
つまり、この「軸」にそって動けば、時代の流れと共鳴し、いわゆる「天運」がともないます。
たとえば、安倍首相は、ホンモノの政治家特有のカンなのか、国民と日本を守ろうとする使命感なのか、それとも時代の流れを見抜いた歴史的な見識ゆえなのか、人智を超えた戦略と人徳とをもって、上述の方向に動いており、それゆえ今のところ、「天運」をともなっています。
そういうことがありまして、日本人全員ではなくてもいいのですが、天皇とともにある「天運」をいだいている以上、それに応じた責務を歴史的にもちます。
現実的には、日本の現体制「牡牛宮」によって、世界に冠たる「生活形態」を営みつつ、「民度」を発揮していくことです。
ちなみに、冷厳な事実(法則)から申し上げますと、脅すわけではないのですが、「天運」をいだいた国民がそれを果たせないとき、宇宙この世界に秘められた「両極性の法則」によって、相応の「数理期間」を経たのち、「天運」に見放される悲惨な出来事を招来しかねません。
「両極性の法則」や「数理期間」につきましては、ここでご説明を申し上げても、かぎられた文字数のなかでは「信じる信じない」のお話になりますので省略いたします。
ただし「数理法則とクオリアル・ワールド」伝授講座をご受講のみなさまであれば、相応にご推察いただけたりご理解をいただけると存じます。
ここは、占星学サイトらしく、現体制「牡牛宮」についてご説明を差し上げます。
戦後、日本の現体制は「牡牛宮」に変わりました。
「牡牛宮」というのは、日常の現実生活や、そのための経済を重視します。
そして快適な生活環境にて安全にくらすことをめざします。
牡牛宮の象意をどれくらい強くもつかによっても異なるのですが、わかりやすく申し上げますと「衣食住」を充実させた生活をおくろうとします。
衣:ファッション、食:グルメ、住:インテリアなどへのご自分なりのこだわりはもちろん、便利で高性能な家電製品などを含めてもいいのですが、生活空間における「アメニティー」(都市や住宅などの生活環境の快適さ)を追求します。
これが戦後、日本が我知らず目指してきたものの一つです。
昨今は、このことが、日本の「民族性」や「国体」が受けている「世界的プレゼンスがアップ」していく星のディレクションをともなって、街角の美しさはもちろん、衣食住にかかわる生活環境の快適さが、日本人の「民度」とともに世界に認められつつあります。
が、それも占星学の「天運」から納得やご説明ができるのです。
まとめますと、生活環境の豊かさや快適さとともに、民度の高さは、日本が今後、世界のモデルになっていくために、天皇制にともなう「天運」によってもたらされています。
One-Point ◆ 宝瓶宮占星学からみますと、戦後日本の現体制が「牡牛宮」ゆえに「経済大国」と同時に「ハイ・クオリティー」な環境が築かれてきた理由が、かんたんに理解できます。もちろん、そこに至る相応の「数理期間」は必要ですし、「現体制」(牡牛宮)だけではなく「星のディレクション」がともなうことで、世界から評価されはじめたものです。
●現在、天皇の先祖である皇祖神は「天照大神」と定められています。
ですが、『日本書紀』に記された「皇祖」は「天照大神」ではありません。
『日本書紀』「神代」(下)の冒頭に、次のように記されています。
「皇祖の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、とくに可愛がられて…」
高皇産霊尊が皇祖なのです。
そして、天孫降臨される孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を大事に育てて、葦原中つ国の君主にしたいと思われたという記述です。
ただし、『日本書紀』に記述はなくても、本文に書いたように、明治天皇が皇祖神(皇室の先祖)は、「天照大神」とご裁可をくだされた以上、現在は「天照大神」が皇祖神となっています。
お話を「天皇制」にもどします。
日本が、名実ともの「天皇制」に移行したのは、明治維新からです。
それまでは「武家社会」でした。
実際、徳川幕府によって、天皇や公家は「禁中並公家諸法度」によって統制下におかれてきました。
幕末が近づくにつれて、皮肉なことに家康が導入した「儒教教育」と、水戸黄門こと光圀がはじめた「水戸学」に端を発する日本史の研究とともに、天皇を第一とする「尊王思想」が高まってきました。
理由は何度か書いてきましたが、占星学的に申し上げますと、江戸開幕の直後、西暦1630年から宝瓶宮時代の影響圏に入ったためです。
時代の流れにそったものは「天運」がともなっていくという共鳴法則がありますので、「水瓶宮」で象わされる「天皇制」は、宝瓶宮時代の波動の強まりとともに、次第に見直しがはじまり、ついには天皇への回帰が起きたのです。
ちなみに、「宝瓶宮」というのは「水瓶宮」の古典的名称です。
厳密には、通常の水瓶宮と、宝瓶宮時代というときの水瓶宮(宝瓶宮)とは、起点となる位置が異なりますので、宝瓶宮占星学では、プラトン年によって規定される歴史的時代区分は、たとえば「白羊宮」「双魚宮」「宝瓶宮」「磨羯宮」といった12サイン(宮)の古典的名称を用いています。
それはともかく、今も神棚に祀っている家庭があることから、日本人はむかしから「天照大御神」に手をあわせてきたと思われている方が多いと存じます。
残念ながら間違いといってよいものです。
「天照大御神」が正式に日本の「皇祖神」となったのは、明治になってからです。
明治維新ののち、国家神道として「天照大御神」と「素戔嗚尊」のどちらを祀るかで議論がなされました。
両神道ともゆずらず決着がつかないので、明治天皇にご聖断を仰ぎ、「天照大御神」を皇祖神に決定したいきさつがあります。
なので、それまでは「素戔嗚尊」も“皇祖神”の1柱として祀られていたのです。
One-Point ◆ 明治新政府(主に薩長)は、国家を一つにまとめるために「天皇」を必要としました。なぜなら、江戸時代に復活した『古事記』や『日本書紀』によって、幕末には、太古より“万世一系”とされる天皇は、だれも反論できない正統な国家元首としてのコンセンサスが醸成されていたからです。そこで若き「明治天皇」を象徴として、国政の中心におき、名実ともの「天皇制」によって臣民(国民)一体となり、近代化と富国強兵の道をきりひらいてきました。それによって、アジアで唯一、西洋列強の植民地化を免れたのはご存じのとおりです。
すでにご存じの当たり前のことを書きます。
では、「天皇」(天皇制)は、いつからはじまったのでしょうか。
もちろん、「天皇」号をはじめてもちいた天武天皇からです。
“万世一系”の皇統のなかでは、「第40代 天武天皇」として位置づけられますが、天皇という号を定め、天皇制による統一国家のグランド・デザインを描いたのは、「天武天皇」ご自身です。
ゆえに実質上の“初代天皇”です。
しかし、それだけで万世一系はなしえません。
天武の意志をだれよりも理解した正妃「持統天皇」によって、万世一系の天皇制の確立が実体的になされていきました。
持統天皇は、天武天皇の“遺志”を継いで、早世した草壁皇子に代わり、その長男、孫の珂瑠(軽)皇子こと「文武天皇」への譲位に、傍からみれば異常ともいえるほど執心します。
結果、『日本書紀』の「天孫降臨神話」にみられる、高天原の「天照大神」から孫の「瓊瓊杵尊」(ににぎの みこと)へ天の皇統が受けつがれたように、地上の「持統天皇」から孫の「文武天皇」へ現実的に皇統が受けつがれます。
このことは、持統天皇の本来の天皇名である和風諡号や、文武天皇の和風諡号をみれば一目瞭然です。
ちなみに、持統天皇は、「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)と申し上げ、「天照大神」を暗示しています。
一方、文武天皇は、24歳ほどの若さで崩御されたにもかかわらず、「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよ おほぢの すめらみこと)、また「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよ おほぢの すめらみこと)と申し上げ、「祖父」(おほぢ)がついています。
これは文武天皇によって、実際の「万世一系」の原型が完成したからです。
結局、天武系三代の天皇によって、日本に「万世一系」が定着していきます。
そういったこともありまして、「天武天皇」から事実上の「天皇制」がはじまりました。
その後、「天智系天皇」の代になると、藤原摂関家の専横や、武家政権の台頭によって、天皇とは名ばかりの落ちぶれた状態になっていきます。
こうなると、天皇制と呼ぶにははばかられ、カタチだけの天皇の御世が長いこと続きました。
さて、もう一人、「天皇制」の定着に貢献した重要な人物がいます。
天武天皇の皇子「舎人親王」(とねり しんのう)です。
天武は、「2度と皇位争いを起こさない」(万世一系の保持、平和の維持、独立日本の統一)を誓い、国家1,000年の大計をもって、天皇の正統性を歴史的に裏づける『日本書紀』の編纂を命じます。
そのプロジェクト・チームの総裁をつとめたのが、歌人でもある舎人親王です。
藤原不比等の知恵と助けをえて、『日本書紀』は「天皇制」確立の“思想的”バックボーンとなっていきます。
ここでいう“思想”こそが、意図的に“創入”された「和をもって貴しとなす、逆らうことなきを宗とせよ」といった世にいう“十七条憲法”すなわち「和(絆)の精神」です。
“十七条憲法”の真偽はともかく、その内容は、宝瓶宮時代の「友愛精神」(和、絆)につうじます。
さて、上述に先立ち、壬申の乱にあたって大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの「天武天皇」)は、かつて大和を治めていた元祖「天照大御神」を祀る伊勢を遥拝します。
当時は、小さな社(やしろ)か祠(ほこら)程度にすぎず、壬申の乱に勝利した天武天皇によって現在のような広大で立派な伊勢神宮に改建されます。
それを成し遂げたのも、やはり天武の遺志を受け継いだ持統天皇でした。
One-Point ◆ 伊勢に祀られる「天照坐皇大御神」」(あまてらしますすめ おおみかみ)と、『日本書紀』で創作された「天照大神」は、必ずしも同一とはいえないのですが、実在の人物か神話上のシンボルかはともかく、いずれにしても日本の“元祖”に位置づけられています。
続きを書きます。
天武と持統は、伊勢神宮を現在のように立派にし、天照大御神を祀ります。
ですが、持統天皇の伊勢ご参拝は、まわりから反対されました。
それでも持統天皇は、天武天皇と盟約を交わした吉野や、伊勢神宮を訪れ、参拝を続けています。
事実、ご存じの方も多いと思いますが、持統天皇ののち、伊勢を参拝した天皇は一人もいません。
つまり、のちの「天智系天皇」は、「天照大御神」を皇祖と認めていないのです。
結局、約1,000年後になって、明治天皇が初めて伊勢神宮をご親拝されています。
ここに、明治天皇になって初めて名実ともの「天皇制」にもどった“秘密”があります。
これによって天皇制にともなう「天運」が顕著にはたらきはじめたのです。
ちなみに、「神宮」というのは、原則、天皇を祀る神社のことです。
明治天皇が崩御されたのち、「明治神宮」が創建されたのは、その代表例です。
今でこそ「神宮」と呼ばれる神社は多くありますが、かつては伊勢のみといってもよく、『日本書紀』では、伊勢のほかには「石上神宮」と「出雲大神宮」(出雲大社)しか記載がありません。
その後の『延喜式神名帳』では、伊勢のほかには「鹿島神宮」と「香取神宮」のみです。
なぜなら、江戸時代までは、神道(神社)よりも、仏教(寺院)のほうが優れていると考えられていましたので、神宮よりも、「神仏習合」によって“八幡宮”など寺院名を名乗り仏像を安置していたほどです。
たとえば、「宇佐神宮」は、今でも“宇佐八幡宮”と呼ばれることがあるように、明治以前は「宇佐八幡宮弥勒寺」でした。
それが、早くは江戸時代末期、遅くとも明治の「神仏分離令」によって、廃仏毀釈が行なわれ、仏像を排して、もとの神社名にもどしたり、「記紀」の神々を新たにご祭神にするなどして、神社また神宮への変更が行なわれています。
なので、神社だからといって『古事記』や『日本書紀』のむかしからあるものは少なく、ご祭神でさえも、神主や宮司の判断によって敗戦などとともに由緒あるものに変えられたものは案外と多くあります。
そういった歴史的な事情によって変えざるをえなかったものは仕方ないとしても、どこかの山奥の「神宮」のように、わずか20年ほど前に人為的に「神宮」を自称しはじめた神社を、5,000年の歴史がある“パワースポット”などとありがたがるのは、個人の主観や感覚なので自由ですが、個人的には“うさん臭い”としか思えません。
One-Point ◆ 天皇が即位されるとき、皇族がご結婚されるとき、またご成人されるとき、現在はかならず伊勢に行かれます。もっとも庶民は17世紀初頭の江戸時代から「お蔭参り」(お伊勢参り)をしてきましたし、そのはるか以前、12世紀の平清盛の時代に元武士だった西行法師が、伊勢を訪れて、「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と詠んだのは有名なお話です。
明治天皇は、伊勢をご親拝されたさい、一説では本来、天皇もみることができないとされたご神鏡「八咫鏡」(やたのかがみ)をご天拝されたといわれます。
また、四国に流されていた平安時代の大怨霊「崇徳天皇」の御魂を、京都に戻して解怨されてから、その翌日に即位されています。
いずれにしても「明治天皇」から名実ともに「天皇制」が復活したのです。
ちなみに、即位にさいして執り行われる儀式の数々も、その多くは「天武天皇」が即位にさいして定めたものといわれます。
解釈はさまざまにありますが、権力の継承というより、国家と臣民の平和と繁栄を願い、先祖神や大自然の神々に祈る祭祀となっています。
また、天皇である“みしるし”として「剣璽等承継の儀」が行なわれます。
宝剣「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)と「御璽」(ぎょじ:天皇の印章)また「国璽」(こくじ)を引き継ぐものです。
天照大御神の御霊代(みたましろ)である「八咫鏡」は、皇居の賢所(かしこどころ)から動かされることはありません。
「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)も、天皇がおられる御所の「剣璽の間」にもとより奉安されています。
結局、国譲りによる大和統一の歴史にのっとって、「草薙の剣」をゆずり受けることによって統一大和の天皇に即位することを象わす儀式です。
草薙の剣は、『日本書紀』では、日本各地をたいらげた「ヤマトタケル」が用いたもので、もとは「素戔嗚尊」が出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに尻尾から出てきた「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)であることはご存じのとおりです。
ヤマトタケルも素戔嗚尊も、地方を治めた実在の人物を「神話化」して呼称したものですが、要は、彼らから「剣」をゆずり受けることで日本の天皇たることを象徴する儀式です。
ちなみに「八尺瓊の勾玉」以外は、「形代」(かたしろ:レプリカ)で、本物の「八咫鏡」は伊勢神宮に祀られ、「草薙の剣」は熱田神宮に祀られているのはご存じのとおりです。
One-Point ◆ 本来は“二種の神器”です。『日本書紀』には「剣」と「鏡」しか出てきません。ただし、神話である「神代」(下)の、しかも異聞である「一書」の“天孫降臨神話”にのみ、「三種の神器」が出てくるだけです。この部分は明らかに創作で、文武天皇への譲位を“歴史的”(神話的)に正当づける藤原不比等のアイデアです。
結局は、統一大和の7世紀末〜8世紀初めに「八尺瓊の勾玉」が「三種の神器」として加えられ、『日本書紀』に記載され定着してきました。そういった事情から、「剣璽」というときの「璽」が勾玉をさすというのは間違いで、「草薙の剣」と「御璽」また「国璽」といった剣と璽(印章)を引き継ぐものになっています。
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