宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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↑ 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
●第1稿 : 2023年 2月21日アップ
双魚宮時代の末期は「海王星」の象意“誤認”や“欺瞞”などに基づいて、驚くほど多くの誤解や勘違いが発生しています。
“〇〇で当然”と思われているケースが多いのですが、ここでは「伊勢神宮」と「倭大国魂神社」を取り上げてみます。
明治天皇のご裁可によって、皇祖神は「天照大神」(あまてらす おおみかみ)と定められました。
ですが『日本書紀』が720年に奏上されて以降、庶民は異なりますが、天照大神は幕末まで歴代天皇からはむしろ疎んじられ忌避されてきました。
歴史的な事実はそういうことで、皇祖神ではないものの、日本の「祖神」といえるご存在です。
皇祖神は、天照大神ではありませんでした。
『日本書紀』神代(下巻)の冒頭に「皇祖の高皇産霊尊(たかみ むすひ の みこと)は…」とハッキリと書かれています。
『日本書紀』によると、高皇産霊尊の娘と、天照大神の子の天忍穂耳尊(あめ の おしほみみ の みこと)が結婚し、天孫降臨された「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が誕生します。
後年、皇祖の親戚となりましたが、もともとは別の系統です。
また、天照大神は「女性神」のように思われていて卑弥呼と同一視されることがありますが、「LGBT」でもなくれっきとした男性神です。
One-Point ◆ 『日本書紀』が、なぜ「女性神」とも解釈できるように記述したのかというと、編纂当時の第41代持統天皇(高天原広野姫天皇)から、孫の文武天皇(天之真宗豊祖父天皇)への皇位継承によって万世一系を確立させるためです。
●『日本書紀』は、なぜ「天照大神」を女性神と読めるようにしたのでしょうか。
ポイントは次のとおりです。
「天照大神」→孫の「瓊瓊杵尊」の天孫降臨による天皇家の正当性。
「持統天皇」→孫の「文武天皇」への皇位継承による万世一系の正当性。
女性の持統天皇を「天照大神」になぞらえ、孫の文武天皇への皇位継承をスムーズに行なうことで、念願の万世一系の定着を図るためです。
両天皇の和風諡号(しごう)をみれば明らかです。
もう一つは「大日靈貴」(おおひるめ の むち:「靈」の巫の部分は女)との混同をはじめ、素戔嗚尊との誓約(うけい)や各地の豪族の祖神を神話上の「天照大神」に習合させて、日本を一つにまとめるためです。
天照大神が皇祖神ではなかったもう一つの理由をご説明いたします。
大和の支配をかけた古代最大の戦い「壬申の乱」(じんしんのらん:672年)に際し、のちの天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)こと大海人皇子(おおあま の おうじ)は、隠棲先の吉野から東国へ向かう途中、伊勢を遥拝します。
当時の伊勢は小さな祠がある程度にすぎません。
「壬申の乱」に勝利した天武天皇の発意によって、后の持統天皇が今日のように立派な伊勢神宮に造りかえ、式年遷宮まで行なうようにしたものです。
ところが、歴代天皇は立派になった伊勢神宮を以後、誰一人としてご親拝していないのです。
天照大神が皇祖神であれば、ありえないお話です。
明治になって初めて明治天皇が伊勢神宮をご親拝されました。
One-Point ◆ 歴代天皇が盛んに熊野詣をした記録はあっても、伊勢を訪れなかった主な理由は、次の2つです。1つは天照大神が皇祖神ではなかったこと。もう1つは、神仏習合によって天皇は「院号」を名のるなど、神道よりも仏教に帰依していたからです。
では、歴史的な実在の天照大神とはどなたなのでしょうか。
最初に国づくりを行ない、『日本書紀』の記述では初代「神武天皇」に国譲りをし、実際的には実質上の初代である第10代「崇神天皇」に国譲りをされた天孫系の祖です。
『日本書紀』神代(上巻)をみてみましょう。
伊弉諾尊(いざなぎ の みこと)が、黄泉の国に葬られた伊弉冉尊(いざなみ の みこと)のもとから帰ってきて、祓(みそ)ぎはらいをされて左目を洗ったときに生まれたのが「天照大神」とされています。
それに先駆けて、伊弉諾尊と伊弉冉尊が最初に国生みをしたときに、天下の君たるものとして生んだ“日の神”が「大日靈貴」(「靈」の巫の部分は女)です。
のちに高天原に送り上げられたり、「一書に天照大神という」とも記されていることなどから「天照大神」と混同されていますが、その正体は、通称「魏志倭人伝」に記される卑弥呼(ひみこ)です。
神話上の「天照大神」は中性神ですが、歴史上の天照大神は男性で、卑弥呼は女性なので、まったくの別人です。
One-Point ◆ 伊勢に祀られていた天照大神は、最初に国づくりを行なって大和を治めていた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あまのほのあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と申し上げます。
天武天皇こと大海人皇子は、伊勢に海人族の祖が祀られていることを知っていました。
尾張に拠点を構えていた海人族とのつながりが深いためで、伊勢湾の入り口に祖神を祀って大洋航海に際し、当時は小さな祠だった“原伊勢”に安全を祈願していたのでしょう。
最初に国づくりをし、かつて大和を治めていたので、大和の支配権をかけた「壬申の乱」に際して、大海人皇子は伊勢を遥拝しました。
結局、『日本書紀』においては高皇産霊尊が「皇祖」と記され、歴史的には国譲りを行なった敵対側の天照大神だったことから、歴代天皇が伊勢をご親拝することはありませんでした。
一方、庶民は、古代の国づくりにおいて、最初に国を治めた主という意味をもつ“大国主”こと別称:天照大神が、病気の治療を含めて、いろいろと教え助けてくれた祖神でもあるために、何気に感じていたようでお伊勢参りを行なっています。
ちなみに、『日本書紀』に記される「天照大神」というのは、当時の国家分裂と他国からの侵攻の可能性という危機的な国情から、天皇のもとに臣民一体の挙国一致体制を図り、統一独立国家「大和」を建国するために、全豪族らが崇拝できる象徴となる習合神です。
One-Point ◆ 『日本書紀』は、古代の歴史書であると同時にプロパガンダ(政治宣伝)の書です。編纂に際して、レトリックを駆使して万世一系を確立させたカゲの編者:藤原不比等は天才ですが、藤原本家を古来から天皇家とともにある由緒ある家柄として描いています。
●ご参考に書いておきます。
最初の国づくりに四国は重要な拠点でした。
ただし、万世一系の皇統を記した『日本書紀』に四国が出てこないことからもお分かりのように、天皇家に国譲りをした側なので忘れ去られていくことになります。
徳島の阿波忌部氏をみてもお感じの方がいらっしゃるかもしれませんが、その無念の魂の叫びが今日にも残っているようです。
四国にかかわる歴史研究家や好事家の多くは、無意識にそのことを感じとっているのです。
そのため、古代の発祥や所在などに関して、ウリジナルならぬ「我こそが本家本元!」いった“反発”や“恨み”、また純朴な人柄ゆえに“思い込み”が強く、自己主張をされることがみられます。
四国は歴史的に由緒ある土地柄なので、その後の歴史的事実やご認識を混同し、国づくりの過去と現状との勘違いがみられます。
初代神武天皇と並んで、「御肇国天皇」(初めて国を治めた天皇)と記される第10代「崇神天皇」がいらっしゃいます。
その天皇紀に不思議な記述があります。
宮殿に祀っていた「天照大神」と「倭大国魂神」(やまと おおくにたま の かみ)の神威に不安を覚え、ほかに移すことにしたというのです。
倭大国魂神は、いわゆる最初に国々をまとめられた各地の大国主(大国魂)のトップともいえるお方です。
天照大神も倭大国魂神も天皇家ゆかりであれば、その「ご神威」を喜びこそすれ、不安を覚える必要はないはずです。
真相は、崇神天皇の御世に事実上の“国譲り”が行なわれ、結果的に天照大神は伊勢に、倭大国魂神は四国に戻して鎮魂し、大神神社(おおみわじんじゃ:大物主神)を拝殿として三ツ鳥居によって、それぞれを祀るようにしたものと考えられます。
ちなみに、東京都府中市に大国魂大神を祀る「大国魂神社」がありますが、そちらではなく四国に戻して祀られた延喜式に記される「倭大国魂神社」のほうです。
One-Point ◆ 明治以降、最初に国づくりを成し遂げた天照大神が明治天皇のご裁可によって皇祖神に定められたということは、国譲りの前の日本の原点に戻ったという仕儀です。日本のルーツいわば霊統に宝瓶宮時代に向けて驚愕の大どんでん返しが起きたことを意味しています。
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