宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
↑ 倭王に裴世清を遣わした隋の煬帝
●第1稿 : 2013年 3月15日アップ
《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。
「日本成立史」を宝瓶宮占星学を交えてお届けする2回めです。
歴史上の人物といえども、ホロスコープ(出生天球図)を持っていますので、占星学を活用した「プロファイリング」が可能です。
また、宝瓶宮占星学の特長である「星のディレクション」は、個人の運勢はもちろん、時代の流れをリーディングすることができます。
そこから見えてきた「日本成立史」は、意外にも通説とは大きく異なるものでした。
先回、「その1:新生日本と天武天皇」でお届けしたポイントは、九州「倭国(わこく)」が国を譲るかたちで畿内「大和国」(畿内国:うちつくに)に統合させ、7世紀後半に日本が成立したことです。
少し補足しておきます。
その立役者は、九州「倭国」を出自とする大海人皇子(おおあまのおうじ)です。
ご存じのように、初めて「天皇」と改号した後の天武(てんむ)天皇です。
その天武の英断によって、ようやく即位できたのが天智(てんじ)天皇(当時は大王)で、『日本書紀』にいう中大兄(なかのおおえ)いわゆる俗称「中大兄皇子」です。
詳しくはいずれ書くことになりますが、中大兄は「皇子」というには、かなり出自があやしいのです。
こう書くと、「そんなバカな!」と驚かれる方が多いと思います。
いずれこの連載でご説明をいたします。
そういった出自ゆえ、正統な皇統を持つ大海人皇子こと天武天皇のバックアップがなければ、天皇に就くことができませんでした。
もし、天智が本当に皇子(天皇の子)だったのなら、今もナゾとされている、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、645年に蘇我入鹿(そがのいるか)を殺した乙巳の変以降、668年まで、23年もの長きにわたって即位できなかった理由が明確にならないのです。
実は、その160年ほど前にも類似の出来事がありました。
応神天皇の5代子孫、男大迹王(おおどのおう)こと継体天皇がそれです。
18歳で崩御した先の武列天皇には後継者がいませんでした。
そこで探し出されたのが男大迹王で、先々代の仁賢天皇の皇女を后とすることで即位します。
しかし、その後、都入りするまでに20年もかかっているのです。
これは「正統」な権威しか認めにくい「魚宮」の民族性を持つ日本人の特徴で、権威ある「お上(かみ)」には従順ですが、そうでないものに対しては、なかなか受け入れない性質を持ちます。
天智は「皇子」ではなかったために、即位までに23年もかかっています。
One-Point ◆ 天智天皇つまり中大兄皇子が「皇子」でなかったというのなら、父舒明、母皇極(斉明)は「天皇」でなかったことになります。当時の関係者は分かっていましたが、事情があって「天皇」に差し替えたものです。九州「倭国」の存在さえ消した『日本書紀』なので、重大な事情があれば「大義名分」のもと、それくらいはやってしまいます。
「万葉集」を読めば、額田王(ぬかたのおおきみ)は、天智に嫁いでいたことが分かります。
しかし、これも『日本書紀』から消されています。
額田王のことを書くと、天武の本当の出自が分かってしまうからです。
多分、額田王は天武の「妹」です。
ふつう「王」と書いて、「おおきみ」とは読みません。
本当は「皇女」だったゆえに、「おおきみ」と読んだのではないでしょうか。
そこまで書くと、天武の本当の父親や皇統が解明されてしまいます。
ちなみに、天皇の皇女を迎えて即位できた継体天皇と、額田王を迎えて即位した天智も類似しています。
当時の日本は、「白村江の戦い」の大敗北に伴い、緊急に国防体制を整備することが必要でした。
このようなときは、洋の東西を問わず、挙国一致するのが常識です。
詳細は省きますが、一段落したあと、結局、正統である大海人皇子を次の天皇にする約束のもと、豪族たちの了承を取り付けるかたちで、天智はようやく天皇に就きます。
このとき、額田王(ぬかたのおおきみ)が天智に嫁ぎ、天智の娘たちが大海人皇子に嫁ぎます。
その一人が天武が崩御したのち、即位した后で「持統天皇」です。
「持統」という諡号(しごう)には、深い意味が込められているのです。
誰もが首をかしげているのは、天智は「兄」で天皇でありながら、なぜ4人もの娘を「弟」の大海人皇子に嫁がせたのかということです。
いったい、どちらが権威があるのか分かりません。
理由は、建国記念の日特別編「日本の成立と「和」の象徴」に書いたとおりです。
大海人皇子と姻戚関係を結び、正統のバックアップを得なければ皇位に就けなかったことはもちろん、九州「倭国」と畿内「大和」の「和」と「融合」を図り、「絆」を深めることにあったからです。
もちろん、『日本書紀』には、そんな事実は記せません。
天武が歴史編纂を命じた意図は、「和」の象徴である天皇の正統性による独立国家、統一日本を国内外に知らしめることにあったからです。
ただし、天武崩御後、畿内「大和」を基盤とする天智系天皇と新たに台頭した藤原不比等(ふじわらのふひと)の思惑が加わり、天武の意図を「大義名分」に利用して、九州「倭国」の存在はもちろん、そこにつながる「皇統」や史実は、見事に書き換えられてしまいました。
天武の正統性も、天智の出自も隠し、結局「兄弟」にしてしまったのです。
One-Point ◆ 一つ弁護すれば、九州「倭国」と畿内「大和国」の統合にあたって、大海人皇子は額田王(ぬかたのおおきみ)を天智に嫁がせ、天智は4人もの娘を大海人皇子に嫁がせて、契りを結んでいますので、「義兄弟」であることは間違いありません。天智を占星学によってプロファイリングすると、史実からも「権勢欲」の強い人物で、有馬皇子をはじめ、古人大兄皇子などライバルを次々と殺しています。もし、大海人皇子が本当に天智の兄弟なら、真っ先に殺されていてもおかしくありません。多分、異父兄の漢皇子も殺した可能性があります。
661年〜663年の白村江の戦いは、多くの兵が動員されています。
その敗戦によって、対馬、壱岐などの島々や、九州北岸には、防人(さきもり)が置かれます。
また、九州「倭国」の中心地だった福岡県太宰府には、とてつもない防塁「水城」が築造されます。
一方、畿内「大和」への道筋にあたる瀬戸内海には、朝鮮式山城などが築かれます。
これだけのものを急遽、築くには、多くの兵士や庶民の動員が必要です。
その責任は無謀な戦争を起こして敗北した中大兄皇子(天智)と中臣鎌足(藤原氏)にあるのは、明らかです。
にもかかわらず、ややして天智が即位できたのは、大海人皇子あってこそです。
さて、ここで海外に目を向けてみましょう。
先回もお伝えした、中国の正史の一つ『隋書』「倭国」伝です。
九州「倭国」が、畿内「大和国」に国譲りをしたことは、意外にも中国の正史から読み解くことができます。
6世紀最後の年、600年、倭王「アメ(アマ)のタリシヒコ大王」が隋王「高祖文帝」に次のように上奏したことが記されています。
『随書』
●「倭国」伝から抜粋(一)
「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。
天いまだ明けざるとき、出でて政(まつりごと)を聴き、跏趺(かふ)して坐す。
日出ずればすなわち理務をとめ、わが弟に委ねんという」
高祖(文帝)いわく、
「これ、はなはだ義理なし」と。
ここにおいて訓してこれを改めしむ。
中国の歴史書ですから、おかしなところもあって、一見、意味分かんないでしょ。
学者さんは、前段の倭王の言葉は文字どおり読みます。
「日が昇る前に政治を行って、日が昇ったら政治を止めて、あとは弟に任せる…」
ところが、後段の高祖の言葉は、勝手に読みかえるのです。
「それは、まったく“道理”にかなってないと諭した」と。
それゆえ日本は、政治の在り方が国際的に通用しないことを知って、以降、聖徳太子らが律令制度を整えはじめたと、当然のように解説しています。
逆ですね。
いくら昔の人でも、国のトップはそこまでバカではありませんし、そんな政治の仕方もしません。
高祖の言葉こそ、そのまま「はなはだ義理なし」でいいのです。
何に「義理がない」のか。
前段の倭王の言葉で、倭王が「中国の冊封体制から離れて“弟”に国を譲る」と言ったからです。
これまで九州北部の王は、歴史的に何度も中国に朝貢し、1世紀には「漢委奴国王」、3世紀には「親魏倭王」、5世紀には「安東大将軍倭王」に封じてもらってきました。
競って中国から「倭王」に封じてもらい、その後ろ盾を権威としてきたのが、それまで九州の歴代「倭国」です。
それを倭王が、もう「や〜めた、“弟”に国を譲るよ」というのですから、「なにをいまさら、それは義理がないだろ」と言っているのです。
One-Point ◆ ここで「弟」というのは、かつて「応神」が倭国から東征して、大国主神(おおくにぬしのみこと)から「国譲り」を受けた畿内「大和」のことです。「えっ、応神? 神武じゃないの? 大国主神?」ということについては、この連載の中でいずれご説明いたします。倭王が言った「日が昇ると」というのは、統一国家「日本」が成立するとという意味で、中国にとってこのように歴史的に不名誉なことを正史に正しく記すはずもなく、東夷の倭王が「訳の分からないことを言った」ことにして、比喩させたものです。
※占星学からの補足
このとき、600年夏。
上述を示す「星のディレクション」がみられます。
牡羊宮0度の冥王星と、牡牛宮26度付近の天王星を底辺として、天秤宮27度付近の土星を頂点とするYOD(ヨッド=60・150・150)が形成されていました。
これは、とくに日本にとっては、強力な「変革」と「新たなスタート」が「現実化」していくことを象わすディレクションで、それまでとはまったく違った政治体制へと「組織変革」をもたらすことを象わします。
また、このとき、牡牛宮をトランシット(運行)していた木星と、蟹宮の海王星は、「魚宮」の民族性を持つ日本人に、「自我の目覚め」のディレクションを投げかけていたことが分かります。
ちなみに、なぜ「夏」なのかというと、冬は玄界灘が荒れて渡れないため、大陸との往来は夏になるためです。
通称「魏志倭人伝」は、正確には『三国志』「魏書」「東夷伝」の中の「倭人」の条のことです。
そこで卑弥呼が都とした邪馬台国には、楼観や城柵があったことが記されています。
しかし、6世紀末から7世紀初めの『随書』の「倭国」伝には、「城郭なし」と記されています。
これは、当時の「倭国」は、どこからも攻められない、安定した政権になっていたことを意味します。
7世紀初頭に、すでに日本は、連合国家の礎を築いていたことになります。
『日本書紀』には、翌601年、「聖徳太子」なる人物が、大和の斑鳩(いかるが)に宮室を移し、605年には移り住んだことが書かれています。
どこから移り住んだのかというと、もちろん九州「倭国」からです。
「アメノタリシヒコ大王」は、移り住んだ翌々年の607年、隋王に書を送ります。
再び『隋書』の「倭国」伝からみてみましょう。
『随書』
●「倭国」伝から抜粋(二)
大業3年(607年)、その王タリシヒコ、使いを遣わして朝貢せしむ。
その国書にいわく、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
つつがなきや、云々」と。
帝(煬帝)、これを見てよろこばず。
倭の使者は、小野妹子(おののいもこ)だとされています。
倭王タリシヒコは、自らを「日出処の天子」と称し、隋王を「日没する処の天子」と呼んでいます。
同じ「天子」の立場です。
さらには、「つつがなきや(ごきげんいかが?)」と書いています。
これは中国とまったくの対等で、いわば「独立宣言書」なのです。
これを読んだ隋王は「蛮夷の書、無礼なり、二度と奏上させるな」と怒ります。
しかし、翌年には、わざわざ使者を倭国に遣わしています。
One-Point ◆ 『日本書紀』には、「聖徳太子」とされる人物が、603年に「冠位12階」を定め、翌604年には「17条憲法」を制定したと書かれています。しかし、最近の研究では、「聖徳太子」なる人物はいなかったというのが通説です。『随書』には、九州「倭国」のアメノタリシヒコ大王が定めたことが記されているため、『日本書紀』は、九州「倭国」の存在を隠すために「聖徳太子が定めた」と後日、作文したものです。
隋王が倭国に遣わした使者は、『随書』では「裴清」と記されていたりします。
『日本書紀』の記録は、裴世清です。
正解は「裴世清」でまちがいありません。
なぜ「世」を省いて「裴清」に写し変えたのかというと、唐の太宗が「李世民」だったためです。
恐れ多くも、太宗と同じ「世」の字は、名前に使えないという理由からです。
同『隋書』「倭国」伝の最後には、翌608年、隋王が裴世清を倭国に遣わしたことが書かれています。
『随書』
●「倭国」伝から抜粋(三)
はるか大海中にある対馬国を経る。
東して、また壱岐国に至り、また筑紫国に至り、東してまた秦王国に至る。
その人、華夏(中国、都)に同じ。
もって夷州(台湾?)となすも、疑いは明らかにすることあたわざるなり。
また十余国を経て、海岸に達す。
筑紫国から東は、みな倭国に属する。
倭王、小徳アホタイを遣わし、(中略)。
また大礼カタヒを遣わし、200余騎を従え出迎える。
その王與、裴清と相まみえ、多いによろこぶ。
実際に裴世清が訪れたときの記録なので、「魏志倭人伝」よりも正確です。
裴世清は、九州どまりです。
「海岸に達す」というのは、海に達することで、内海を渡って畿内の陸地にまでは至っていないのです。
では、どこで接見したのかというと、「秦王国」です。
秦王国なら、中国語で接待や饗応が可能です。
また、倭王がアホタイを遣わし、カタヒに出迎えさせたことが書かれていますが、実際に接見したのは、秦王国の王「與」の可能性があります。
中国側としては、まさか「倭王」に会えなかったとは書けません。
「その王」として倭王の含みを持たせ、倭王に接見したと読めるようにしたものです。
なぜなら、その後の裴世清の言動をみても、ありえます。
One-Point ◆ 「秦王国」の位置について書いておきます。筑紫より東、海岸(周防灘)までに十余国(中国特有の「白髪三千丈」の言い回しです)ということから、現在の福岡県飯塚市になります。宇美から峠を越えた入り口に、神宮皇后や応神天皇の伝説が残る「大分(だいぶ)八幡宮」があります。宇佐八幡宮の本宮です。大分八幡宮は、元寇に際して造られた博多湾岸の筥崎(はこざき)八幡宮の元宮ともなっています。全国に4万社あまりある八幡様の総本宮、宇佐神宮の原点が、ここ大分八幡宮で、「八幡」は「はちまん」と読みますが「やはた」とも読みます。秦(はた)王国と無関係ではなさそうです。
大分八幡宮は、伝説の「神宮皇后」が、三韓征伐から戻り、兵を解散した場所といわれています。
それゆえ「大分(だいぶ)」というそうです。
これが本当なら、兵を解散しても安全な場所でなければなりません。
つまり、領土内に入ってのちです。
位置的には、現在の筑紫平野から「ショウケ越え」という峠を経て、飯塚市に入ってすぐの場所です。
「ショウケ越え」というのは、生まれたばかりの応神天皇を、神宮皇后が「籠」に入れて越えたからだといわれます。
もう一説では、「ショウケ」は「宗家」のことだという説もあります。
ちなみに、『日本書紀』が完成して以降の伝説は、箔付けやなぞらえただけの可能性がありますので、頭から信じるには注意が必要です。
「無礼なり、二度と奏上させるな」とまで言った隋王が、なぜ裴世清を遣わしてきたのでしょうか。
「義理なし」がどうかはともかく、倭王はちゃんとスジを通しています。前もって挨拶をし、ちゃんと独立を伝えているからです。
次に、外交面からみると、当時、中国(隋)は、現在の北朝鮮周辺を勢力とする高句麗(こうくり)との争いを抱えていました。
一方、当時の倭国は、朝鮮半島南方の新羅(しらぎ)にまで勢力を伸ばし、新羅が戦わずして服するほどの国威(軍事力)を持っていた時代です。
隋王は、そんな倭国までも敵に回してしまうことは得策ではないと考え、高句麗をけん制し、日本の国情を探るためにも、裴世清を遣わして、倭国と手打ちを図ったものです。
倭王「日出処の天子」は、そういった国際情勢を見越して、中国からの独立を成し遂げた見事な外交戦略でした。
「その王」と接見した裴世清は、「もう用は済んだから帰らせてくれ」と願い、辞を得て早々に中国に引き返しています。
彼らにとっては屈辱的な歴史の一場面でしょう。
『隋書』
●「倭国」伝から抜粋(四)
その後、清(裴世清)、人を遣わして、その王に言いていわく、
「朝命、すでに達せり、請う、即ちに出発させよ」と。
宴を設け饗応し、清を還し、また使者をして貢ぎ物を行なった。
この後、ついに往来は絶ゆ。
『隋書』「倭国」伝の最後を締めくくる「ついに往来は絶ゆ」の原文は、「遂不克履行」。
「ついに再び行くことできず」です。
One-Point ◆ 隋は、直後に滅びます。次の唐の時代になると、冊封体制下の朝貢ではなく、対等な立場から遣唐使を派遣します。630年のことです。これは積極的に大陸の文物を取り入れつつ学び、国家の発展を図ったのです。
※次回は、『日本書紀』の秘密のカラクリを明かし、隠された史実に迫る予定です。
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