宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
その1:新生日本と天武天皇
−「天皇」のネーミングの秘密 −

日本国の成立には、多くのナゾがあります。
しかし『日本書紀』の背景を知れば、そこに隠された「真実」が読みとれます。
同時に「星のディレクション」から見えてくる秘密もあります。
それは、学校で習う歴史や通説とは大きく異なる史実です。

国家のグランドデザインを描いた「天皇」

●第1稿 : 2013年 3月 7日アップ




《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

日本の成立や、そこにいたる古代史がナゾとされる理由は、大きく2つあります。
1つは、『古事記』や『日本書紀』が史実を伝えていないことです。
もう1つは、古代天皇墓(古墳)の発掘調査が認められていないことです。
この連載では、宝瓶宮占星学による新しい視点、「星のディレクション」を交えつつ、目からウロコの「日本成立史」をお届けいたします。
ここに提示される「視座」を持てば、歴史を見る目が変わり、真の「日本」の姿が見えてくるでしょう。

《 歴史混乱の真犯人 》

「日本」は、卑弥呼や大王(おおきみ)から、「天皇」へと変わって成立しました。
その「日本成立」も、「天皇」への改号も、また『古事記』や『日本書紀』の編纂の詔(みことのり)も、7世紀後半、天武(てんむ)天皇によってなされました。
そのため、すべての日本史のナゾを解く「最初のカギ」は、この時代を正しく知ることにあります。
『日本書紀』が隠蔽した「天武天皇」の真実の姿が歴史の扉を開くカギなのです。
この時代、最大の事件は、通称「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と中臣鎌足(なかとみのかまたり)のコンビが進めた朝鮮半島での「白村江の戦い」と、その大敗北です。
中大兄皇子というのは、後の天智(てんじ)天皇で、戦争で負けたにもかかわらず直後に即位します。
また、少なからず敗戦責任があるはずの中臣鎌足は、「白村江の戦い」への関与が『日本書紀』から見事に消されています。
理由は、連載を読み進めるうちに明らかになるでしょう。
もう一つの事件は、天智天皇の実子、大友皇子(追諡:弘文天皇)と、『日本書紀』で天智の「弟」とされる大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)が闘った「壬申の乱」です。
両者の戦いは、臣下なら天皇すなわち大友皇子側に味方するのがふつうですが、実際は吉野に隠棲していた無勢な大海人皇子の側に多くの実力ある臣下がついています。
これも一般にはナゾとされていますが、理由は史実を知れば簡単で、大海人皇子が次に即位することは、天智が即位するときに既定路線として約束されていたものなので、大海人皇子の元臣下たちも即位を期待していました。
それを天智は、間際のドタンバで約束を反故にして、実子の大友皇子に継がせたものです。
『古事記』と『日本書紀』すなわち「記紀」は、天智と天武を「兄弟」として記しています。
ここに「記紀」編纂の意図と秘密があるのですが、当然、兄弟ではありません。
そこに第三の男、藤原鎌足(中臣鎌足)と藤原不比等(ふじわらのふひと)の親子の野望が絡んでくるので、よけいに複雑になり、「日本史」にウソにウソを重ねて見えにくくしてしまいました。
例えば、『日本書紀』の中には、神代紀の天の岩屋隠れのエピソードを皮切りに、「中臣連の遠い祖先の…」といった記述が何度か「唐突」に出てきます。
そのワザとらしさは、逆に中臣氏は歴史の浅い一族であって、古くから「万世一系」の天皇とともにあったことを虚飾せざるをえないほどの出自だということです。
「安曇連」の祀る神や「住吉大神」が『日本書紀』で天照大神より先に紹介されているのは、まだ納得できますが、その安曇族や住吉大神、また大連(おおむらじ)の大伴氏や物部氏、大臣(おおおみ)の蘇我氏など、重要な氏族の活躍があまり記されずに、必要以上に「中臣氏の祖先の…」ということが主張されているのは、哀れというか、こっけいですらあります。
端的にいえば、その記述なりは魚宮の「民族性」を持つ日本人らしくないのです。
皇統を重視している『日本書紀』で、もし、大臣や大連よりも、中臣氏のほうが本当に由緒があり、活躍した一族だというのなら、7世紀まで「中臣」に甘んじてきたことと矛盾します。
名探偵なら、きっとこう言うでしょう。
「ナゾは解けた。犯人はお前だ!」と。

One-Point ◆ 当時の政情を知る人々が、『日本書紀』の神代紀を読めば、まるで中臣氏(藤原氏)が「皇祖・高皇産霊尊(たかひむすひのみこと)」と暗喩された一文があることが分かります。本当にそうなら、天照大神が皇祖として祀られるはずがありません。ただ、知らない人を欺き、歴史の真実を見えにくくさせる効果はありました。しかし、真実が明らかになる宝瓶宮時代においては、漸次、暴かれていきます。

《 20世紀、第三次の世界対立 》

宝瓶宮占星学-雑考編「日本は何座宮?」や、これまで3回アップしてきた建国記念の日特別編など(欄外ご参照)を掲載しているうちに、「日本成立史」のウラ事情が見えてきました。
「え? 占星学でそんなことが分かるの?」
そういう方がいらっしゃるかもしれません。
大衆化した「星占い」や昨今の「西洋占星術」はムリでも、宝瓶宮占星学には「数理法則」という基礎理論がありますので、「天運」や「時代の流れ」を読みとる「星のディレクション」によって比較的ながら可能です。
さらに宇宙的周期、約25,920年(計算値)の「プラトン年(グレート・イヤー)」に基づく約2,160年(プラトン月、グレート・マンス)ごとの「歴史パラダイム」の変遷から、人類歴史の目的や機軸をリーディングすることができます。
そこに、具体的な歴史が伴えば、見えなかった史実が見えてきます。
宝瓶宮占星学が「宝瓶宮時代のビッグバン」と名付けた1989年から、新たに約2,160年にわたる「宝瓶宮時代(ほうへいきゅう・じだい)」が正式に始まりました。
時を同じくして、同1989年1月7日、日本で「昭和天皇」が崩御されたのは、偶然ではありません。
結論のみを記せば、日本は世界史的な「使命」と「役割」を有しているために、その象徴である「天皇」は、歴史的な意味を持つ存在です。
占星学的にみると、昭和天皇崩御までの約2,160年間は「双魚宮時代(そうぎょきゅう・じだい)」でした。
「双魚宮」というのは、西洋占星術をご存じの方なら分かると思いますが、「魚宮」の古典的名称です。
ただし、一般の星占いや西洋占星術では、誤まって「魚座」と呼びます。
これまでの約2,160年間の双魚宮時代、人類歴史は「魚宮」のかつての共鳴星木星や、現在の共鳴星海王星の象意に基づいて、「思想」や「宗教」を機軸として発展してきました。
そこに伴う「善と悪」「神とサタン」「支配と被支配」といった「対立二元論」を「歴史のパラダイム」として営まれてきた時代です。
そのため、「双魚宮時代」を締めくくる最後の20世紀、総仕上げとして、全世界を舞台にした究極の「二元対立」が三度、繰り返されます。
第一次世界大戦と第二次世界大戦、その後の「東西冷戦」です。
東西冷戦は、「思想・宗教」の戦いで、実質の第三次世界大戦に当たります。
共産主義思想によるソ連を盟主とする東側陣営と、キリスト教プロテスタントに端を発した自由民主主義を掲げるアメリカを代表とする西側陣営が、人類の主導権をかけた熾烈な戦いを繰り広げました。

One-Point ◆ 天王星の象意に基づいて「個性」と「自由」が発揮される「宝瓶宮時代」に向かう歴史の中では、ありえないことですが、もしこのとき、東側共産主義陣営が勝っていたら、昨今の共産党一党独裁国家の現状をみればお分かりのように、人類はどうしようもなく悲惨な状況に陥っていました。しかし、これらの「二元対立」も双魚宮時代が終わった1989年と同時に、東西対立の象徴である「ベルリンの壁」が壊され、翌年にはソ連が共産党一党独裁を放棄し、その後、崩壊していきます。


●日本の「天運」の一例

1、
白村江の戦いで、中国(唐)と朝鮮(新羅)に敗れ、羅唐同盟軍から攻められる危機に陥ります。
しかし、唐と新羅は高句麗をめぐって対立します。
逆に、お互いに日本と誼を通じて、相手をけん制しようとしたようです。
2、
2度にわたる元の襲来は有名です。
もし、平和主義の天皇や平安期の公家政権のままであれば、強大な元国の前に、日本は征服されています。
しかし、武家政権の台頭で、武力化していたことが国防につながりました。
ラッキィーー!
3、
信長の時代、西洋列強による植民地時代も同様です。
脅かすために見せた火縄銃が、日本刀を作る技術によって、あっという間に国産化できました。
極東の島国にこんな技術や文化があったとは、西洋人もビックリです。
4、
幕末も同様です。
平和な江戸時代が300年近くも続いたことで、学問・文化が栄え、庶民の水準は当時の世界のトップレベルにありました。
これまた、西洋の進んだ文明を理解し、逸早く富国強兵へと進め、アジアで唯一、西洋列強と肩を並べた明治につながります。
5、
戦後の復興は、現在に通じます。
敗戦で疲弊した日本は、朝鮮動乱に続く、共産主義の猛威によって、早い独立が認められ、自由主義社会の防波堤の一員となることが求められ、今日に至ります。

《 日本の天運と「天皇」 》

一方、双魚宮時代の日本を通覧すると、不思議なことがあります。
悠久の世界史の中で、他民族、他国家、他宗教に征服され、滅びた文化は数多くあります。
極東の島国とはいえ、双魚宮時代の約2,160年間、一度も「侵略」されることなく、日本独自の精神文化が守られてきたのは、人類歴史の「奇跡」に他なりません。
かといって、まったくの平穏無事だったのではないのもご存じのとおりで、実は何度も危機に直面しています。
ただ、戦前の皇国史観ではありませんが、古い言葉でいえば「天佑(てんゆう)」すなわち天の働きがあったかのように、我知らずも含めて、ことごとく切り抜けているのです。
その一部を左欄に書いておきました。
なぜそういうことが起きたのかが重要です。
日本は何座宮?」にも書いたように、日本人の民族性は「魚宮」で、国体は「水瓶宮」だからです。
後述しますが、日本は双魚宮時代に歴史的な発展を遂げ、次の宝瓶宮時代を見据えて、歴史の流れとともにある「天運」を受けてきました。
ある人は、そこに万世一系の「天皇」の存在を認めるかもしれません。
「万世一系」の実際や、「民族主義」を排除して、純粋に宝瓶宮占星学の基礎理論からみても、「そのとおり」なのです。
なぜなら、民族性「魚宮」と国体「水瓶宮」は、「天皇」において象徴的に統合され、しかも天皇ご自身や国民がそれらを体現すれば、そこに「天運」が伴わざるをえない事実があるからです。
天皇といえば、「支配・被支配」の階級闘争史観(マルクス史観、共産主義史観)を持つ進歩的文化人(左翼系文化人)やマスコミらによって、何かと「権力者」や「支配者」といったイメージがつけられてきました。
彼らが反宗教的や反権力的であるのは、思想信条や言論の自由ですが、祭祀の心を持つ日本人の精神文化が分からないために、結果、歴史の事実が見抜けません。
少なくとも昨今の「天皇」は、「和」の象徴として日本の国体「水瓶宮」を象わすと同時に、民族性の「魚宮」が象わす「祭祀」すなわち大自然への感謝を日々、行なう存在です。
それゆえ、過去、約2,160年間の双魚宮時代はもちろん、宝瓶宮時代の「影響圏」に入った1630年(ほぼ江戸時代)以降も、「魚宮」と「水瓶宮」の象意を持つ日本は、時代の「天運」を受け続けて、滅びることなく発展してきたのです。

One-Point ◆ ちなみにアメリカは自国の「独立戦争」の真最中に天王星が発見されたこともあって、「水瓶宮」を国体に持ちます。民族性の「射手宮」と現体制の「蟹宮」とを併せて、アメリカは否応なく世界の「自由民主主義体制」を維持する「使命」と「役割」を持ちます。アメリカが「モンロー主義」に陥らないかぎり、また日本が精神文化的に「美しい国日本」であり続けるかぎり、両国は今後の宝瓶宮時代においても、ともに「天運」を受けていきます。
※注) ただし、昨今は天王星と冥王星が約5年間にわたって矩(90度)をとり続けているために、両国は、それにふさわしい本物かどうかを試される期間になっています。
※同じ「水瓶宮」の国体を持つ日本とアメリカが戦った先の太平洋戦争(第二次世界大戦)では、当然、世界の「自由民主主義体制」を維持すべき使命を持つアメリカが勝ちました。しかし、日本も「天皇制」の護持と、「精神文化」の維持を勝ちとっています。


●注1)

実際の統一日本は、天武が大海人皇子に就き、天智が天皇(大王)になった時期です。
しかし、天智に権勢欲はあっても、国家ビジョンはありませんでした。
蘇我入鹿をはじめ、ライバルの古人大兄皇子や有間皇子、蘇我倉山田麻呂らを次々と殺すわ。
唐や新羅と無謀な戦争をして負けるわ。
民衆を長いこと使役させて、不満を高めるわ。
挙句の果てには、王位を大海人皇子に譲る約束を反故にして、殺そうとするわ…。
それを目立たなくし、天武やその旧臣の功績を糊塗し、中臣氏(藤原氏)にあたかも功績があるかのように記したのが、後の『日本書紀』です。
「天智」という諡号(しごう)は、中国の暴君紂王の「天智玉」から採り、紂王を討った武王から天武の諡号を採用したことは間違いなさそうです。

《 天武天皇と日本成立 》

以上をふまえて、古代日本の成立史に目を向けてみましょう。
正式に「日本」が成立したのは7世紀後半です。
「えっ! もっと古いんじゃないの?」
確かに1世紀には北部九州に「奴国(なこく、ぬこく)」があり、3世紀には卑弥呼や邪馬台国で知られる「倭国(わこく)」がありました。
また、『日本書紀』は抹殺しましたが、出雲を中心に、北陸や大和や関東などに勢力を伸ばした大国主命の「本州国」があったことが分かります。
詳細は後述しますが、これらが順次、統合されて、統一国家「日本」が7世紀後半に成立しています。
それが、天武天皇の時代です。(注1)
天武は、統一日本に際して、それまでの「大王(おおきみ)」を「天皇」に改号し、日本統合の象徴とします。
では、なぜ「天皇」とネーミングしたのでしょうか?
その理由が分かれば、史実が見えてきます。
中国の戦国時代を制覇し、初めて中国を統一したのは、秦王で、紀元前221年のことです。
秦王は、中国統一後、諸国もまた自らも名乗っていた一般的な「王」という称号を改めて、初めて「皇帝」と号します。
それゆえ、ご存じのとおり有名な始まりの皇帝、「秦の始皇帝」と呼ばれます。
一方、統一国家「日本」に際して、天武大王は「天皇」と改号します。
「やはり王や大王から天皇に変えただけじゃん…」
それが従来の説です。
結果的にはその一面が含まれるとしても、天武には大きな狙いがありました。
中国と対等、またそれ以上の関係です。
皆様は「天皇」と「皇帝」とでは、字義的にどちらが「高位」だと思われますか?
「皇」は神をさす呼称で、両方についています。
しかし、「皇帝」はアタマについていて、「天皇」は下についているのです。
すなわち、「天」→「皇」→「帝」という序列があります。
皇帝の「帝」というのは、かつては神を意味していましたが、地上の「君主」、すなわち支配者たる人間を意味する言葉です。
ところが「天皇」には、地上の支配者や人間という意味がありません。
つまり、「皇帝」を凌駕するネーミングが「天皇」なのです。
これは偶然ではありません。
なぜなら天武は、中国を超える新生国家「日本」をグランドデザインに描き、「組織運営の変革」すなわち冠位制度や律令制度を推進していったのです。
かつての「奴国」や「倭国」のように、中国の冊封体制に組み込まれない独立「日本」の建国が天武のビジョンです。
それゆえ、詳しくは後述しますが、九州「倭国」を畿内の小国「大和」に譲るかたちで統合させて「日本」とし、その統合の象徴を「天皇」と号したのです。
具体的には、時期天皇(天武以前の称号は大王:おおきみ)に就く約束のもと、天武は東宮(皇太子=王太子)大海人皇子(大海人王子)として、後の天智(てんじ)こと中大兄をバックアップして、天智はようやく天皇(大王)に就いています。
ちなみに、占星学から補足しておきますと、日本の国体は「天皇制」によって象徴され、「水瓶宮」です。
一方、中国の国体は、「中華思想」で象徴され、「獅子宮」です。
日本は何座宮?」に書いたとおり、「獅子宮」が象わす「王権」に対して、その正反対の位置にある「水瓶宮」は、「個性」や「独立」、「自由」や「和(友愛)」によって象わされ、それが日本の国体、すなわち「天皇制」となったものです。
日本の国体「水瓶宮」は、実質的には天武によって始まっています。
このことは、天武が編纂を命じた『古事記』や『日本書紀』において、奇しくも、架空の初代「神武天皇」が即位した旧暦1月1日、すなわち太陽暦で2月11日(建国記念の日)が水瓶宮であることにも投影されています。
さらに、天武天皇のエピソードは、実在の応神天皇とともに、神武天皇の東征神話に反映されています。

One-Point ◆ 「天皇」という称号には、天武の気概と意気込みが込められています。これは自らを「日出処の天子」と称して書を隋王に送った「アメ(アマ)のタリシヒコ大王」と同じ精神です。天武も大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれ、同じ「アメ(アマ)」で、いずれも九州「倭国」の出自です。ちなみに、『日本書紀』ではアメノタリシヒコの業績は、架空の「聖徳太子」の業績とされ、本来の「アメノタリシヒコ大王」なる人物の存在は隠されています。
天武が『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた意図は、国の成り立ちを示すことで国内の「和」を図り、「和」の象徴「天皇」の正当性とともに、独立国「日本」を中国(唐)や朝鮮(新羅)など海外に知らしめ、「主権国家」を示すことにありました。


《 「倭国」と「日本」の発展 》

上記の史実は、通説とは異なりすぎて、「まさか!」と思われたでしょうか?
それとも、「ナットク!」でしょうか?
ここでは、第三者の文献から、上記の史実を証明します。
中国の歴史を記録した正史には、「日本」に関する「伝」が残されています。
まず、その伝名のみを見てみましょう。
最初は『後漢書』で、日本については、単に「倭」と記されるのみです。
この『後漢書』は、実際には『三国志』の後に書かれました。
次の『三国志』になると、「倭人」の条です。
ようやく「人」として認めてもらえたようです。(笑)
俗にいう「魏志倭人伝」がこれで、卑弥呼の時代にあたり、3世紀頃の記録です。
次の『宋書』になると、「倭国」伝になります。
次の『隋書』も同様に「倭国」です。
その次が問題なのですが、『旧唐書』では、「倭国」伝と同時に、なんと「日本」伝が併記されています。
その内容は後述しますが、『旧唐書』というのは、最初に唐ができたときの歴史で、618年〜690年、つまり7世紀、天武天皇に至る時代の記録です。
次の『新唐書』になると、「日本」のみになります。
『新唐書』というのは、2回めの唐の時代の記録で、705年〜907年の歴史書です。
11世紀の撰なので、すでに『日本書紀』の影響が見られます。
次の『宋史』は「日本国」伝です。
つまり、中国の歴史書における日本の扱いは、「倭」→「倭人」→「倭国」→「倭国+日本」→「日本」→「日本国」と、中国も認めざるをえないほど、双魚宮時代の前半期において、中国と比肩する国家に発展していったことが分かります。
これが、民族性「魚宮」を持つ日本が、双魚宮時代の流れと共鳴して、「天運」を受け、発展してきた姿なのです。

One-Point ◆ 近世においては、1776年の建国から200年足らずで世界一の国に発展したアメリカがあります。これは、1630年から宝瓶宮時代の影響圏に入ったことと、1781年に天王星の発見によって国体「水瓶宮」のアメリカが、時代の「天運」を受けてきたためです。一方、同じく国体「水瓶宮」を持つ日本は、1630年以降の江戸時代に日本独自の「精神文化」が花開いていきます。


●注2)

『隋書』では、「倭王の姓は阿毎」(あめ、あま)と書かれています。
『旧唐書』の「倭国」伝も、「その王の姓は阿毎」です。
同「日本」伝には、王の姓に関する記述はありません。
『新唐書』の「日本」伝には、「その王の姓は阿毎氏、筑紫城に居す。神武立ち、治を大和州に移す」とあります。
「神武立ち」というのは、『日本書紀』の影響です。
時は過ぎて、14世紀の『明史』の「日本」伝になると、「国主は世々王をもって姓となし」と変わってきます。
これは武家政権をさし、足利氏が自らを「国主」と中国に伝えたようです。
それよりも『明史』の冒頭には、「唐の咸亨(670〜674年)の初め、日本に改む」とあることのほうが、興味を引きます。

《 新生統一国家「日本」 》

上でご紹介した『隋書』の「倭国」伝には、重要なヒントが書かれていますが、それは次回ご紹介するとして、まずは分かりやすい『旧唐書』から、ポイントのみを抜粋してご紹介いたします。
「倭国」伝と「日本」伝の両方が併載されている問題の書で、天武天皇が登場する7世紀の記録です。

『旧唐書』
●「倭国」伝
1、倭国は、いにしえの奴国なり。
2、世々中国と通ず。
3、その王の姓は、阿毎(あめ、あま)氏、筑紫城に居す。(注2)
4、貞観22年(648年)、新羅に上表文をことづける。

●「日本」伝
1、日本国は、倭国の別種なり。
2、あるいはいう、「倭国自らその名を改めて日本となす」。
3、あるいはいう、「日本、古くは小国なれども、倭国の地を併せたり」。

なぜ、『旧唐書』に「倭国」と「日本」が併載されているのか、ナゾとされています。
それこそが、九州「倭国」の存在を隠した『日本書紀』の意図に乗せられた証しで、古代の史実が見えにくくなっていることの現われです。
日本は最初から一つの国だったと、学者や作家や歴史マニアはもちろん、マスコミや文化人の多くが「記紀」の記述を頭から信じ込んで、枝葉末節のみを取り沙汰しているのです。
天武が発案し、天智系天皇と藤原氏が横取りして「自史」とした意図は、見事に現代にまで影響をおよぼしていることになります。
素直に7世紀前半、少なくとも「倭国」が新羅に上表文をことづけたと記される648年の前後まで、日本に九州「倭国」と畿内「大和」(日本)があったと読めばいいし、それが7世紀後半に統合されて、新生「日本」が成立したというのが史実です。
ちなみに、左上の注1)に書いたように、日本が統合されたのは、カタチの上では天智大王の時代です。
それゆえ天智の和風諡号は、「天命開別尊」と、単純に「国が開けた」という意味が当てられています。

One-Point ◆ 中国の冊封体制に組み込まれてきた九州「倭国」は、5世紀の「倭の五王」とは異なる新しい「アメ王」のもと、冊封を「否」とし、畿内「大和」に国を譲るカタチで、新生統一国家、独立「日本」を誕生させてきたものです。アメ王の「倭国」は、すでに7世紀初頭からそのことを隋王に伝え、着々と準備し、7世紀後半に実現したのです。このことは、『隋書』にもヒントが書かれていますが、それは次回ご紹介いたします。



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