宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
↑ 卑弥呼の墓を確認に、宇佐神宮に出かけようと玄関を開けた瞬間の太陽。
この後、数分程度で雲に隠れて見えなくなりました。
●第1稿 : 2014年 3月26日アップ
亀のカタチをした石の上に建っています。もしかしたら亀卜(きぼく)や亀甲占いと関係があるのかもしれませんが、分かりません。
画像では判断できませんが、清らかな女性的な気が流れています。
祭神は、山の神「大山積神(おおやまづみのかみ)」とされています。
確かめたいことがあって、先日、宇佐に行ってきました。
歴史上いろいろと重要なエピソードが宇佐近辺に残されているのですが、「物証」に乏しいこともあって、今一つ推測の域を出ないゆえに、本当はどうなのか、この目と心で確かめてみたかったからです。
今年1月、大阪で行なわれた「第1回新春宇宙会議」のついでに、伊勢神宮こと「神宮」に足を伸ばしてきました。
その結果、やはり地元の「宇佐神宮」を確認する必要を感じたのです。
なぜなら、天武天皇の5代皇孫、称徳天皇の御世、769年に有名な「宇佐八幡宮神託事件」が起きています。
なぜ、伊勢神宮ではなく、宇佐神宮にお伺いを立てたのか。
そこには、明確な理由があるからです。
第2点は、卑弥呼の「墓」の上に、現在の宇佐神宮が建つとされるからです。
それが本当かどうか、確かめてみることです。
最後の理由は、宇佐に隣接する国東(くにさき)半島で、紀元前7世紀に盛大に製鉄が行なわれています。
当然、宇佐嶋に降臨した三女神や、三女神を祀るとされる宇佐神宮ともかかわりがあるはずです。
先に、結論を書いておきます。
まず、「宇佐八幡宮神託事件」で、和気清麻呂が託宣を賜ったのは、現在の亀山(小椋山)に建つ宇佐神宮ではなく、今は大尾神社(おおじんじゃ)となっている大尾山にあった元の「宇佐八幡宮」です。
事件後、亀山に遷宮しますが、八幡大神(765年〜)が鎮座する以前から、大元山(大元神社)の「三女神」を祀っていたのです。
それが、遷宮によって、亀山に眠る「卑弥呼」も密かに祀ることになり、「比売大神」と称するようになったといえます。
結局、一連の流れからいえるのは、宇佐神宮は、天武天皇にかかわる祖神が祀られていることです。
それゆえ、称徳天皇崩御(770年)に続く、亀山遷宮後は、天智系と藤原氏によって「二拝四拍手」で封じ込められることになりました。
卑弥呼と宇佐神宮が直接、関係があると断定はできませんが、知ってか知らずか亀山山頂にあった卑弥呼の墓の上に宇佐神宮が建てられたゆえに、やはり無関係とはいえなくなったわけです。
実際に行ってみて、周囲を確かめてみて、亀山の中腹にある大山積神(おおやまづみのかみ)を祀る「亀山神社」が、拝殿の名残りになります。
One-Point ◆ 多くの人が間違えているのは、初代女王「卑弥呼」と、第2代女王「台与」の立場です。卑弥呼は、初代ですが、北部九州連合国家の女王に過ぎません。しかし、台与(『日本書紀』では架空の「神功皇后」に一部比定)は、東征後、第二次大和連合国家の祭祀女王となり、そこには出雲も含まれますので、かかわった範囲は台与のほうが大きいのです。それゆえ「卑弥呼」の幻影を台与に重ね、台与を卑弥呼かのように勘違いしてしまう部分があります。
古代は、朝6時頃から夕方6時頃の日中しか移動できません。
また、宿泊施設や食堂もありませんので、朝夕の宿泊の準備や片づけ、食事の準備などを考えると、実質は9時から3時まで、6時間ほどが移動可能な時間帯です。
さらには、長旅なので、翌日や明後日に移動する体力を残しておく必要があります。
他にも、イノシシやクマなど獣への警戒や、毎年、生い茂る草木を払ったりして進む必要も生じます。
そういったことを考えると、実質4時間程度の移動距離になります。
また、天候の変化がありますので、「水行10日」は、実際には7〜8日程度の距離かもしれません。
案外と近場に「邪馬台国」はあったことになります。
亀山山頂の「上宮」に続く長い階段。
階段わきの傾斜で山であることを確認。
俗称「魏志倭人伝」に描かれた、「女王の都する所、邪馬台国」について記します。
漢字で「邪馬台国」という国はありません。
日本人が「やまたい」あるいは「やまだい」また「やまと」と呼んでいた「地域」を、中国人がかってに、「邪馬台国」と蔑記したからです。
そのため、あえて日本語で書けば「山大国」、つまりは「古来からの山の国」という意味を持ちます。
いわゆる内陸部にあった山族の国で、卑弥呼の使いとして中国に渡る海人族たちからみれば、山の権威ある国なので「山大国」になります。
当時、卑弥呼のようなシャーマンは、山で祭祀を行ない生活していたのです。
さて、「魏志倭人伝」によれば、女王国北部の今の福岡県北西部にあった「伊都国」には、「一大率(統治府)」が置かれ、諸国を検察する「権力」を持っていたことが記されています。
その伊都国から、女王が都する「邪馬台国」までは、「南に水行10日、陸行1月」と記されています。
不思議に思えるのは、「水行」と記されているのに、多くの方が沿岸部を「海行」した場所を比定していることと、現在の何もかもが便利な移動スピードから考えて距離を測定していることです。
残念ながら、「水行」は水行です。
九州の伊都国から、沿岸部を進む場合、ましてや本州、四国に行く場合は、「海行」もしくは、やはり「渡一海(海を渡る)」です。
なので、水行は、海ではなく、河川を進んだ場所でなければなりません。
「なに? 伊都国から南に10日間も行ける河川はないぞ!」と言われそうです。
残念ながら、古代はあったのです。
鉄道や自動車が移動の主流となって、まだ100年も経っていません。
それまでは、古来から水運や海運が重要な移動運搬の手段でした。
当然、河川は主要通路として、スムーズな水行ができるように、今よりもはるかに保全されていたことになります。
しかし、鉄道や自動車が発展した現在では、川は「水路」としてのインフラ整備が行なわれなくなり、都会では「春の小川(渋谷川)」のように「暗渠(あんきょ)」とされ、上に道路ができて、川があったことさえ分からなくなりました。
なので、今でこそ博多湾から有明海(湾)に抜ける水路はありません。
ですが、ポイントは、多少のタイムラグはありますが古代、九州を管轄していた「大宰府政庁」の位置です。
なぜ、内陸部のあの位置に建っていたのか、やはり理由があるのです。
博多湾に流れ込む「御笠川」と、もう一つ、有明海(湾)に流れ込む筑後川に合流する宝満川の支流「山口川」は、大宰府の少し南、天拝山駅(鹿児島本線)や朝倉街道駅(西鉄天神大牟田線)付近で大近接します。
ここは古代、水路で通じていて、相互に乗り入れや乗り換えが可能でした。
それゆえ、「大宰府政庁」が造られた位置というのは、北に御笠川を下れば、オモテ玄関の「博多湾」に行けますし、南に宝満川を下り、合流してのちは筑後川を下れば、吉野ヶ里付近を経由して、ウラ玄関の「有明海(湾)」に行ける交通の要衝にあるのです。
次に、古代は1日にどれくらい川を遡上できるか。
結論は、1日4時間、川を遡上する場合は、距離にして10キロメートル前後しか進めません。もちろん、下りに変わると川の流れ次第ですが、倍ぐらいは進めます。
理由は、左上の欄外記事をご参照ください。
なので、伊都国から直線距離にして、博多湾経由でも50〜80キロメートルの地域が、最盛期の「邪馬台国」です。
そのように内陸部の川辺にあった「山大国」なので、「水行10日」で行けますし、また「陸行」でも1か月で行けると併記されています。
One-Point ◆ あくまでも最盛期の「邪馬台国」の位置です。一時は、大分県や福岡県から長崎県(島原あたり)まで女王国は版図を広げますが、次第に東に追い詰められ、最後は現在でいう福岡県東部と大分県北部周辺、つまりは後年、豊(台与)の国といわれたあたりで終焉を迎えることになります。
日本のテレビにもたびたび登場するアメリカの霊視能力者マクモニーグルが、「卑弥呼」と「邪馬台国」を透視したことがあります。
結論をいえば、彼が透視したのは、「卑弥呼」ではなく「台与」のほうだとすぐに分かりました。
マクモニーグルは、「誰」を透視するのか知らされないまま、透視を行ないます。
先入観が入るを防ぐためです。
それを日本人スタッフが、かってに「卑弥呼」だと勘違いしているのです。
同様のことは、「金印」の透視でも起きています。
卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印の場所を、マクモニーグルに透視してもらったとき、彼は、福岡市美術館を示し「漢委奴国王」の金印の場所を言い当ててしまいます。
こういった似た波動の物質や人物を、勘違いして透視してしまうことは、よく起こります。
「波動エネルギー」の特性から、上下左右が反対に見えたり、仔細な共鳴判断ができずにそうなります。
個人差が大きなスピリチュル(心霊)には、避けられないことです。
「嶋」の意味を辞書で引くと、多くの場合「島」と同じと書かれています。
では、三女神が降り立った「宇佐嶋」は、海や川または湖に浮かぶ「島」なのでしょうか?
もちろん山なので違います。
語学的に、漢字で表記した場合の「嶋」が、「島」と同義であっても、それに反論はしません。
しかし、古代は漢字がありませんので、日本語で「うさしま」といった場合の「シマ」は、今でいう「嶋」と同じではなく、実は、俗にいう「縄張り」、つまり勢力圏のことで、かつての「国」のことを意味します。
むかしの任侠映画でいう「シマ(縄張り)」のことで、「縄張り」とは、神社の境内を示す「しめ縄」のことです。
つまり、「宇佐嶋」というのは、「宇佐」という国の縄張り=勢力圏、つまりは「宇佐国」を意味します。
つまり三女神は、宇佐の縄張り(境内=国)に降り立ったということです。
ほかにも、「アメ(マ)ノタリシヒコ」こと蘇我馬子は、かつて「嶋大臣」と呼ばれています。
これも学者先生がおっしゃられる通説のように、馬子の自邸の庭の池に「島」があったからなどではなく、「縄張り」つまりは、勢力圏を誇っていたために「シマ大臣」なのです。
鉄は、中国や半島経由で、日本に来たと信じている方がいらっしゃるかもしれません。
それは、自虐史観による間違いです。
歴史が引っくり返るほど影響力が大きいことから、学界には正式に発表されていないようですが、出土した鉄の放射性炭素年代測定から、紀元前7世紀には、すでに日本に盛大な製鉄技術があったことが確認されています。
それは、中国や朝鮮半島にはみられない製鉄技術の跡で、かつての豊の国、今の大分県に位置する国東(くにさき)半島が、その場所です。
宇佐神宮は、その西の根元にあります。
古代は、鉄器や鉄製武器を持った国が栄えるのは、当然です。
なので、宇佐嶋に三女神が降りたという『日本書紀』神代紀の記述は、あながち間違いではなく、奈辺に古代国家が発展します。
つまり、「佐田京石」など、多くの巨石柱群の分布をみても分かるように、奈辺にかつて「国」が栄えていたのです。
「国東半島」という地名も同様です。
「国」の東(さき)に位置する半島なので、その西側には「国(首都)」があったことになります。
問題は、その範囲です。
日本三大修験山の一つ英彦山(ひこさん=かつては「日子山」)の北東部に「国見山」があります。
国見山というからには、そこから「国」が見えたということです。
そこから見渡せるのは、西側は山なので、(そこも含まれるかもしれませんが)東の谷あいに見える宇佐平野しかなく、その向こうには海沿いに国東半島が見えます。
つまり、山国川が流れ込む「宇佐平野」に、特別な「国」があったのです。
宇佐平野は、現在では、豊前市、中津市、宇佐市が含まれます。
ときが下った6世紀の記録では、宇佐神宮の社領は、宇佐にはじまり、大分県、筑後平野を含めた福岡県、さらには長崎県の島原まで、北部九州の大半におよんでいます。
かつて卑弥呼が女王国とした勢力範囲と、ほぼ重なる地域です。
織田信長の時代まで、神社仏閣などの宗教勢力は、一国に相当する勢力を持っていましたので、古代はなおさらです。
その女王国も、「男王(武内宿禰)」によって、次第に東に追い詰められていきます。
その結果が「魏志倭人伝」にいう「卑弥呼以死大作塚径百余歩」です。
「卑弥呼、以って死す」もしくは、「卑弥呼の死を以って直径百余歩の墓を造る」という意味です。
その墓は、平地ではなく、山に造られます。
貴人の場合、当時は自然の山(丘陵)を利用して墳墓とすることがあります。
山で祭祀を行ない生活していたシャーマンであり、かつ女王でもあった「卑弥呼」の場合は、なおさらそうです。
女王らしく、単独丘陵である亀山の山頂に、盛り土をして、大いに径70メートル(百余歩)前後の墓(塚)を作るというのは、うなづけるものです。
ちなみに、卑弥呼ののち「男王」が立つも収まらず、結局、卑弥呼の宗女(一族の娘)、台与を2代目女王に立てて収まります。
その実質的な権力は、13歳の台与ではなく、やはり「男王(武内宿禰)」にあり、のちに両者は、幼帝誉田別(ホムダワケ、応神天皇)を抱いて東征し、台与を祭祀とする第二次大和統一国家、つまり、大和の「邪馬台国」を築くことになります。
One-Point ◆ 当時の九州は円墳です。出雲の勢力範囲は方墳で、大和土着の勢力と混じって前方後円墳になり、応神(武内宿禰)後の第二次統一大和によって全国に広がります。第三次大和統一国家を築いた九州を出自とする天武天皇の墓は、円墳と方墳一致させた八角形になっています。このことから、九州「邪馬台国」の卑弥呼の墓は円墳でなければなりません。また、シャーマンらしく自然の山(丘陵)でなければならず、さらには女王らしく山頂に盛り土をして造り、手前には拝殿を建てることになります。その名残りが、亀山の中腹にある「亀山神社」です。
上宮中央の「比売大神」を祀る二之殿。
時代によって主権者が変わるのは常識です。
大和地方は、もともと少彦名命(すくなひこなのみこと)が土着の豪族です。
もっとも、『日本書紀』ではそれだとマズイので、どこからか来た神のように記されています。
そこに出雲の大已貴命らが入り、協力して国づくりを行ないます。
これが第一次大和連合国家です。
前方後円墳は、出雲の方墳と少彦名命の墳墓の造りが融合したものだと考えられます。
卑弥呼の墓ではないかと話題の「箸墓古墳」も、3世紀の造営であれば、彼ら一族の誰かの古墳です。
次に、架空の「神武天皇」つまり実質は武内宿禰(応神天皇、神功皇后)が大和に東征します。
これが第二次大和連合国家で、出雲大国主神(大物主神)の祭祀を引き継ぐことを条件に、国譲りが行なわれます。
かつて同じ一族から分かれた台与が、その役割を果たします。
最後の第三次大和連合国家は、天智天皇と天武天皇によって成立します。
しかし、その後は、藤原氏が天智系天皇を後ろから操り、実質権力を手に入れるカタチで、天皇そっちのけで、わが世の春を藤原一族のものとしていくことになりました。
では、新しく宇佐神宮を亀山の山頂に建てるとき、卑弥呼の墓だと分かっていたのでしょうか?
最初から分かっていれば、祟る可能性がありますので、建てたりはしません。
そうではなく、造営または改修の過程で何かおかしいことに気づき、調べた結果、後日、誰か貴人の墓のようだとなり、卑弥呼に比定されるようになったと考えるのがしぜんです。
「One-Point」で上述したように、亀山の中腹にある「亀山神社」が、卑弥呼の墓の拝殿です。
そこから上の山頂部が盛り土をした部分で、卑弥呼が眠るお墓になります。
亀山神社が、もし本当に亀山の「山の神」を祀る神社であれば、山頂に建っていなければなりません。
そうではなく、山頂は神聖な場所(墓)なので、盛り土をした手前でお参りするために、拝殿として建てられていたのが残され、今は山の神「大山積命」を祀る亀山神社とされているようです。
宇佐神宮と亀山神社は、明らかに「気」が異なります。
不思議なことに、亀山神社は亀のカタチに置かれた礎石の上に建っています。
行って、実際に見て、感じてみなければ分からないものですが、「亀山神社」は男の神ではなく、女性のようなやさしさがあります。
それはともかく、725年に亀山(小椋山)に社殿が建てられ、780年に隣の大尾山にあった「宇佐八幡宮」が遷宮して、亀山に造営されます。
その後、823年になって、神功皇后が祀られます。
「宇佐神宮御由緒」では、あくまでも725年の応神天皇の御鎮座にはじまり、731年に「比売大神」をお迎えしたとあります。
でも、遷宮後、なぜ主祭神の位置の中央(二之殿)に「比売大神」を祀ることになったのでしょうか。
これは、応神天皇御鎮座にさかのぼること154年前の571年に、応神天皇の御神霊が、三女神が降臨された大元山(宇佐嶋)に「八幡大神」として現われたからということに一応はなっています。
名目上は、「応神天皇(八幡大神)」を主祭神としますが、実際は、宇佐神宮発祥の聖地は、あくまでも宇佐神宮の奥宮の「大元神社」なので、「大元神社」が建つ大元山に降り立った三女神を最初から祀っていたはずなのです。
なのに、731年に「比売大神」をお迎えしたというのは、「卑弥呼」のお墓の上に建つことが分かり、三女神と併せて祀るようになったことを意味します。
結局、宇佐神宮は、本来は卑弥呼と直接の関係はありません。
しかし、知らずに卑弥呼の墓の上に建てたことが分かった以上、やはり何かの縁があるはずなので共に祀ることにして、「比売大神」としたものです。
明治以降も、宇佐神宮を改修したとき、山頂地下に石棺が一度ならず二度までも目撃されています。
また、山頂部は自然の地層ではなく、人工のものであることが、確認されています。
One-Point ◆ 宇佐神宮の中央の「比売大神」を祀る二之殿は、確かに権威ある女性の雰囲気を含んでいます。地下に眠る「卑弥呼」の影響かもしれませんが、知らずに卑弥呼の墓の上に宇佐神宮が建てられたのは「偶然」ではなく、やはり卑弥呼の「霊力」が宇佐神宮を通して、北部九州の争いを治め、「和」をもたらそうとしているようです。
宇佐神宮の大鳥居の参道から横にのびるさびれた旧参道があります。
そこは、宇佐神宮を抜け、大尾山にある摂社「大尾神社(おおじんじゃ)」に行く道です。
現在の宇佐神宮がある亀山は、独立した一つの丘陵ですが、大尾山は、宇佐神宮の奥宮「大元神社」がある大元山に連なる北峰の先端に位置します。
この大尾山に、もともとは宇佐神宮がありました。
いわば大元神社の拝殿なのです。
そのため「宇佐八幡宮神託事件」のとき、和気清麻呂は、亀山(小椋山)ではなく、大尾山の宇佐八幡宮にて託宣を受けています。
その直後に、現在の亀山に宇佐神宮は遷宮します。
大尾山にあった元の宇佐八幡宮の場所には、今は大尾神社が記念に建てられ、訪れる人もいない、さびれた姿を残しています。
では、なぜ称徳天皇は、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に託宣を伺ったのでしょうか。
称徳天皇というのは、天武天皇系統の最後、5代皇孫です。
その皇孫が、天武の皇統以外の人物に皇位をゆずろうとするとき、当然、先祖の神々にうかがいを立てます。
つまり、かつての宇佐八幡宮(大尾山)は、天武天皇(大海人皇子)の祖先に連なる神々を祀っていたのです。
もっと直接的にいえば、海人族の天武天皇は、大元神社に祀られる三女神(現在の宗像三女神)を一族の神々とします。
さらに具体的にいえば、大分の宇佐の地(またその近辺)が、天武天皇の一族(祖先)の出自とするところです。
それゆえ、天武天皇(大海人皇子)が、天智天皇の皇子(弘文天皇)と戦った壬申の乱のとき、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)は、瀬田橋の闘いにおいて、死を賭して果敢に戦い、天武天皇を勝利に導きます。
「大分君」というのは、「大分王」という意味で、宇佐や国東半島が位置する大分県界隈も当然、勢力圏に含みます。
彼が、天武天皇の「兵衛(ひょうえ)」すなわち最も信頼できる者が任命される「近衛隊長」を務めていたのも、いわば同族だったからです。
結局、天武天皇は、海人族が祀る「三女神」とともに、かつて山族の邪馬台国に連なる豊の国(大分、福岡)に基盤を持つ正統にほかなりません。
それゆえ天皇になったとき、二度と誤った皇位争いが起きないように、正統性を明らかにし、天皇を中心とした独立国として国内の「和」と日本の維持を図るために、『古事記』と『日本書紀』の歴史編纂を命じました。
歴史の皮肉は、天武天皇が崩御したのち、それを逆手にとって、後年、天智系天皇と藤原氏が、自らが正統かのように一部、「歴史」を偽装してしまったことです。
それが、今日に残る『日本書紀』です。
One-Point ◆ 称徳天皇が崩御したのち、皇位は藤原氏が傀儡とする天智系天皇の光仁天皇に移ります。もはや天武系天皇の神(始祖)を祀る宇佐八幡宮(大尾山)は「不要」です。直ちに現在の亀山に遷宮され、祟りが起こらないように、「二拝四拍手」で封じ込められることになります。それは、かつて国譲りを行なった(国を奪われた側の)大国主神(大物主神)を祀る出雲大社の参拝の仕方と同じです。しかし、日本人が賢いのは、その霊性によって、天智系天皇や藤原氏の神社ではなく、「伊勢神宮」や「宇佐神宮」また「出雲大社」が、日本の始祖であることを知っているかのように、お参りを続けていることです。
その12:天武天皇と「和」の精神 ← BACK
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