宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
HOME > 占星学から解く日本の原点 > その6:アジア最古の海人族
日本人が持つDNAは、アジア最古であることが判明しました。
このことは、日本人のルーツは、日本人であることの証明になります。
では、古代縄文人は、どのような人々だったのでしょうか。
↑ 縄文時代の遮光器土偶。
●第1稿 : 2015年04月11日アップ
《おことわり》
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。
縄文人は、当然ながら「ローテク」だったということを除けば、栽培や農耕はもちろん、海を渡り、漁を行ない、案外と最先端技術を持つ人々で、古来からの海人族(あまぞく)でもありました。
その最先端技術は、現代の日本人にも、D1b遺伝子として、連綿と受け継がれています。
また、四方を海に囲まれ、寒流と暖流がぶつかる日本近海は、多彩な魚介類が生息する世界有数の食料宝庫ゆえに、海人族でもあった縄文人がこれを放置するわけがないのです。
はじめにお断りしておきます。
DNA遺伝子研究は進んでいますが、まだ研究途上の部分がみられます。
たとえば、当初、古いほうからA→B→C…とアルファベット順にタイプが付けられてきましたが、現在では、CよりもDやEのほうが古く、A→B→D&E→C…となっています。
ほかにも日本人の遺伝子は、従来はD2とされ、Dタイプの2系統でしたが、昨年2014年に固有のD1bに改められました。
このことが、何を意味するのかが重要です。
ご興味のないかたにはたいくつかもしれませんが、少々お付き合いください。
男系のY染色体遺伝子は、約15万年〜10万年前(諸説あり)にアフリカに発生したAタイプにはじまります。
そこからアフリカに残っているBタイプが分かれ、Bタイプは、地中海と紅海を結ぶ現在のスエズ運河地域を通って約5万年ほど前にD&Eタイプとなり、アジアに進んだDタイプと、古代オリエントや南ヨーロッパなど、北アフリカ沿岸を含む地中海周辺に残るEタイプに分かれました。
つまり、AとBを持つアフリカ原住民族を除けば、世界で最も古い遺伝子がDとEなのです。
日本人は、このDタイプの中のD1bを約3万年ほど前から持ちます。
中国大陸や朝鮮半島には、Dタイプがほとんどみられません。
ということは、日本人は数万年前からD遺伝子を持つ原住民族であって、アジアで最も古い民族なのです。
もう一つ、日本人特有の遺伝子が、O2bです。
Oタイプは、アジア人の遺伝子で、その中でもO2aは、マレー、タイ、ベトナム、中国南部に多く、O2bは日本と朝鮮半島にみられます。
ちなみに、O3はフィリピンにもみられますが、おおかたは中国人の遺伝子ということがいえます。
朝鮮半島は、日本特有のO2bと中国のO3によって大半が構成されています。
つまり、D1bはないのです。
このことから、太古の日本列島には、D1bの原住民族がいて、そこに東南アジアからOタイプの民族が移住してきて、O2bとして、D1bの原住民族とともに、古代日本を形成したことがわかります。
現在の日本においても、このD1bとO2bとで、約75%〜80%を占めています。
残り約15%〜20%がO3タイプで、中国から来た可能性がないとはいえませんが、日本で独自に転化したことも考えられます。
結局、これまで権威主義の学界や反日的な偏向マスコミが主張してきた「日本人のルーツは中国や朝鮮半島」という「常識」がくつがえされました。
それゆえ彼らは大きく取り上げませんが、歴史的な大ウソを喧伝していたことが、世界的なDNA研究によって明らかになったのです。
One-Point ◆ 日本人固有のDタイプと、古代オリエントや地中海沿岸のEタイプは、兄弟遺伝子ということが分かっています。といっても、何万年も前のお話なので、「天皇シュメール起源説」や「日ユ同祖論」を証明するものではありません。ですが、縄文時代の後期、紀元前8〜7世紀頃に、古代オリエントの人々が日本を含め東アジアにきたことは事実で、太古の兄弟遺伝子どうし、日本原住の海人族とウマがあって、海人族を隆盛に導きました。その一部は、日本に移り住み、古神道「かんながら」を含めて、縄文文明の仕上げをサポートしつつ、ともに日本独自の文明を築いていったといえます。
先頃、朝日新聞の前社長が、「韓国は兄の国」という発言をしました。
所詮、社長といえども、そのレベルの認識です。
なので、いわゆる「従軍慰安婦」捏造報道も、起きるべくして意図的に行なったといえます。
ちなみに、稲作(水稲)も、中国と朝鮮半島と日本の稲のDNA比較によって、朝鮮半島から伝わったものではないことが明らかになっています。
そのことは、韓国の教科書には載っているそうですが…(ホント?)。
一方、陸稲のほうは、すでに縄文時代から日本にあったことが、土器に残る痕跡などから明らかにされています。
さて、縄文人というと、古くて恐縮ですが、「はじめ人間ギャートルズ」などの影響で、未開の原始人のようなイメージを持たれる方がいるかもしれません。
しかし、縄文人の遺跡から発見されたブリや真ダイなどの骨や、栗の植林やアワをはじめとした栽培や稲作(陸稲)、さらには縄文土器の中でも火焔土器などをみると、今から200年ほど前に普及した電気電信や現在のような科学技術がなかったというだけで、現代人よりもはるかに優れたサバイバル能力とローテクながらも、先端技術を身につけていたことがわかります。
大阪万博の「太陽の塔」で有名な「芸術はバクハツだ」と語った岡本太郎が啓発されたように、縄文時代の火焔土器の芸術性と製作技術は、現代の陶工でも不可能なほどのハイ・レベルです。
そういったD1bを持つ縄文人のDNAは、現在も世界的な最先端技術を開発し続ける現代日本人の中に残っています。
占星学に馴染みのない方にとっては、とっつきにくいかもしれませんが、縄文時代をプラトン年に基づく時代区分からご紹介いたします。
縄文時代は、歴史学的には、紀元前1万4,500年ほど前から前1,000年〜前300年ほどまで(諸説あり)とされています。
占星学からみると、紀元前約6,500年頃までの「巨蟹宮時代」以前をのぞけば、以降は、「双児宮時代」「金牛宮時代」「白羊宮時代」と、約2,160年(計算値)の単位で、前期、中期、後期に分けることができます。
前期、「双児宮時代」というのは、双子宮の象意に基づいて、縄文人が何にでも興味や関心を持ち、知識を蓄えていった時代です。
次の中期、「金牛宮時代」は、牡牛宮の象意に基づいて、生活の安定を図っていった時代で、より快適な生活環境を築いていった時代です。
その次の後期、「白羊宮時代」は、牡羊宮の象意に基づいて、縄文人らの中に次第にリーダーが生まれ、家族や一族的な集落から、いわゆる「国」を形成し、対立が生まれていった時代になります。
ちなみに、縄文時代の次の弥生時代は、「双魚宮時代」の初期にあたります。
双魚宮時代は、白羊宮時代が終わる約360年前(計算値)、つまり前6世紀頃から影響圏に入りました。
このあたりが、『古事記』や『日本書紀』に描かれた初代神武天皇とその直後の時代で、形而上的な魚宮の象意に基づいて、日本特有の古神道「かんながら」など、古代オリエントの祭祀の影響が日本に現われていった時期であることが、占星学からも読みとれます。
双魚宮時代は、正式にはBC171年(計算値)にはじまりました。
ちょうど稲作(水稲)が、日本全国に広がった弥生時代前期から中期がはじまったころになります。
One-Point ◆ こういったことから「日本は何座宮?」などに書いたように、日本人の民族性が「魚宮」であることが裏付けられます。その後、倭国大乱などを経て、女王卑弥呼の「北部九州連合(倭国)」が形成されるにあたり、「和の精神」による日本の国体「水瓶宮」が形成されていきました。このあたりの事情は、ご参考ながら、建国記念の日特別編1「女王卑弥呼と神武天皇の建国」をご高覧ください。
「漢委奴国王」は、日本では通常、「かんの わの なこくの おう」と読みます。
「委」という字は、当時の略字で、「倭」を略して簡易化したものだというわけです。
それは、そう詭弁させるための「仕掛け」ということに気づかなければなりません。
二者択一的にそれのみが正しいと考えると、まんまと漢(中国)のワナにはまります。
ここには、中国人お得意のダブル・ミーニングが込められています。
つまり、本来は、素直に「漢が委ねる奴国の王」(漢に委ねる奴国の王)といった意味でしかありません。
あくまでも自らが世界の真ん中だとする「漢」が中華で、華外の奴国を、属国に位置づけています。
もともとが、右の本文に書いたように奴国は、漢南部(呉あたり)からの亡命者なので、こういった二重の意味が適切なのです。
以上は、文字に残らない古代日本文明成立のアウトラインです。
文字による記録では、5世紀に書かれたAC25年〜220年の中国「後漢」の記録『後漢書』が、日本について書き残しています。
志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印に関するとされる、次の一文もそのひとつです。
●『後漢書』倭伝より抜粋
建武中元二年(AC57)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。
使人は自ら大夫(たいふ)と称す。
倭国の極南界なり。
光武(帝)、印綬を以て賜う。
実は『後漢書』よりも、その後の220年〜280年の三国時代を記した『三国志』のほうが古く、3世紀末に書かれました。
その中に卑弥呼について書かれた俗にいう「魏志倭人伝」があるわけです。
「魏志倭人伝」には、「そ(倭)の北岸、狗邪韓国に至る」と書かれています。
これは、上掲の奴国は「倭国の極南界なり」と同じ意味です。
先入観なしにお読みください。
3世紀当時、倭国は朝鮮半島南部の「狗邪韓国」を支配していたために、「(倭の)北岸、狗邪韓国に至る」と記されています。
なぜ、こういうことを記さざるをえないのかというと、戦争においては「国境」の位置が重要になるためです。
なので、ここにおいては、中国といえどもウソは記しません。
一方、5世紀に記された先の『後漢書』では、奴国を「倭国の極南界なり」と記しています。
奴国は倭国のいちばん南にあるという意味です。(注:2つの奴国を混同)
いずれにしてもこの2書は、玄界灘を隔てた朝鮮半島南部と九州北部に「倭国」がまたがっていたことを表わしています。
それが中国からみた当時の「倭国」の領土でした。
「魏志倭人伝」に戻りますが、結局、倭の女王卑弥呼が都とした「邪馬台国」は、倭国の中部に位置したことが記されていますので、当然、北部九州にあったことが分かります。
ですが、ここで重要なことを述べておきます。
古代中国の歴史書に記されているからといって、それがすべてではありません。
卑弥呼が都とした邪馬台国の「倭国」しか、当時の日本になかったわけではないということです。
日本各地に「倭国」に匹敵する国が、大なり小なりありました。
それぞれに王を抱く国です。
たとえば、「出雲国」しかり、「丹波(丹後)国」しかり、「吉備国」しかり、四国の「阿波国」しかり、「尾張国」しかりです。
当然、箸墓古墳で話題の「畿内国(大和国)」も、すでにあったのです。
他にも、関東や東北にも、それなりながら、いわゆる王の「国」があったことが遺跡や墳墓から確認できます。
文書は、事実を示す重要なファクト(要素)の一つですが、そこに記されたものしかなかったと考えるのは、事実誤認です。
とくに中国の記録には、注意が必要です。
ときの皇帝を正当化するために、都合のいいように前の国の記録や周辺国の記録を書き換えます。
なので、日本人の感覚で、中国の「正史」ゆえ100%正しいととらえると、史実が見えなくなります。
日本人のルーツが、中国や朝鮮半島かのように思い込んで、歴史を推測するのも同様で、歴史の迷宮に陥り、間違った解釈をしてしまいます。
彼らは、自らに朝献し、冊封体制下に入った国は、権威を示し、誇るために、当然、記録として残します。
ゆえに、「漢委奴国王」の奴国や、「親魏倭王」の邪馬台国に関する記録は、相応に残されています。
しかし、それは北部九州の一部にしかすぎません。
逆にいえば、それ以外の国が記録に残されていないということは、そのほかの、ほとんどの日本は、中国に従っていなかったということです。
素戔嗚尊の出雲国もそうですし、天照坐大御神(初代)の畿内国(大和国)もそうです。
上述の『後漢書』には、次のように記されています。
●『後漢書』倭伝より抜粋
女王国(倭国)より東のかた、海を渡ること千余里にして狗奴国にいたる。
皆、倭種(日本人)といえども、女王に属せず。
「女王に属せず」という意味は、ほかの日本人は、中国の冊封体制下に入っていなかったということです。
One-Point ◆ 「邪馬台国」畿内説の論者は、日本全体が古代中国に屈していたと考えているのでしょうか。そうではなく、当時の交通事情から「魏志倭人伝」を読めば、人力以外に動力がなく、インフラや宿泊施設や食糧事情も充分に整っていなかった当時、また波待ち汐待ち風待ちなど天候や自然の影響が大きい中で、水行10日では、さほど遠くに進めません。北部九州近辺にかぎられます。そういったことからも、当時の「倭国」自体が北部九州に限定される以上、邪馬台国の位置はあまりにも明白です。
「魏志倭人伝」には、2つの奴国が記されています。
中国の郡使がとどまる伊都国から、東南に百里の「奴国」が1つめです。
(女王国)「以北」は道里を略載できるとありますので、こちらが「邪馬台国」の北にあった博多湾岸の奴国です。
もう1つは、傍余の国、つまり「邪馬台国」の南にあった道里をつまびらかにできない21か国なかで、女王の境界の尽くる所と記された「奴国」です。
『後漢書』は、こちらを「倭国の極南界なり」と記したことになります。
結局、「魏志倭人伝」に奴国が2つ記載されていたことから、『後漢書』の著者は、「漢委奴国王」の金印が発見された北側の「奴国」と、南の境界の「奴国」を混同したことが分かります。
さて、1世紀に九州北岸の倭の奴国が、「漢委奴国王」の金印を後漢の始祖光武帝から下賜されたことは、記録と物証から、ほぼ事実のようです。
では、なぜ最高位の金印を奴国が賜ることができたのでしょうか。
そのためには、最低、次のような条件が必要です。
1、後漢が中国を再統一したことを知ることができた。
2、中国語を操れた。
3、中国の権威を後ろ盾にできる冊封体制のことを知っていた。
これだけのことを理解できる人物が、当時の奴国にいたということです。
さらに最高位の金印は、相応の立場がなければ、中国いわく、どこの馬の骨とも分からない「東夷の蛮族」がいきなり朝賀してきたからといって、簡単に下賜されるものではありません。
このことが分かれば、奴国の正体がみえてきます。
奴国の中に大陸を出自とし、後漢に関係する相応の人物がいたということです。
それは次のような事情からです。
「項羽と劉邦」で有名な劉邦によって建国された(前)漢は、AC8年に新によって滅ぼされます。
そのとき、漢の南部(呉あたり)から、日本に逃れてきた一団がいました。
彼らは、AC25年に光武帝によって(後)漢が再興したのち、AC57年1月になって朝賀したのです。
それゆえ、彼らは自らを「大夫(領土持ちの貴族)」と称しました。
このような前歴があったゆえに、今は「東夷の蛮族」の地に身をおきながらも、最高位の金印を賜ることができたといえます。
また、238年に女王卑弥呼が「親魏倭王」の金印を受けたというのも、倭国の中に奴国が存在していたからです。
結局、航海術をもち、大陸から亡命してきた彼らが、再び海を渡って魏との仲介を果たしたのです。
では、奴国の人々は、日本では何と呼ばれていたのでしょうか。
当然、「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島を拠点としていた海人族「安曇族」にほかなりません。
ちなみに、奴国(なこく)の「奴」は、古代中国の発音で「ドン」です。
安曇(あずみ)族もまた、呉音で「曇」は「ドン」と読みます。
奴国や安曇族の全員が渡来人ということではないと思いますが、その中に大陸を出自とする人物がいたということです。
One-Point ◆ 「奴国」は、博多界隈に比定されています。その博多湾に志賀島という、現在は陸続きですが、当時は独立していた天然の「要塞」があります。もし安曇族が、内陸出身の海人族であれば、孤立した島を拠点とする必要はありません。外(大陸)から来たために、まずは島を拠点として内陸とは距離を置き、安全を図るのは常道です。その志賀島から「金印」が発見されたのは、当然のことでした。
約4,500年ほど前、縄文時代につくられた火焔土器。
当時の芸術性もさることながら、焼き物でここまで複雑なものを作れる技術やノウハウを縄文人が持っていたことは、誰の目にも明らかです。
『日本書紀』の一書には、天下の主者(きみたるもの)天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三柱貴子(みはしらのうずのみこ)を生む前に、「住吉大神」と「安曇連が祀る神」を生んだことが記されています。
筒男三神(住吉三神)と、綿津見三神(安曇三神)がそれです。
住吉(族)と安曇族が、いずれも海人族であることはご存じのとおりです。
では、なぜ皇祖「天照大神」よりも、海人族が先に生まれたと、一書には記されているのでしょうか。
それは古代日本が、海人族の国だったからです。
国生みは、「イザナギ(伊弉諾尊)」と「イザナミ(伊弉冉尊)」によって行なわれます。
これを単なる「名前」ととらえてはいけないのです。
大自然にかぎらず、言葉にも神が宿ると考えた言霊信仰の古代日本人は、名前をつけるにも、汚さないようにちゃんと意味を持たせます。
この二柱の神の名称も同様で、いずれも海(生み)を象わしているのです。
「なぎ(凪)」と「なみ(波)」、その誘い(いざない)によって生まれたのが日本であるという比喩です。
それは、日本原住のD1b遺伝子の縄文人による海人族らの国に、O遺伝子の東南アジアや、兄弟遺伝子であるE遺伝子の古代オリエントからきた渡来の海人族が融合して、古代日本を築いたことを意味します。
後日、漢の南部(呉のあたり)から亡命してきた大陸系のO3の遺伝子を持つ海人族が、そこにかかわっていきます。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が祓(みそぎ)はらいをされたとき、最初に津波(龍)の神「八十枉津日神(やそ まがつ ひの かみ)」ら三柱を生み、次に「住吉大神(住吉三神)」と「安曇連が祀る神(綿津見三神)」が生まれます。
安曇族は、上述したとおり、大陸系の海人族です。
一方の「住吉大神(住吉三神)」は、日本原住の海人族と、古代オリエント系の海人族らが融合した古来からの一族です。
住吉大社(神社)は、住吉三神(住吉大神)を祀りますが、同時に武内宿禰(たけのうちのすくね)を祀ることは、知る人ぞ知る事実です。
つまり、住吉大神は、武内宿禰、もしくはその先祖神になります。
武内宿禰は、別名「黒男殿(くろどん)」ともいわれ、「相撲の神」であると同時に、黒々と潮焼けした「海の男」であることが、数々の伝承から明らかです。
『日本書紀』は、理由あって、元祖天照坐大御神、素戔嗚尊、住吉大神(武内宿禰)、蘇我一族の素性を徹底的に隠しました。
最初から大和一国史であったことにするために、都合の悪い一族また人物は、神代のお話にしたり、どんでもなく長寿にしたり、由緒が分からないようにするなど、歴史の闇に葬ったのです。
One-Point ◆ 少し長いワン・ポイントになります。「相撲」はもともと神道系の神事です。相撲の神様の一人が「武内宿禰」なのはご存じのとおりでしょう。では、モンゴルはもちろん世界各地に残る「相撲」は、どこからきたのでしょうか。スポーツであれば、どこで生じてもおかしくはないのですが、神事となると、少々お話が変わります。どこまで本当かはともかく、『旧約聖書』には、始祖アブラハムの孫ヤコブが、故郷に帰り着く直前、ヤボク川のほとりで一晩中、天使と「組み打ち」をし、腿の関節を外されながらも諦めずに、ついには明け方に天使が折れて、ヤコブが勝利したことが記されています。そのとき天使から、今後は「イスラエル(勝利者)と名乗りなさい」といわれ、アブラハム、イサク、ヤコブの三代は、イスラエル民族の祖とされます。このときの「組み打ち」が神事である「相撲」の原点だというわけです。それゆえ古来から、「相撲の神」を祀る神社は、だいたい川の傍に建てられています。
最後に、大陸や朝鮮半島との交易ルートは、「魏志倭人伝」に記された、朝鮮半島→対馬→壱岐→松浦(佐賀)だけではありません。
それは文書に残っているということであって、ほかにもあるのです。
たとえば、朝鮮半島→沖ノ島→宗像ルートもそうですし、直接、朝鮮半島東岸から出雲国や丹波(丹後)国にいたる日本海ルートもそうです。
それらは遺跡などからも推測できます。
現代でも、北朝鮮を脱北した小船が、新潟などの北陸道に流れ着くことがあることからも、それは明白です。
つまり、「魏志倭人伝」に書かれたことだけが、古代日本のすべてではありません。
むしろ、そうでない史実のほうが多いのです。
それゆえ、卑弥呼や邪馬台国を、記録に残っているからといって、ことさら大げさに取り上げて、それしか古代日本になかったかのように考えると、視野狭窄に陥ります。
中国の記録がどこまで本当かもそうですが、結局のところ、当時の日本で冊封下にあったのは、唯一、九州北部の倭国しかなかったということです。
今も昔も、「遠交近攻」は中国の戦術です。
現在の共産党一党独裁の中国も同様で、近くの日本を攻めるために、遠くのアメリカと手を結びます。
しかし、もし日本が落ちれば、次はアメリカと直接、対峙することになり、太平洋のみならず世界が緊迫することになるのは、当然です。
かつての三国時代の魏も、東に隣接する敵国、遼東地方の公孫や、朝鮮半島をけん制すると同時に、南の敵国、呉をけん制するために、遠くの「倭国」と手を結んで、公孫、朝鮮半島、呉が倭国と連合しないよう、最高位の金印で取り込んだのです。
それが魏の戦略であり、都合でした。
一方、卑弥呼も当時、狗奴国に対抗するために、魏を後ろ盾として、その威を借りようとしたわけです。
両者は、それだけの関係であって、信頼関係があったわけではなく、利用しあったというのが、本当のところではないでしょうか。
One-Point ◆ ということで、中国のことはどうでもいいのです。今回、大急ぎで日本の原点である海人族を縄文時代からご紹介してきました。次回は、俗にいう「倭国大乱」や邪馬台国、また「卑弥呼共立」について、占星学から迫ってまいります。
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