宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学から解く日本の原点
その7:古代をつなぐ丹後の海人族
−素戔嗚尊と天照大神 −

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九州「倭国」と、大和「畿内国」という2つの視点があります。
ここに古代海人族の「丹後国」という視座を加えてみましょう。
するとコンパスの中心のように、九州、出雲、尾張、大和をつなぎます。

古代海人族「素戔嗚尊」と「天武天皇」の国造り

↑ 天の橋立の奥に元伊勢がある。

●第1稿 : 2015年05月30日アップ




おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

占星学からみた北部九州の倭国大乱(わこく たいらん)や卑弥呼にまつわるお話は、後日にお届けいたします。
それより古代に、畿内国(うちつくに)を治めていた元祖「天照大御神」こと「天照坐皇大神」(あまてらします すめおおかみ)にかかわる「素戔嗚尊」や「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、海人族による国造りをお届けいたします。
大海人皇子(おおあまの おうじ)と呼ばれた第40代「天武天皇」も当然、この古来からの海人族にかかわる一族の出自です。

《 伊豆国で「枯野」を造る 》

『日本書紀』 応神天皇紀に、面白い記述があります。
まずはご一読ください。

『日本書紀』 応神天皇紀より抜粋
(応神5年)冬10月伊豆国に命じて船を造らせた。
長さ10丈の船ができた。
ためしに海に浮かべると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。
その船を名づけて枯野といった。
――船が早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。
もしかすると軽野といったのを、後の人がなまったのではなかろうか。

ここには重要な示唆が満載です。
まず、この一文を読むと、『日本書紀』編纂者が「舟」に詳しくないことがわかります。
なので『日本書紀』の読者は、かつて日本は海運が盛んではなく、魚介類など海での食料採取もあまりなされていない印象を受けかねません。
そうではなく、四方を海に囲まれた日本は、間違いなく縄文時代の太古から海洋国家で海人族の国でした。
当たり前すぎることは記録に残らないのが常識です。
『日本書紀』編纂の総裁を務めた「舎人親王」(とねり しんのう)からして、天武天皇の皇子ながら歌人ゆえ、現場に詳しくなかったことが分かるのが、第1のポイントです。
この記述で、次に注目したいのは、「伊豆国」で「枯野」を造ったことです。
なぜ伊豆なのでしょうか。
それは「枯野」が何を意味するのかが分かれば、みえてきます。
「枯野」というのは、父島や母島で知られる小笠原諸島をへだてた南方の島々やポリネシアの人々が、ごく日常に移動や魚介の採取に使っていた「カヌー」のことをいいます。
「カヌー」とは、手にパドルを持ってこぐ小舟の総称で、一人乗りでダブル・ブレード・パドルでこぐ「カヤック」も含まれますが、古代では枯れ木をくりぬいた丸木舟、つまり遺跡などで見つかる刳舟(くりぶね)のことをいい、発音的には「カノー」ということがあります。
これを漢字で表記したために、船のことを「枯野(カノ)」と記録したのです。
つまり「枯野」は、縄文時代に南方の島々やポリネシアの人々が、海の十字路ともいえる小笠原諸島を経て、そこから点々と伊豆諸島を経由して、日本本土の伊豆半島に伝わったものです。
それゆえ伊豆には、古来から舟造りのノウハウが蓄積されていたわけです。
なので「伊豆国」に「枯野」を造らせたというのが、第2のポイントです。

One-Point ◆ 当連載「占星学から解く日本の原点」では、縄文人は約3万年前から日本固有の遺伝子D1bを持つ原住民族で、もともと「海人族」でもあったことをお伝えしています。それは古代日本が、島々からなるポリネシア系の人々や、古代オリエントの海人族との「融合」によって、形づくられていったためです。古代オリエントの海人族といえば、地中海で有名な「海の民:フェニキア人」がいます。彼らも近隣の民族とともに紀元前8〜6世紀頃に、日本をはじめ、東アジアにも来ていたために、「外洋船」だった当時の帆船のことを“フェニキア”つまり「フネ(船)」と呼ぶようになったわけです。カヌーが「舟(ふね)」で、沿岸を離れて航海する大型船が「船(フネ)」です。中国系の海人族「安曇族」が呉あたりから逃亡してきたのは、その後、だいたい紀元あたりの弥生時代になります。


●海の交差点、小笠原諸島

●伊豆半島の南には、伊豆諸島を経て、小笠原諸島を中継し、北マリアナ諸島のグアムにいたるまで、海峰にそって多くの島々が点在しています。
上図は、代表的な島のみ記しました。
小笠原諸島は、海流が交錯する海の交差点ともなっています。


●フェニキア人の船

●地中海の海の民「フェニキア人」は、当時、地中海から南アフリカの喜望峰を回り、古代イスラエルの港がある紅海へと、アフリカ大陸を一周する航海術をもっていました。
漕ぎ手だけではなく、上の粘土板のレリーフのように、帆を張って風でも進む外洋船です。

《 案外と正直な『日本書紀』 》

第3のポイントを書いておきます。
「船が早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない」
『日本書紀』の編纂者が、このように注釈をつけているのは、彼らが記事を勝手に捏造したからではなく、記録として残っていた一文を、そのまま応神5年冬10月の記事としてあてたためです。
つまり、過去の記録が正しいか間違っているかはともかくとして、大半は案外と正直に『日本書紀』を編纂したことが分かります。
でなければ編纂者が、自分の言葉で「道理に合わない」と疑問を投げかけることはありません。
『日本書紀』は、確かに、一部に編纂の「目的(意図)」にそって、骨太に創作した箇所はありますが、それ以外は、古い記録を用いて編纂しているというのが、第3のポイントです。
ということは、「その2:『日本書紀』の3大編集方針」でお伝えいたしましたように、どのような意図と目的で『日本書紀』が編纂されたのかが分かれば、どの部分が「創作」で、どの部分が古い記録による「編纂」なのかみえてきます。
つまり、編纂を命じた第40代「天武天皇」あたりの時代から、『日本書紀』の記述が終わる孫の第42代「文武天皇」までの時代背景に、「編纂目的(意図)」を見抜くヒントが隠されているのです。
そういった編集方針に基づき、古い記録をまとめて、『日本書紀』は編纂されています。
もちろん『日本書紀』は、学術書や文学書ではありません。
「歴史書」の体裁をとりつつも、明確な意図と目的を持った「プロパガンダ」の書になっています。
その意図と目的が何かは、すでに「その2:『日本書紀』の3大編集方針」で書いたとおりです。
「大和政権(天皇)」の正統性を明らかにすることはもちろんですが、2度と皇位争いは起こさないとする天武の決意と、独立国家「日本」を今後1,000年にわたって確立し、方向づけるとした、第40代「天武天皇」の意志がベースになっています。
ただし、その目的や意図は、天武の皇子「舎人親王」が『日本書紀』編纂の総裁をつとめることで受け継がれましたが、天武崩御後、内容的には天智系天皇と藤原一族(藤原不比等)の都合によって一部が方向修正されています。
そこまで見えたうえで『日本書紀』を読むと、相応に史実がみえてきます。
つまり、『日本書紀』のウラ事情が垣間みえるのです。
舎人親王は、政治的に書けないものを直接に書くことはしませんでしたが、史実と異なる部分は、「突飛」な表現や「不思議」な記述で示唆するなど、案外と「事実」が分かるように正直に記している部分も多いのです。

One-Point ◆ 壬申の乱で見せた采配の妙から、天武天皇は戦略家であり、国家のグランド・デザインを描いて「記紀」編纂を命じたことからも、傑出した人物で、「大海人皇子」と呼ばれたことからも海人族の出自で、海人族は夜間、星を目印に航海したことや、星をみる占星台を築いて天文遁甲を行なったことから、占星師でもありました。壬申の乱ののち、天武の第6皇子として生まれた舎人親王は、天皇にはなりませんでしたが、人がよく、舎人親王の7男は、第47代「淳仁天皇」(じゅんにん てんのう)として即位しています。もし、藤原不比等をはじめ周囲に配慮できた舎人親王が、『日本書紀』編纂の総裁をつとめていなかったら、天武天皇の意図から記述は外れて、日本はバラバラな戦乱国家になっていた可能性は充分に残ります。


●伊勢に祀られるまでの経緯

『日本書紀』では、「天照大神」は、伊勢に祀られる前に元伊勢に祀られていたとされます。
それ以前に、崇神天皇の御世に「倭大国魂神」(やまと おおくにたまの かみ)とともに、大和(畿内国)に祀られていて、笠縫邑(かさぬいのむら)に移されたと記されています。
これは、崇神天皇の御世を、実際よりも古くしたために、順番が合わず、歴史的に操作されています。
次の垂仁天皇の御世になって、大和→元伊勢→伊勢に移されたことになっていますが、実際は、元伊勢→大和→伊勢の順番になります。

《 海人族の系譜と天武 》

さて、壬申の乱で大友皇子(追諡:弘文天皇)を滅ぼした天武天皇は、「謀略家」かのように解釈する説があります。
しかし、『日本書紀』をよく読めば、壬申の乱は、天武天皇側から策略をもって仕掛けたものではなく、記述どおり、やむなく立ち上がったことが随所からわかります。
それが最もよく表わされたのは、次の一文です。

『日本書紀』 天武天皇紀(上)より抜粋
(天武天皇は)「まず、その地の兵を集めよ。
なお国司らに触れて軍勢を発し、速やかに不破道(ふわのみち)をふさげ。
自分もすぐ出発する」といわれた。
(中略)
天皇は出発して東国に入られた。
事は急であったので乗り物もなく、徒歩でおいでになった。
(中略)津振川に至って、はじめて乗馬が届き、これに乗られた。

東国に向かう不破道(ふわのみち)を封鎖するよう、村国連、和珥部臣、身気君ら3人に命じ、その翌々日に出発して東国に入られたときの記述です。
もし、天武から壬申の乱を仕掛けたのであれば、まず東国に移動してから、不破道(不破の関)をふさいで、安全に戦さの準備を整えればよいのです。
この一文は、どこをとっても、そうではない火急の状況が読みとれます。
先に東国を攻撃されれば、天武の地盤が失われるために、まず封鎖を先に命じ、それから出発しているのです。
実は、壬申の乱における大分君(おきだのきみ)の決死の大活躍とともに、この東国への道をふさいで尾張に逃げ込めたことが、壬申の乱の勝利を決定づけた大きな要因になっています。
天武は、壬申の乱で「尾張国造」から宿舎や多大な資金と兵士の支援を受けました。
ところが『日本書紀』には、このことが明確には記されていないのです。
それは「尾張国造」が、素戔嗚尊また大已貴神(おおあなむちのかみ、「おおなむち」とも)に通じる一族だったからです。
尾張といえば、熱田神宮には「三種の神器」の一つ、神剣「草薙の剣」が祀られています。
このことから分かるように、尾張国は、『日本書紀』でいう「日本武尊(やまと たけるの みこと)」のモデルの一人となった大已貴神に連なる海部氏の拠点でした。
天武を支援した「尾張国造」とは、海部氏のことなのです。
少し余計なことも書いておきます。
海部氏にかかわる一族が、神武天皇紀でいう「饒速日命(にぎはやひの みこと)」で、長髄彦(ながすねひこ)らとともに最初に国造りを行ない、畿内国を治めていた元祖「天照大御神」こと「天照坐皇大神(あまてらします すめおおかみ)」にかかわります。
先祖といってよいかまでは、今は「未定」としておきますが、物部一族の中核的な存在が海部氏でした。
「天照坐皇大神」は、最初、自らが平定した畿内国(大和)に当然、祀られていました。
現在では、天武によって伊勢の「皇大神宮」(こうたいじんぐう)、通称伊勢神宮の「内宮」に祀られています。
その3:「天照大御神」の系譜」に書いたように、『日本書紀』でいう「天照大神」の一人で元祖です。
これ以前(左欄ご参照)に祀られていたのが、丹後にある元伊勢こと「籠神社(この じんじゃ)」でした。
正確にいうと、その奥宮である「真名井神社(まない じんじゃ)」です。
ここも当然、海部氏の拠点でした。
日本三景の一つ、天の橋立で区切られた阿蘇海は、現在も残る舟屋で知られる伊根(いね)を抱える若狭湾の西端、宮津湾の奥海にあって、海人族が拠点とするにふさわしい住みの江になっています。
海部氏は、日本海沿岸をさかのぼれば、当時の海都「出雲(杵築)」にもかかわり、さらには、関門海峡をとおって内つ海(瀬戸内海)のT字路にあたる国東半島(くにさき はんとう)を抱える豊の国(大分県と福岡県東部)を拠点としていました。
この連載「占星学から解く日本の原点」や前連載「占星学と解く「日本成立史」」で何度も書いていますように、天武天皇もしくはその先祖が出自としたのが、この豊の国またその界隈です。
ゆえに、かつての宇佐八幡宮(現在の「宇佐神宮」)には、天武天皇にかかわる先祖神が祀られていました。
今でこそ地名は変わりましたが、豊の国の豊後(大分県)には、海人族が住む広大な「海部郡」(あまべぐん、あまのこうり)がありました。
2005年まで、南海部郡と北海部郡とに分かれていましたが、今では「関サバ」で知られる佐賀関を抱える大分市や臼杵市の一部と、津久見市や佐伯市というように、地名が分割変更されています。
ごく単純にみても、古代のお話とはいえ、豊後(大分)、出雲(島根)、丹後(京都)、尾張(愛知)は、「海部氏」をキーワードに、多少の歴史的な時差があるとはいえ、つながっていたのです。
俗称「魏志倭人伝」に記された女王卑弥呼の北部九州「倭国」の安曇族が、壱岐・対馬ルートで半島や大陸とつながっていたように、素戔嗚尊系の宗像族は、沖ノ島ルートで半島や大陸と交易し、同系統の丹後や北陸は、日本海ルートで半島東部や大陸と交易していたのです。

One-Point ◆ 壬申の乱において、豊の国(大分と福岡東部)にかかわる天武天皇に、尾張国造の海部氏が味方したのは、尾張が単に壬生(みぶ:乳母)や天武の湯沐(ゆの)だったという以上に、ルーツが同じだったからです。さらには、壬申の乱の決戦「瀬田橋の戦い」で、命がけの勇猛をふるって勝利を決定づけたのは、豊の国を所領とした大分君(おきだのきみ)でした。そういったことからも、つながりは明白です。つまり、最初に大和を治めていた「饒速日命」また「天照坐皇大御神(元祖天照大御神)」は、天武の同族または宗族です。それゆえ『古事記』や『日本書紀』を記して、大和を治めるべき自らの正統性を残そうとしました。しかし、完成した『日本書紀』では、この事実は完全に抹殺され、天智系天皇や藤原氏また各豪族らとの「和」を図ることを第一義とし、統合国家「大和」と大陸に対する独立国家「日本」維持のため、「天照大神」を統合的象徴とする、最初からの「大和一国史」として編纂されたのです。


●鹽土老翁と熊野大神の碑

●今はもう柵の向こうにあって、立ち入りも撮影もできません。
また夏場は枝葉が生い茂って、文字が読めないことがあります。
後ろは神体山の藤岡山(天香語山)で禁足地です。

《 丹後に隠された日本の原点 》

先頃、パワースポット・ブームが起きたのは、ご存じのとおりです。
それにあやかろうとする心ない一部の人までもが、パワースポットとされる「神社」を訪れて、ご祭神に崇敬の念がないまま、無人(ぶじん)の行ないをすることが起きました。
日本の礎を築いた古代の神々を祀る神社を大切にしてきた神主や氏子さんにとって、自らの先祖が汚されるのは、たまったものではありません。
当然、自衛措置として撮影禁止ばかりではなく、柵を設けるなどして立ち入り禁止にします。
やむをえない処置です。
その一つ、古来から伝統ある丹後の「真名井神社」(まない じんじゃ)の柵から、次のように書かれた碑が読めます。

鹽土老翁 大綿津見神 亦名住吉同体 亦名豊受大神 (画像左ご参照)

鹽土老翁というのは、「塩土老翁」(しおつつのおじ)のことです。
鹽土老翁が海の神「大綿津見神」(おおわたつみのかみ)だというのは分かります。
またの名を「住吉同体」というのも、海人族の神「住吉大神」が「大綿津見神」であり「塩土老翁」なので、これまた問題はありません。
ですが、またの名を「豊受大神」(とようけの おおかみ)というのはどうでしょうか?
一般に、豊受大神というのは、食事の神とされます。
これは魚介を採集して食糧を給した海人族だったということでしょうか?
であれば海にかぎらず、山や森、また田や畑から食糧を給する「豊受大神」がいてもおかしくはないはずです。
そう考えれば「食事の神」とするのも一理はあるのです。
しかし、この地が「元伊勢」と呼ばれている以上、伊勢の「外宮」に祀られる「豊受大神」と同じでなければなりません。
ですが、通常、豊受大神は女神ですが、この地の豊受大神は、「鹽土老翁」「大綿津見神」また「住吉同体」で男神としか考えられません。
これは、名前は同じでも、食事を給するだけの神とは、異なる人物のようです。
なぜなら、伊勢神宮の「内宮」と「外宮」は、距離が離れすぎていることからも、そういえます。
「内宮」の天照大神に食事を差し上げるのが、「外宮」の豊受大神だというのなら、同じ敷地内に祀られているのがふつうです。
実際、宇佐神宮の「上宮」と「下宮」は、同じ敷地内にあります。
宇佐神宮の「下宮」は、御炊宮(みやけみや)と呼ばれ、小椋山(亀山)のふもとにあって、比売大神(ひめおおかみ)を祀る「上宮」は山頂にあります。
やはり伊勢の「外宮」に祀られる豊受大神は、単に食事の神というよりも、むしろ海部氏の最初の拠点の一つだった豊の国の「豊」にかかわるのではないでしょうか。
大分県(豊後)の西隣りには阿蘇山がありますが、籠神社の前の海の名も「阿蘇海」といいます。

One-Point ◆ 本連載で「神武東征」の実体は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の東征であって、邪馬台国の2代目女王「台与」を旗頭に攻めのぼったと解釈しています。その武内宿禰こそが、日本第一住吉大明神こと博多の「住吉神社」に祀られる「住吉大神」(住吉三神)で、そこから東征して難波の「住吉大社」に祀られ総本宮になったことも記してきたとおりです。それゆえ上述した「鹽土老翁」こと「大綿津見神」またの名を「住吉同体」また「豊受大神」というのは、「台与(豊)」を「受」けた「大神」と理解できないでしょうか…。


●天照大神御遷座2,073年

●籠神社(この じんじゃ)の参道にある案内塔。
平成31年は、本宮(籠神社)の御鎮座1,300年、奥宮(真名井神社)のご遷座2,073年、豊受大神御出産1,541年と記されています。
この豊受大神は、邪馬台国の台与とは年代が合いません。

↑ 籠神社(この じんじゃ)



●東北の伊勢「熊野大社」WEBサイト

《 天照大神の1柱「素戔嗚尊」 》

さらにもう一つ、奥にも碑が立っています。
その碑には、次のように記されていました。

熊野大神 須佐之男神 (画像左上ご参照)

こちらは奥にありますので、より古いことが分かります。
熊野大神の「熊野」は、紀伊の熊野が有名ですが、それは出雲(旧名:杵築)から移住した人々によるもので、平安期の天皇や藤原氏がたびたび紀伊の熊野大社に訪れたために、著名になったものです。
なので、熊野大社は、もちろん出雲にもあります。
ほかにも、「東北の伊勢」として山形県南陽市にもあります。
さらには、豊の国である大分県の国東半島にも、南端の根元に表記こそ1字異なりますが「真那井」(まない)という地名があり、隣接して熊野神社を抱える大分県杵築市熊野があります。
丹後の元伊勢、真名井神社の奥に「熊野大神 須佐之男神」の碑があることは、「鹽土老翁(大綿津見神、住吉同体、豊受大神)」よりも、「素戔嗚尊」のほうが古くからこの地に影響力を持っていたことを意味します。
出雲(杵築)と丹後は、日本海沿岸にあり、出雲から潮の流れにのって航行すれば、丹後に辿り着きます。
まったくふつうです。
さて、実際の「神武東征」すなわち武内宿禰(住吉大神)の東征は、台与の時代、3世紀後半のことです。
そのことは、架空の神功皇后、また実在の応神天皇の名によって、『日本書紀』に示唆されています。
この武内宿禰こそが、九州を平定した「日本武尊」のもう一人のモデルとなった九州王、すなわち「武」は九州、「内」は内、「宿禰」は王であることは、前連載の「番外編:ヤマトタケルと武内宿禰」にも書いたとおりです。
では、素戔嗚尊は、いつごろ丹後に影響力を持っていたのでしょうか。
籠神社の参道に立つ案内塔には、「平成31年 本宮御鎮座 1,300年」(画像ご参照)と記されています。
同時に、その横に「奥宮 天照大神御遷座 2,073年」と書かれています。
『日本書紀』が「天照大神」になぞらえた1柱が「素戔嗚尊」であることは、「その3:「天照大御神」の系譜」でご説明を差し上げたとおりです。
なので、奥宮「真名井神社」が天照大神御遷座をなされた地、すなわち「元伊勢」で、そこに「熊野大神 須佐之男神」の碑があってもおかしいことはありません。
なので、山形の熊野大社を「東北の伊勢」と呼ぶわけです。
それはともかく、御遷座が2,073年前ということは、紀元前54年頃のことです。
つまり、呉あたりから渡来した安曇族が、奴国の志賀島に拠点を構える半世紀以上前に、皇祖「天照大神」の御1柱である海人族「素戔嗚尊」は、日本海沿岸を勢力圏に治めていたのです。
それは日本海沿岸にとどまらず、子孫の大已貴神らは、尾張や関東、また東北までも平定し、実際の「神武東征」以前に、下記抜粋のように、地元豪族らの協力をえて国造りをし、平らかに日本を治めていました。

『日本書紀』 神代紀(上)より抜粋
大已貴神と少彦名命は力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。
また現世の人々と家畜のためには、病気治療の方法を定めた。
また鳥獣や昆虫の災いを防ぐためには、まじないの法を定めた。
このため百姓(おおみたから)は、今に至るまで、その恵みを受けている。

One-Point ◆ 上記の抜粋は、あまり紹介されることはありません。なぜなら、戦後、一世を風靡した共産主義史観の歴史学者は、すべての歴史を共産主義思想(マルクス史観)に基づいて、「人類歴史は、階級闘争(権力闘争)の歴史である」と解釈しました。古代日本の歴史もそうとらえたので、大已貴神ら「支配階級」が百姓「被支配階級」の国民を安んじたことは無視したいのです。しかし、大陸国家や半島国家に、それがあてはまっても、海洋国家には、本来、あてはまりません。周囲の海には魚介などの食糧が豊富にありますし、貧困とは無縁だからです。また、船の中で争うことは、お互いの破滅を意味するように、島国では争うほど、その運営に支障をきたします。なので海洋国家また海人族の国の日本民族は、結束を重んじて穏やかで和を大切にします。かつての「倭国大乱」といった争いは、半島や大陸から、戦争に敗れて逃げてきた人々が起因となって、紀元後にもたらされたものです。占星学からみても民族性は、今も昔もさほど大きくは変わらないことからも、それがいえます。



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