宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
HOME > 占星学から解く日本の原点 > その8:海人族と古代日本人
今、日本原住民族である「縄文人」の見直しがはじまっています。
現代日本人が考える以上に縄文人はアクティブで「海人族」でした。
「海」を超え、北海道から九州・沖縄、ソロモン諸島まで渡っています。
↑ 古代ポリネシアの双胴帆船カヌーの「ホクレア号」。機械を使わず、星と風だけで4000kmを航海。2007年に日本にも寄航しています。
●第1稿 : 2015年 7月11日アップ
《おことわり》
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。
なんでもそうですが、「今」の常識から、「過去」を考えると間違います。
とくに戦後、「日本国憲法」制定後の日本人は、良し悪しは別にして、過去の日本人とは異なる国民性を持つようになりました。
過去の日本人、たとえば「明治時代〜敗戦」までもそうですが、とくに「古代日本人」は海外であっても広く飛躍する冒険的な「海人族」だったからです。
先回の「その7:古代をつなぐ丹後の海人族」の最後に少し触れておきましたが「大陸国家」と「海洋国家」の民族、これに「半島国家」を加えてもいいのですが、それぞれの民族性は大きく異なります。
大陸の場合、「牧畜民族」や「騎馬民族」ということができますし、島国の場合、「漁労海洋民族」と言い換えることができます。
この両者には、根本的な違いがあります。
端的にいえば、大陸の民族は「土地(領土)」にこだわり、「支配」や「戦い」を避けられない民族性になります。
一方、周りを大海原に囲まれた島国の民族は、基本的に「秩序」や「和」を保って、共存しようとする民族性を持ちます。
それは船乗りたち「海人族」をみれば当然です。
海の上では、人種、民族、文化の違いを超えて「共通目的」のために役割を分担しつつ、協力して航海を成し遂げなければ、自らの生命にかかわります。
いったん船に乗って、海にこぎだした以上、そうしなければ全員が生きて帰れない「運命共同体」となるのが、古代の航海だからです。
現代の機械化された船舶による航海と、根本的に異なるのが、風や潮流に頼るとしても手漕ぎによる人力の航海だったからです。
そして無事、航海を終えたのちは、スポーツ選手のように互いの健闘をたたえあい、同じ冒険をなし終えた者として、仲間意識が生まれます。
その意識の延長に、島国である海洋国家の民族性がはぐくまれ、今日に至るまで日本人にDNAとして連綿と受け継がれています。
One-Point ◆ 縄文時代は、未開の山奥は危険なので、山中に定住することはありません。だいたいは川の近くの海沿いの平地や丘陵に住み、波が荒れていないときは海辺や沿岸で魚介をとります。アフリカやユーラシア大陸では「動物」を狩猟することが必要だとしても、島国では「魚介」を採取することのほうが、はるかに簡便なのです。そういうこともありまして、水運や海運が必須の生活手段で、食糧の調達だけではなく、他の地域に産物を探しにいく重要な交通手段が舟だったのです。なので必然的に縄文人は「海人族」になります。
●写真は、装飾加工された貝「オオツタノハ」。
なかなか採取しにくく、鹿児島の大隅半島から南方の島々や、伊豆諸島の南以南の島々でしかとれない肉厚の貝「オオツタノハ」の貝輪が、縄文早期の佐賀県の東名遺跡や、富山県の小竹貝塚、また北海道の高砂貝塚などから見つかっています。
一方、北海道白滝産の黒曜石が、青森はもちろん、岡山県の恩原遺跡から発見されたり、伊豆諸島の神津島産の黒曜石が関東一円はもちろん、長野、愛知、能登半島でも見つかっています。
九州も黒曜石の産地として有名ですが、それらは奄美・沖縄地方で数多く見つかっています。
石器時代や縄文時代に、すでに海を越えて舟による産物の移動が行なわれていたことは、もはや明白です。
大陸の人々が、土地に執着して、よそ者を排除して争いを繰り返さざるをえないとしても、島国では根本的に異なります。
地元の生活に適応できなかったり、住めなくなれば、誰もいない大海原に乗り出せば、そこには果てしない可能性が待っています。
世界的にみても、紀元前15〜8世紀頃にプレアデス(すばる)を航海の目印としていた「フェニキア人」は、アフリカ大陸を舟で一周しています。
また、遠く日本や東アジアまでも、ヒッタイト系やイスラエル系の古代オリエント民族とともに、資源や産物を探しに、冒険がてら海を渡ってきています。
固定観念を持たれている方は信じられないかもしれませんが、どこでも自足自給できる日本の古代縄文人も同様なのです。
自ら意図的に、また環境変化による地域脱出を含めて、安定性の高い双胴の刳り舟やアウトリガーの船で「冒険」に旅立っていったのです。
多分、当時の海人族(縄文人)の立場にならないと分からないかもしれませんが、海の中であろうと、今、自分のいるところが「家」なのです。
現在の日本のように、家電やインテリアに囲まれ、居心地の良い「マイホーム族」となった戦後の日本人からは、多分、まったく理解しにくいことです。
後述いたしますように、戦後の日本人は、宝瓶宮占星学から申し上げますと、国家の「現体制」が、それまでの「射手宮」から「牡牛宮」に変わりました。
それによって日本人は、「内向きの安定志向」になったのです。
そういった現代日本人から、縄文時代の生活や精神性をとらえると、理解ができないのは当然です。
それは、はるか昔の縄文人を持ち出すまでもなく、現体制が「射手宮」だった「明治維新〜敗戦」までの日本人もそうでした。
稲作が普及する以前、創意工夫に長け、芸術レベルも高かった縄文人たちは、明治とは規模や範囲は異なりますが、やはり海を舞台に「海外」を志向していく民族だったのです。
そのことは、先入観をなくして、昨今の考古学の発見をみれば、すぐに理解できます。
はるか昔の縄文時代に、琉球・沖縄から東北へ装飾された貝の腕輪などが渡っています。
また逆ルートでも、北海道・東北などから、琉球・沖縄本島はもちろん、南太平洋のオーストラリア沖にあるソロモン諸島にまで、貝や縄文土器など産物が移動していることからそれらが分かります。
One-Point ◆ 石器時代を含めて、「ナイフ」代わりに使用されていたガラス状の黒曜石は、その移動の代表例です。北海道や伊豆諸島また九州地方の良質の黒曜石は、海を渡り、日本各地や琉球・沖縄本島はもちろん、古代朝鮮半島にも渡っています。黒曜石がかってに歩いていくことはありませんので、沿岸や外洋をとわず、古代縄文人たちが航海によって運んでいったのです。
さて、上述を占星学によって補足しておきます。
雑考編「日本は何座宮?」に書きましたように、国家は「民族性」「国体」「現体制」の3つのサイン(宮)によって象わすことができます。
日本の場合、民族性は「魚宮」、国体は「水瓶宮」です。
戦後の現体制は「牡牛宮」で、それまでは「射手宮」でした。
ちなみに、その前の江戸時代の現体制は「乙女宮」です。
「民族性」や「国体」は、時代を超えて変わりませんが、「現体制」は時代によって異なります。
ご参考に、韓国の「民族性」をご紹介しておきますと、「蟹宮」です。
そのため、ごく単純に申し上げまして「論理」よりも「情」を優先する民族になります。
なので「家族」意識の強い蟹宮らしく、「ウリ(私たち、自分)」を主張しますし、裁判でも「法の論理」よりも「民族の感情」を優先して判決をくだしてしまう、お門違いが多々みられます。
そういった国家は、法治国家である自由民主義の日本とは相容れませんので、「混ざるなキケン」というしかありません。
「情」に対しては、理で言っても無理なので、かの国が目覚めるまで放っておくしかないのです。
それはそれとして、日本の現体制「牡牛宮」をご紹介しておきます。
先の大戦で敗戦したことによって、それまで「大日本帝国憲法」に基づいた現体制、すなわち海外志向の「射手宮」の現体制が終わりました。
その後、連合軍による占領統治下の現「日本国憲法」の制定によって、また、サンフランシスコ講和条約による「日本独立」によって、日本の現体制は「牡牛宮」に変わりました。
西洋占星術に詳しい方ならお分かりのように、「牡牛宮」の特徴は、外出よりも「日常生活」を重視します。
どちらかといえば「出不精」で、居心地の良い自分の「家」や「部屋」で、自分の五感に心地よい「快適な暮らし」をおくろうとします。
それは、実力や容貌があったとしても、どこか「自分に自信を持てない」人が多いせいでもあり、どちらかといえば「内弁慶」で、外に対しては「受身的」な言動をみせます。
牡牛宮生まれ(太陽)の全員がそうだというのではなく、「牡牛宮」の象意を純粋にみた場合、そうだということです。
要は、そういった「牡牛宮」の象意や性質によって、戦後日本人の国民性や言動として現われるようになりました。
ホントのお話です。
One-Point ◆ 日本国憲法は、占領下の1946年11月に公布され、翌1947年5月3日に施行されました。実際に効力が発揮される「施行」や「発効」の時期が、ちょうど地上に「オギャーッ」と生まれた「誕生日」と同じになります。一方、サンフランシスコ講和条約は、1951年9月に調印され、翌1952年4月28日に発効しました。「5月3日」と「4月28日」、いずれも「牡牛宮」なので、戦後日本の現体制は、まぎれもなく「牡牛宮」になります。
●写真は、GHQ(連合国軍総司令部)の日本人を洗脳する占領政策が記された機密文書。
戦争に対して罪悪感を日本人に植え付ける宣伝計画「WGIP(War Guilt Information Program)」の基本文書。
機密を表わす「CONFIDENTIAL」のスタンプがみてとれます。
日本の現体制は「牡牛宮」です。
ウソかホントか、それで間違いないのか、史実をみてみましょう。
牡牛宮は、確かに「内向きな安定志向」で、「自分に自信が持てない」し、外に対しては「受け身」で、「忍耐強い」タイプです。
ただ、それも限度次第です。
我慢に我慢を重ねて、本当に牡牛宮が怒ったときは、「怒髪天を突く」というくらい天地をひっくり返すほどの影響力を発揮します。
どこか「スローテンポ」というだけで、実際には、案外と「才能」や「実力」を内包し、女性なら美しい「姿態」を持つことが多いのです。
そういうことなので、本気で「牡牛宮」を怒らせたら怖いですよ。
昨今、そういった日本人の現状に、身に覚えがありませんか?
明治時代はもちろん、戦前の昭和時代や、先の太平洋戦争で海外に進出し、連合軍に特攻を仕掛けたり、命を惜しまず、最後まで戦う射手宮鉄砲玉のような日本兵に対して、トリハダが立つほどの恐怖を味わったアメリカ軍は、ルール無視の日本大空襲や原爆投下を行ないました。
そうして、ようやく終戦にこぎつけます。
彼らは、そんな日本が二度と立ち上がらないように、徹底的に「占領政策」を推し進めたのです。
それが敗戦後、占領軍による「日本人洗脳プログラム」といえるWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)です。
先の戦争は、西洋列強の植民地にされていたアジア民族を、日本軍が解放した自衛の「大東亜戦争」ではなく、アジアを侵略した「悪い」日本に対して、アメリカが出てきて懲らしめたという「太平洋戦争」として、徹底的な教育や宣伝を次々に行なったのです。
そのお先棒を担いだのが、左翼的な教職員組合「日教組」の学校教育で、さらには今や悪名高きマスコミの「朝日新聞」などでした。
また、当時、「進歩的文化人」と呼ばれた左翼的文化人で、昨今でいう反日文化人や学者らでした。
結果、日本人はWGIPや学校教育また偏向マスコミによって、「自虐的」で「内向き安全志向」の考え方を刷り込まれていったのです。
つまり、「自国に自信が持てない」「快適な環境の国内にこもる」、その一方で「海外にはすぐに謝る」といった受け身の「牡牛宮」の国民性に変わっていきました。
しかし、実際は、日本人は「民族性」や「国体」を含め、優れた「民度」を持ち、より豊かで「快適な暮らし」の実現のために、コツコツと技術開発を忍耐強く「真面目」に行う、「牡牛宮」の特徴や実力を備えているのです。
そのような温和な日本人も、最近、歴史をねじまげて事実を見ない中国や韓国の「勘違い」かつ「意図的」な数々の横暴に、少々、オカンムリ気味です。
気をつけなければあきまへんよ。
One-Point ◆ ちなみに、江戸時代の現体制が「乙女宮」だというのは、江戸初期に定められた「武家諸法度」が、現代暦に直すと「乙女宮」のときに発布されたからです。実際的にも、戦さのできない世の中になり、武士とは名ばかりの「官僚化」した小役人によるお家大事の「幕藩体制」という実態から、それが理解できます。「鎖国」という状態も、結局は「乙女宮」の潔癖性から生じたものです。その後、明治時代の現体制は「射手宮」に変わりました。これは「大日本帝国憲法」が施行された11月29日が、射手宮だからです。事実、日本は射手宮の象意どおりに広く海外に進出し、欧米から学び、西洋化すなわち「近代化」を成し遂げていきました。その後、敗戦まで広く海外に雄飛し「自由」をもたらしていったのはご存じのとおりです。
徳川光圀(とくがわ・みつくに)
1628(寛永5年)〜1701(元禄13年)。
江戸時代の徳川御三家、水戸藩の2代目藩主、家康の孫。
初代藩主「徳川頼房」の3男。
儒学を奨励し、彰考館を設けて、『大日本史』の編纂を手がける。
水戸学の基礎をつくった人物。
※
江戸時代最後の第15代将軍、徳川慶喜(一橋慶喜)は、水戸藩第9代藩主、徳川斉昭の子です。
のちに一橋家に養子入りをします。
ちなみに、水戸藩第3代藩主は、光圀の兄の子が継いでいます。
さて、明治の近代化は「天皇制」の復活によってはじまります。
近現代の日本人は、「天皇制」を当たり前と思っていますが、名実ともに当たり前となったのは、江戸時代や幕末を含めてもいいのですが、明治になってからです。
7世紀に天武天皇が即位してのち、『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じ、中央集権国家「独立日本」(大和)の礎が築かれました。
しかし、翌8世紀に「天武系天皇」の皇統が途切れると、藤原一族の専横によって、「天皇」とは名ばかりの立場となり、権威は地に落ちていきました。
事実、藤原一族ひとりが栄華を極めた平安時代は、御所とはいうものの、壁は壊れ、雨漏りがする「あばら家」同然の天皇のお住まいでした。
14世紀のごく一時期、後醍醐天皇による「建武の中興」(建武の親政)が、わずか2年半ほどありましたが、結局は19世紀の明治維新にいたるまで、武家政権の時代もそのような状況は変わりませんでした。
こうみてきますと、「天皇制」(天皇に対する崇敬=尊皇)は、8世紀以降、ほとんどなきに等しい状態だったといえるのです。
では、なぜ天皇への「大政奉還」と明治維新によって、約1,100年ぶりに「天皇制」が復活したのでしょうか。
それは、江戸時代がはじまった直後の1630年に「宝瓶宮時代」の影響圏に入ったからです。
江戸時代が進むにつれて、とくに幕末になると「尊皇思想」が高まります。
その結果、ついに「大政奉還」が行なわれ、武家政権の崩壊とともに天武(系)天皇以来、「天皇制」が復活したのです。
家康の孫、「水戸黄門」こと1628年に生まれた徳川光圀(水戸光圀)が、『大日本史』の編纂をはじめたことで、それは具体的にはじまりました。
全397巻226冊におよぶ『大日本史』は、249年をかけて明治になって完成します。
その編纂過程で、「天皇に逆らったものは滅ぶ」という歴史的事実が明らかになっていきます。
このことが「逆賊」という本来の意味です。
日本は、天皇に象徴される「天運」を持つ国だからです。
当然、『日本書紀』や『古事記』が研究され、陽の目をみるようになり、市井の学者によって一般的にも知られていくようになりました。
同時に、日本の「儒教精神」によって、天皇こそが国主であり、日本国民が忠たるべき古来からの盟主であることが認識されていくようになります。
そして幕末。
最後の将軍、水戸藩出身の徳川慶喜は、薩長軍が掲げた「錦の御旗」をみて逃げ出してしまいます。
これは「天皇にはむかえば滅ぶ」ということを水戸学よって知っていたためで、「逆賊」にはなりたくないという「尊皇思想」ゆえ、逃走したのです。
結局、「天皇制」の復活は、宝瓶宮時代の影響圏とともにはじまりました。
One-Point ◆ 「宝瓶宮」というのは「水瓶宮」のことです。水瓶宮は「天王星」を共鳴星(西洋占星術では「支配星」)とします。今後、約2,160年間(計算値)続く宝瓶宮時代は、天王星を共鳴星とする時代でもあり、水瓶宮を「国体」に持つ日本の「天皇制」の復活が、宝瓶宮時代の影響圏のはじまりと軌を一にするのは当然のことです。また、「てんのうせい」と入力したとき、偶然の一致といえばそれまでですが、「天皇制」と「天王星」が表示されてしまいます。
さて、「海人族と古代日本人」にお話を戻して、終わります。
7世紀に「2度と皇位争いは起こさない」として、『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇は、海人族の出自です。
当時はまだ「皇太子(東宮)」という制度はなかったのですが、王子(皇子)時代の天武天皇の名前が「大海人皇子」(おおあまのおうじ、おおあまのみこ)と記されていることからも、それが分かります。
そういった「海人族」を出自とする天武天皇が、「万世一系」の皇統を定め、1,000年後も「和」を保つために、天皇制を『古事記』や『日本書紀』に著わしたことによって、それらは『大日本史』編纂のベースとなっていきました。
この天武天皇の意図(国家グランド・デザイン)は、21世紀の今日も日本の国体「天皇制」として保たれています。
これらの出来事は、実は、卑弥呼の時代と同様に、天武天皇の御世に「海王星と天王星」がもたらした「星のディレクション」(星の示唆、時の運勢)によっても、ご説明することができます。
結局、「戦い」を避けられない大陸の「牧畜民族」や「騎馬民族」とは異なり、「秩序」や「和」を保って共存しようとする海洋国家「海人族」を出自とする天武天皇が描き、編纂を命じた『古事記』や『日本書紀』が、今日の「天皇制」に基づく日本の「国体」を決定づけています。
それが、なぜ、宝瓶宮時代の影響圏がはじまった江戸時代になって、見直されるようにならざるをえなかったかということは、宝瓶宮時代が目的とする「現実の友愛世界」の方向と「天皇制」のあり方が一致するためです。
頭がお花畑などこぞの国の元首相が語った共産主義的「友愛幻想」(同胞愛)と混同されると困るのですが、宝瓶宮時代は現実の世界的な「友愛社会」を築いていく方向に人類歴史は向かっていきます。
その現実の世界的な友愛社会を、イメージしやすいように「高い民度(友愛精神)に基づく自由民主主義体制の世界」と言い換えてもかまいません。
宝瓶宮時代の「友愛精神」は、日本の特徴である「和」や「絆」、また分かりやすく「高い民度」と言い換えられるのです。
それが海人族の天武天皇が意図した、日本人の和の象徴たる「天皇制」また天皇の「大御心」の中にあります。
なので天皇制また天皇の大御心は、友愛精神に通じ、それは宝瓶宮時代とともにあり、海人族の日本人が持っているDNAとなっています。
そういった事情ゆえに、宝瓶宮時代の影響圏が進むとともに「天皇制」は復活していきました。
かつて「現人神」とされた双魚宮時代の「天皇」が、宝瓶宮時代に向かう敗戦直後において、いわゆる「人間宣言」をしたのも、この流れゆえです。
さらには、古代ギリシャ時代以来、約2,160年続いた双魚宮時代が、1989年に幕を閉じ、人知れずはじまった「宝瓶宮時代のビッグバン」によって、正式に宝瓶宮時代がはじまったそのとき、歴史的に偉大な使命を果たされた昭和天皇が崩御されます。
1989年1月7日のことです。
今上天皇のご即位とともにはじまった宝瓶宮時代は、「水瓶宮」の国体を持つ日本人が、人類歴史に重要な「精神的使命」(天運)を果たすことを示しています。
One-Point ◆ ちなみに、アメリカも「水瓶宮」を国体とします。ですが、こちらは「自由民主主義体制」を守るための使命(天命)を持ちます。そういった日本とアメリカの関係が、最近、見直されています。それは「海」を舞台とした「縄文人」の見直しにもつながっています。何でもかんでもバカの一つ覚えのように、「大陸や半島から渡ってきた」とする戦後日本の進歩的文化人、また自虐的日本人による時代錯誤の過った歴史観は、もはや正されようとしています。DNAをはじめとした科学的な観点からもそうですし、封印された文献的にもそうです。また考古学的にも、漸次、古代日本人の正しい姿が明らかになっています。日本の原点は、「海」を活躍の舞台とした「海人族」や「縄文人」を抜きにしては、語れなくなっているのです。
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