宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
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●第1稿 : 2018年 9月20日アップ
※一部リライトする可能性があります。
「日ユ同祖論」は、紀元前7〜8世紀以降のお話で、どんなに古くても、「天皇シュメール起源説」と同じく紀元前35〜31世紀以降のお話です。
いずれも数千年の単位をさかのぼるにすきません。
一方、日本人のDNAは、4万年ほど前に日本に来た「現生人」、あるいは9万年〜12万年前に日本にもいたと思われる“ネアンデルタール人”または“デニソワ人”などのお話なので、歴史の単位がまったく異なります。
まず、最初にお断りしておきます。
「DNA」は科学ですが、科学がつねに正しいとはかぎりません。
また、DNA研究は、まだ新しい学問なので、今後の新発見や研究によって、現在の説が変わる余地を残しています。
念のために書いておきますと、「犯罪捜査」で“DNAが一致するかどうか”というのは別問題のお話です。
DNAは、つながりを持ちながら変化し、長い歴史をかけて新たな「タイプ」(系統)を生みだし、細かく分岐していきました。
現在では、「現生人」(ホモ・サピエンス)は、「ネアンデルタール人」やロシアで発見された「デニソワ人」とはDNAがつながらず、“空白”があることがわかっています。
早いお話が、「現生人」の先祖は「ネアンデルタール人」ではなく、諸説がありますが50万年前〜30万年ほど前に分岐したとされています。
ネアンデルタール人は4万年〜3万年ほど前に絶滅しますが、日本人の中に、世界でもっとも高い比率で、わずかながらも「ネアンデルタール人」のDNAが残っていることが判明しています。
かつて現生人とネアンデルタール人の共存・交配があったのです。
また、ネアンデルタール人とデニソワ人の交配も、先月8月(2018年)明らかになりました。
BBCニュースによれば、5万年前の少女の骨がロシアで発見されましたが、DNAを調べたところ、母が「ネアンデルタール人」で父が「デニソワ人」であることがわかりました。
さらに申し上げますと、DNAがつながらないのは、まだ発見されていない第4の人種がいるのではないかともいわれています。
以上を前提として、日本人の“先祖”すなわち「日本原住民」のDNAについてふれていきます。
One-Point ◆ 「DNA」といっても、父系のY遺伝子と、母系のミトコンドリア遺伝子があります。父系の遺伝子は、他民族からの征服によって途絶えることがあって、過去をさかのぼることがむずかしい側面があります。ですが、母系のミトコンドリアDNAと併せてみることによって、相応に「日本原住民」にいたる経緯がみえてきます。
日本人のDNAは、数年前までは「D2」とされていました。
しかし、2014年5月以降の現在は、「D1b」に改められました。
そのため、いまだにD2と書いている場合、古い情報を根拠に縷々、述べているのかもしれません。
さらには、日本人に多い「O2b」(旧)にしても同様です。
こちらは、2015年11月に「O1b2」に改められました。
ということからDNAを語る場合、注意しないと、新旧どちらの「D2」や「O2」なのか、間違えたり、事実がみえなくなったり、混乱することが起こりかねません。
「現生人」(ホモ・サピエンス)は、かつては“新人”と呼ばれていました。
その先祖が、かつて“旧人”と呼ばれた「ネアンデルタール人」だったのですが、この説は否定され、また現生人(ホモ・サピエンス)が、17万年前〜20万年ほど前にアフリカ東部で発祥したという説も否定されつつあります。
昨年2017年6月の英科学誌「ネイチャー」の記事によれば、アフリカ北西部のモロッコで、30万年前とみられる初期の「現生人類」(ホモ・サピエンス)の骨の化石5体が発見されたことから、遅くても30年前〜40万年前に「現生人」は発祥したのではないかとされています。
いずれであれ、「現生人」の最初の父系Y遺伝子が、アフリカの「Aタイプ」(系統)です。
一方、母系のミトコンドリア遺伝子は「Lタイプ」からはじまります。
両方のDNAを併記すると混乱が生じますので、以下、ことわり書きがない記述は、父系のY遺伝子タイプのお話です。
「A」から「Bタイプ」(系統)が分岐しますが、両者はアフリカ人のDNAです。
「氷河期」(氷期)になると、水面が80メートル前後も下がったとされ陸続きになったことなどもあって、アフリカからアラビア半島など中近東に渡った一団がいました。
どうやら当初は、これを「Cタイプ」(系統)と考えたらしいのですが、研究が進むにしたがって、「Dタイプ」(系統)や「Eタイプ」(系統)のほうが古いことがわかりました。
このアフリカ系の「A、B」と、続く「D、E、C、F」などが古代遺伝子です。
その後、「G,H,I、J」といった中間系統のDNAをはじめ、新しい「K、N、O,M、S,P,Q,R」などのDNAが生じていきます。
では、「日本原住民」はどれにあたるのでしょうか。
実は、アフリカ系の「A、B」以外では、最も古い「Dタイプ」です。
「Dタイプ」は、6万年ほどまえに分岐し、4万年ほど前に日本に渡ってきたとされています。
一昨年2016年9月1日の国立総合研究大学院大学のプレスリリースは、「縄文人は、現代人の祖先が、アフリカから東ユーラシアに移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統である」と発表しています。
「Dタイプ」の子系統の「D1a」がチベットとその周辺で、「D1b」が日本人固有のDNAです。
これが「日本原住民」のDNAになります。
ご参考に、「Dタイプ」と「Eタイプ」は“兄弟遺伝子”で、後者は、「アフリカ」から「中近東」また「地中海近辺」にみられます。
一方、母系のミトコンドリアDNAをみると、日本人やチベット人がもつ「Dタイプ」は、中国や朝鮮半島にまったくみられません。
そのため、父系のY遺伝子も母系のミトコンドリア遺伝子も、両方とも中国や半島にはないという事実から、「日本原住民」とはまったく別の系統の民族だということが科学的根拠をともなってわかっています。
One-Point ◆ 日本人のなかには、「O2」(旧O3)の系統も20%近くいます。こちらは、ビルマ人や漢民族また朝鮮人に多い遺伝子です。しかし、同じ「Oタイプ」ではあるものの、日本人の「O1b2」とは別系統の遺伝子が「O2」です。ちなみに、遺伝子調査は、日本人全員を対象に行なったものではなく、多くは平野部(都市}でサンプル抽出したものが多いと考えられますので、田舎や山間部を含めると、「D1b」の比率はもっとあがると考えています。
以上のことからいえるのは、すでに4万年前から「日本原住民」がいました。
日本原住民の「Dタイプ」と、アフリカ、中近東、地中海近辺にみられる「Eタイプ」は、同じYap因子をもつ“兄弟遺伝子”ながら、約6万年も前に分岐したものなので“日ユ同祖”とはなりません。
早いお話が、ヤコブの12支族のうち「ユダ族」が、古代イスラエル国家分裂(紀元前10世紀)後も、曽祖父アブラハム、祖父イサク、父ヤコブの信仰を受け継いで守ったために、「ユダヤ教」(ユダヤ人、ユダヤ民族)と呼ばれます。
「ユダヤ教」がはじまったのは、日本における「縄文時代」も中ごろ、「三内丸山遺跡」(さんないまるやまいせき:青森)が最盛期だったころのお話です。
ユダヤ教というのは、アブラハムを“信仰の祖”とします。
その孫の「ヤコブ」(12支族の父)が、ヤボク川のほとりで天使と戦って(相撲の原型とも)、天使から“イスラエル”(勝利者)の称号を与えられたことが、『旧約聖書』に記されています。
このアブラハム、イサク、ヤコブの3代が、「イスラエル12支族」の原点になるわけですが、これがいつごろのお話かというと、女子パウロ会では「紀元前1,800年」以降の出来事としており、一般的に古くみても「紀元前3,000年」(5,000年前)頃のことだとされています。
これを、宝瓶宮占星学の“占星学的時代区分”から申し上げますと、次のようになります。
美しい言葉でいえば、“愛”や“許し”や“霊性”を特徴とするキリスト教は、「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)の象意にもとづいて発祥した世界宗教です。
そのため、約2,000年前に、「双魚宮時代」が正式にはじまった時期にユダヤ教とたもとを分かち、キリスト教を形成していきます。
一方、“目には目を 歯には歯を”といった“律法”によるユダヤ教は、その前の「白羊宮時代」(はくようきゅう じだい)の象意によって成立した“戒律”(ルール)です。
牡羊宮は、“闘争心”はもちろん、無意識ながら“こうあるべき”といった自分なりのルールをもつことなどから、これが分かります。
「白羊宮時代」というのは、影響圏を入れても「紀元前2,600年」をさかのぼることはありません。
「紀元前2、240年」頃に白羊宮時代が正式にはじまりますが、その前後、約360年内の時期に「ユダヤ教」ははじまったことになります。
ということから、ユダヤ教の成立も古代イスラエルのはじまりも、縄文中期(前5,000年〜前4,000年)、または後期(前4,000年〜)初頭のお話なので、「日本」と「ユダヤ」(古代イスラエル)が“同祖”だというのは、まったくの誤りです。
One-Point ◆ もっとも、古代の日本に“ユダヤ教”をはじめとした古代オリエントの影響がまったくなかったわけではありません。当連載でいずれご紹介いたしますが、縄文末期や古墳時代など数度にわたってあったことが分かっています。それも、シナ大陸から製鉄や仏教文化が伝わる以前のことです。
ただし、この事実が「日本の歴史」として明かされることはありませんでした。なぜなら、共産党一党独裁の中国(大陸)にシンパシーをもつ「戦後歴史学界」(マルクス史観の学者)をはじめとしたマスコミが、認めることも報道することもなく、むしろ意図的に隠蔽したからです。「朝日新聞」のやり方をみてもわかりますが、親中反日の主張にそうように“捏造”し、不都合な事実は“隠蔽”するというのが彼らのやり方です。
日本人固有の「D1b」は、地域やサンプリングによってバラつきがありますが、約35%を占めます。
次いで多いのが「O1b2」で、約30%ほどみられます。
「O1b2」のうち、80%以上を占める「O1b2a1」は、約8,000年以上前の縄文時代に発生した日本固有の遺伝子です。
「Oタイプ」(系統)は、4〜3万年前に分岐した新しいタイプの遺伝子で、東アジアやポリネシアに多くみられます。
そのうち、子系統の「O2」(かつてのO3)が漢民族(現中国)や朝鮮半島で、彼らの半数以上がもつ遺伝子です。
一方、日本人は「O1」の系統で「O1b2」ゆえに彼らとは別系統で、「O1b」はシナ大陸にはあまりみられません。
「O1」は、インド東部や東南アジアに多いことから、この系統も海流に乗って日本にやってきた第2の「日本原住民」だといえます。
「人類」としての起源は、最近では1,000万年前〜700万年前だとされています。
その後、700万年前〜400万年前に、直立歩行の「猿人」が出現します。
最初のヒト属「ホモ・ハビリス」が出現したのは、250万年前〜140万年前です。
そののち、「旧石器時代」の200万年前〜1万年前に重なる、190万年前に「ホモ・エレクトゥス」が出現し、アフリカからアジアにまで広がったとされています。
また、アフリカからヨーロッパに向かったグループも発見されています。
かつて“旧人”とされた「ネアンデルタール人」は、諸説がありますが、40万年前〜23万年前(13万年前)に出現し、4万年前〜3万年前に絶滅したといわれています。
彼らは、「現生人」(ホモ・サピエンス)と並存し、一部は混血しますが、DNAからみて別系統であることがわかり、昨今では“新人”とか“旧人”といった呼び方はされなくなってきています。
ちなみに、ヨーロッパで発見された「クロマニョン人」は、現生人(ホモ・サピエンス)の一種です。
上述のDNAでご紹介いたしましたように、旧石器時代の後期にあたる約4万年ほど前に、私たちの先祖である「現生人」(ホモ・サピエンス)が日本に上陸し、「D1b」の遺伝子をもった「日本原住民」となっていきました。
縄文時代は、その後、1万5,000年前からはじまったとされますが、今から1万年ほど前に新石器時代にうつっていきます。
では、200万年もさほど変わらずに続いた“打製石器”の「旧石器時代」から、なぜ1万年ほど前に“磨製石器”の「新石器時代」にうつり、その後、急激に「縄文時代の文明」や「メソポタミア文明」を人類は築いていくことになったのでしょうか。
縄文時代には、航海や漁業はもちろん、すでに稲作やカキの養殖や栗の栽培などの食糧確保が計画的に行なわれていたことが、考古学的研究によって明らかになってきています。
ご存のように、「火焔土器」をはじめ、「縄文のビーナス」といった芸術性の高い土偶や、木の皮でつくった「縄文ポシェット」なども製作されており、かつての長い旧石器時代にくらべて、一気に縄文時代に文明の花が開いていきます。
これらは、縄文文明にかぎらず、シュメール都市文明の発祥などをふくめて、“歴史のナゾ”とされていますが、「数理法則」を基礎理論とした「宝瓶宮占星学」による“歴史プロセス”からは、理由がハッキリしています。
One-Point ◆ この飛躍発展の理由を、現在の科学で解き明かすことはできません。新石器時代のはじまりをふくめてもいいのですが、世界最古の「縄文文明」や、5,500年ほど前の「メソポタミア文明」の発祥は、科学の範疇外の出来事によって生じたからです。ここで詳しく述べる余地はありませんが、「宝瓶宮占星学」のホロスコープ解釈と、宝瓶宮時代の新しい宇宙観=「数理法則とクオリアル・ワールド」による歴史発展のプロセスから、“明確”にみえてきます。
縄文時代の「土器」や「土偶」は、東日本などで多く発見されています。
その一部を、「宝瓶宮占星学のクオリアルな観点から…」、2018.07.10の記事「縄文芸術はすごい!」でご紹介いたしました。
ここでは、ご参考に新たに2点のみご紹介させていただきます。
●「土偶付深鉢」
縄文時代中期、高さ42.3cm、土偶部分は14.7cmで、全高の35%もの高さを占めます。
本来、深鉢に土偶を付ける必要はなく、祭祀用ではないかという説もありますが、そうではなく、生活に余裕や遊び心また創作心がないと、このような多様な装飾はうまれません。
●「縄文の女神」
縄文時代中期、高さ45cm、日本最大の土偶です。
スラリとした現代的な美しさをそなえ、一方では縄文時代らしい、しっかりした下半身のフォルムをもちます。
「縄文のビーナス」とともに双璧をなすもので、こちらは山形県舟形町で出土しました。
いずれも国宝に指定されています。
さて、上述のDNAによる「日本原住民」(古代海人族)はもちろん、日本で花開いた精神性にあふれた「縄文文明」をみれば、日本人の“民族性”が、「魚宮」であることがわかります。
「魚宮」は、“夢”や“ビジョン”また“幻想”(芸術性)など形而上世界を代表的に象わします。
この魚宮が「海王星」を共鳴星(西洋占星術では「支配星」と呼んでいます)とすることは、西洋占星術に詳しいかたならご存じのとおりです。
ですが、海王星が発見される19世紀以前、古代ギリシャの時代から魚宮の“支配星”(共鳴星)は、長いこと「木星」でした。
19〜20世紀に「土星外惑星」(トランス・サタニアン=天王星、海王星、冥王星)が発見されるはるか以前、古代ギリシャの世界観「4大元素説」にもとづいた「古典占星学」は、「魚宮」の共鳴星を「射手宮」と同様に「木星」としていたわけです。
「木星」は、端的には“膨張”や“拡大”など、“遠い世界”を象わします。
地球人類規模の“遠い世界”なのですが、精神的に“遠い世界”といえば、“思想”や“哲学”また“宗教”(世界宗教)など、日常生活から離れた「精神分野」を象わします。
一方、地理的に“遠い世界”といえば、“海外”や“外国”を意味します。
付属的に、“海”や“船”すなわち“航海”も、その範疇にかかわってきます。
当然、海に囲まれた日本は、顕著にこれら木星と共鳴し、「魚宮」の象意にそった「海洋国家」の地理的条件をもちます。
そういうこともあって、「日本原住民」は、遠くの地域から、主には海流に乗って日本列島にやってきた「古代海人族」をはじめとした“多民族国家”を形成していきます。
このことは、日本民族のDNAの種類が、世界のなかで最も多種多様に入り混じっていることからも、科学的に裏付けられている事実です。
“雑多”というと失礼ですが、こういった“多様性”や“混雑”また“混迷”さらには垣根を超えた“融合”という状態もまた、「魚宮」の象意なのです。
これは、同じ木星を共鳴星とした「射手宮」の象意とは異なるものです。
早いお話が、日本の地理的条件や気候風土は特殊で、「魚宮」の“民族性”をかたちづくらざるをえないものになっていました。
「日本原住民」は、縄文時代に四方の海を渡ってきた「古代海人族」と融合し、彼らもまた一部は海を住処としながらも、生活に適した日本列島に定着し、「木星」の象意をともなつつ“民族性”「魚宮」を築いていったのです。
木星の象意を持った「古代海人族」は、“おおらか”で“寛容”で陸地(土地所有)にこだわらないこともあって、争う必要がありません。
イヤなら海へ出て、航海生活をしながら、次の寄港地(“遠い世界”)をさがせばよいのです。
また、古代日本は、山海の食糧が豊富で、水にも恵まれた“大自然”を有したために、自然への感謝や崇拝はもちろん、「魚宮」の象意である“霊性”や“芸術性”をそなえていきました。
詳しくは、次回以降にゆずりますが、縄文時代の日本列島は、「資源大国」で、古代人にとってはまさに“別天地”でした。
食料を争奪し合う必要がなく、平和でもあったために、あたかも“世界の吹き溜まり”かのように人々が住み着き、世界最古の「縄文文明」を生んでいきます。
One-Point ◆ 最近は「縄文ブーム」が起きています。日本人の“民族性”を象わす「魚宮」を、昨今は15年間ほど共鳴星の「海王星」がトランシットし、民族意識や縄文回帰へのディレクションを投げかけているためです。現在、ちょうど「魚宮」の真ん中あたりを運行中ですが、一方では、冥王星に加え土星が「山羊宮」をトランシットしはじめたために、地に足を着けた“縄文回帰”のディレクションとなっているわけです。
ということで、新連載「古代日本の黎明 feat.占星学」の次回「その2」は「縄文時代の日本列島」(仮題)をテーマに、「古代日本の黎明」と「古代オリエントの影響」をお届けいたします。
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