宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 古代日本の黎明 feat. 占星学
− 古代オリエントの影響 −
その2:縄文時代の日本列島

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世界でもめずらしい日本の「地形」が文明を生んだ

↑ 三内丸山遺跡のやぐら(復元)


●第1稿 : 2018年10月 2日アップ


通説では、「縄文時代に文化はなく、狩猟生活の貧しい時代だった。それが大陸や半島から弥生時代の稲作をはじめ、仏教など渡来文化によって、日本は文明国になった」と教えられてきました。
しかし、昨今、事実はまったくの逆であったことが、DNAをはじめとした考古学的な発掘から明らかになりつつあります。

《 プレートの縁に生じた日本 》

まず、縄文時代を知るには、「日本列島の成り立ち」をおさえておく必要があります。

科学が発達した現代とは異なって、縄文時代は“地形”や“気候”といった大自然の環境がダイレクトに衣食住をはじめ生活に大きく影響を与えるからです。

そのため、ほんとうの縄文時代を知るには、自然科学の分野から当時の「日本列島」の“環境”を明白にしなければなりません。

それは地球上で日本が位置する“立地条件”や“地形”を調べることでわかります。

はるか太古の昔、日本列島はどのようにかたちづくられていったのでしょうか。
ポイントのみをみてみましょう。

日本列島が、4つものプレートが交わる縁(へり)にあるのはご存じのとおりです。

日本が位置する大陸側の「ユーラシアプレート」、北側の「オホーツクプレート」(北米プレート)、南側の「フィリピン海プレート」、そして影響力の大きな「太平洋プレート」です。


4つのプレートと日本列島


このうち、毎年15cmほど日本列島側に押し寄せてきて、地層も厚く頑強な太平洋プレードが、日本の近海で地下に沈み込み、ユーラシアプレートやフィリピン海プレートに影響しています。

それによって大陸から剥離された太古の原初日本列島は、結果のみを申し上げますと、南北に細長く狭い国土ながら、その中央には隆起によって、背骨のように3,000メートル級の高い山々をそびえさせるにいたりました。

海に囲まれた狭い国土ながらも、高い山々がそびえ、海岸に山(森)が近接するという、箱庭のような地形が築かれていったのです。

この立地や地形が、どのような“気候”や“環境”を縄文時代にもたらしていったのかが、重要です。

One-Point ◆ 日本に住んでいると、日本のような地形や気候が”世界標準”かのように勘違いします。ですが、日本列島は特殊です。暖流と寒流が交わる場所に位置する海洋国家であること、また赤道直下の酷暑でも、北極に近い極寒でもなく、ほぼ中間緯度に位置すること、北東〜南西に細長い国土のわりには、高い山々がそびえるといった“多様性”をもつことから、占星学的にみると「魚宮」の象意もった“夢”(理想)の国土になっています。


● 隠されてきた「縄文時代」

かつて「縄文時代」は、なかったという時期がありました。
あっても、文化的な生活はなく、マンモスを追いかける原始人のイメージで教えられてきました。
なぜなら、戦後、“マルクス史観”の「学者」や「マスコミ」、また日教組による「学校教育」が、現在以上に日本では全盛を極めていたからです。
彼らは、自らの「思想」によって、共産主義国家の大陸(中国)や半島(北朝鮮)のほうが、“進歩的”であるとする“反日思想”(共産主義思想)によって、意図的に日本をおとしめる歴史解釈を行ない、戦後の日本人を“洗脳”(反日化、厭日化)してきたのです。
それらは、「邪馬台国畿内説」にもつうじますが、事実にもとづく歴史解釈というよりも、結論ありきで自分たちに都合よく歴史を“ねつ造”するものでした。

《 「スンダランド」と古代海人族 》

現生人(ホモ・サピエンス)が日本に渡ってきた時期に重なる4万年前〜9千年前のあいだの氷期には、海面が今よりも140メートル〜30メートルも下がっていました。

それゆえ、Dタイプの遺伝子をもった縄文人の先祖「日本原住民」が渡来することが可能でした。

この時期は、現在さかんに研究が進められていますが、フィリピンやインドネシアまたマレー半島は陸続きで、広大な「スンダランド」が出現していました。

アフリカを出発した現生人(ホモ・サピエンス)は、海沿いに伝ってきて「スンダランド」に住んだ人骨や遺跡が現在の陸地部分からだけでも発見されています。

もし、海に沈んでしまった旧スンダランドの海底部分までも調査すれば、さらに多くの人骨や遺跡が発見されるでしょう。

ちなみに台湾も、当時は大陸と陸続きでした。


スンダランド


ご参考に図を掲載しました。
現代とは大きく地形が異なっていることがご理解いただけると存じます。

このことから分かるのは、“黒潮”の流れは、現在とは異なるということです。

当時の“黒潮”は、もっと沖合いを流れていました。
そのため、スンダランドから、大陸と陸続きの台湾、また日本に至る海域は、今よりも流れが比較的ゆるやかになっていたのです。

当然、手漕ぎの舟でもって、大陸伝いに北上し、海面が下がっていたことから大陸と陸続きになっていた当時の台湾半島から、与那国島、石垣島、宮古島、沖縄本島、奄美、九州に至る海は、当時の「古代海人族」の操船技術をもってすれば、海流がゆるやかなこともあって渡航が可能でした。

事実、スンダランドや台湾、また沖縄や南九州から出土した現生人(ホモ・サピエンス)の人骨や石斧(せきふ)などが、そのことを裏付けています。

逆に、人骨の形状はもちろん、DNAをみても、大陸と「日本原住民」は異なり、関係のないことがわかっています。

One-Point ◆ 4万年ほど前、最初に日本列島に定住した現生人(ホモ・サピエンス)は、「スンダランド」(東南アジア)方面から海を渡ってきた“古代海人族”です。その後も、海面上昇とともにスンダランドが失われ、現在のように多くの島々に分かれていくにしたがって、造船技術や航海のノウハウを高めていったと考えられます。彼らの一部もまた黒潮が大陸側に近づき、日本にぶつかるようになった流れに乗って、日本に来たといえます。また海面が最も下がった2万5,000年前あたりになると、シベリア方面から陸続きになった北海道に、第2の「日本原住民」が移住してきます。


● 昨今の「渡海実験」の矛盾

本文に書いた海面の変化による潮の流れを考慮せずに、現在の海で「渡海実験」をしても無意味です。
黒潮の流れが現代とは異なっていためです。
つまり、台湾が陸続きで、半島と九州のあいだも狭まく、さらに遠浅の大陸棚がかなり海に突出していたために、沖縄諸島にはさまれた“東シナ海”は、内海というと大げさですがそれに近い状態でした。
結局、奈辺の潮の流れは黒潮から離れていて、ゆるやかだったのです。
それを現在の早い黒潮で、葦(あし)や竹など原始人の発想で舟をつくって実験しても、ひ弱になった現代人の手漕ぎでは、ムリに決まっています。
「古代海人族」の舟は、原始的なレベルではありません。
また、ふだんから海に出ていますので練熟度が高く、体力も現代人とは異なります。
うがった見方をすれば、それを承知で“渡海実験”を行ない、東南アジアから海を渡ってくるのはムリだ、大陸や半島から来たと印象づけたいのではないかさえ勘ぐられます。
古代日本人のDNAや骨格は、大陸ではなく、間違いなく東南アジア系(古代海人族)だという結論がすでにでています。
海女さんや海で生活する人に特有の「サーファーズ・イヤー」(外耳道骨種)が、東南アジアや石垣島の白保人の頭蓋骨から確認されているのです。
陸に住む大陸人にはそれがないことからも、「日本原住民」は“海人族”であって、大陸人や半島人ではありません。

《 キレイな水と豊かな食生活 》

さて、徐々に上昇しはじめた海面は、縄文早期の9,000年前頃には、今より30メートルほどの低さになりました。

この前後には、鹿児島湾の奥まった高台に、のちの三内丸山遺跡に先がけて定住生活を行なった「上野原以遺跡」が形成されはじめています。

さらに6,000年ほど前、縄文前期がはじまるころになると、ほぼ現在の海面になり、南からの暖かい黒潮の流れは、大陸寄りに流れを変えて日本列島にぶつかるようになりました。
そこで太平洋側の本流と、日本海側の対馬海流に分かれていったのです。

「対馬海流」と「黒潮本流」は、日本列島を両サイドから包み込み、北からの冷たい「親潮」とぶつかり交わるようになります。

このことが、縄文人の生活に大きな変化をもたらしました。
ポイントは、次の3つです。

【魚介資源の恵み】
まず、暖流と寒流が交わることによって、豊かな漁場がもたらされました。

もともと「古代海人族」を先祖にもつ縄文人です。
まわりを海に囲まれた日本は、それを受け継ぎ漁獲技術を発達させて縄文時代から魚介類といった海の食料資源に恵まれることになったのです。

【大量のキレイな水資源】
つぎに、豊かな雨量に恵まれるようになりました。

暖かい黒潮は、湿った大気すなわち雲を生み、雲は風に流されて、日本の高い山々にぶつかると上昇して、雨や雪を豊富にもたらします。
つまり、大量の水資源に恵まれるようになったことが最大のポイントです。

さらに雨は、山の大量の土砂を押し流して、扇状地や平野を造成していきました。

【豊かな森の食資源】
それだけではなく、日本の山を豊かな植物の森へと変えました。

落ち葉などによって森の養分を含んだ雨水は、多様な植物を育成させ、山菜などが生い茂る大地に日本を変えていったばかりではなく、海に流れ込んではプランクトンを繁殖させました。

そのプランクトンを求めて、魚たちが日本の海岸近くに集まってきます。
また、縄文時代にすでにカキの養殖が行なわれるなど、結局、黒潮は大量のキレイな水資源や、山海の豊かな食料資源を縄文人に提供してくれたのです。

このことは、四季の変化を豊かなものにしたばかりではなく、季節に応じた多様な植物の収穫を可能にし、狩猟によらずとも、山海の食物だけで生きていける安定した定住生活を可能にしていったのです。

One-Point ◆ 現在の日本は水質汚染もあって、海外からのミネラル・ウォーターも輸入しています。それでも山間部ではキレイな大量の飲用水を確保できます。地球上に飲用できる水は、地下水が1%弱、河川に流れる水が0.01%程度だとされます。しかし、日本列島には、黒潮によって絶えず雨がもたらされ、大地をうるおし、キレイな水が途切れることがありません。


● 縄文芸術「顔面把手付深鉢」

こちらの縄文土器は、「木星」(魚宮)の影響を受けた縄文人らしく、おおらかな“造形”になっています。
深鉢は“母胎”を象わし、今まさに胎児を出産しようとする瞬間を写しとったようです。
実用品を“芸術”にまで高める感性は、縄文独自のものといえるでしょう。
縄文中期(4,500年前)、山梨県から出土。


● 縄文芸術「水煙土器」

有名な火焔土器に対して、丸みのあるこの装飾土器は「水煙土器」と呼ばれています。
ですが個人的には、“水煙”というよりも「渦巻き文様」にみえます。
いずれにしても、生活に余裕がなければ、こんな複雑多様な土器は生まれません。
縄文中期初頭(約5,000年前)、長野県から出土。

《 縄文文明「発祥」の理由 》

では、縄文文明は、どのようにして発祥したのでしょうか。

古来、文明は、メソポタミア文明などのように大河(チグリス・ユーフラテス川)の氾濫がもたらす豊かな土壌が、小麦などの穀物の栽培を可能にし、「農耕」による食料の安定確保ができたことによって、生活に余裕が生まれて、文明が発祥してきたと考えられていました。

日本には、そのような大河や広大な平野がなかったことから、文明の発祥は不可能とされてきたのです。

しかし、近年、有名なところでは、青森の「三内丸山遺跡」が5,500年以上も前から1,500年間にわたる定住生活をしていたことが確認され、世界の常識をくつがえすことになり、今、世界の学者たちの注目を集めています。

この発見は、それまで“縄文人”のイメージとされてきた、獣を追って転々と移動する原始的な狩猟生活をしていたのではなく、日本の大自然を活かして“クリの栽培”をはじめ、ブリ、サバ、タイ、ニシン、タラなどの漁や、地域によっては“カキの養殖”といった山海の豊かな食物による安定した食生活をしていたことを明らかにしました。

三内丸山遺跡の場合、最大幅15メートル、長さ420メートルもの道路や、住居が計画的につくられていたことがわかっています。

また、23メートルほどの高さと推測される櫓(やぐら)の跡をはじめ、ダンボール2万箱分の土器などが発掘されました。

櫓(やぐら)は、直径80〜85センチほどもあるクリの木6本を長方形に配し柱として、基礎を固めるなどの工法をとっていたようです。
つまり、広大な“ムラ”というよりも「共生都市」を築いていたわけです。

結局、このことをみても、縄文時代は食料を求めて争う必要がなく、小麦などの農耕によらなくても安定した食生活をえられたことよって、余裕が生まれ、大自然と共生する独自の「縄文文明」を築いていくことになりました。

事実、縄文時代には、“遊び心”にあふれた土器や土偶など、「縄文芸術」が世界に先がけて花開いています。

One-Point ◆ 日本列島は、1万5,000年ほど前に「針葉樹」の森から、木の実がとれる「広葉樹」の森へと、漸次、変わりはじめました。このころに縄文時代がはじまっています。9,000年ほど前に「黒潮」(暖流)の影響が強まりはじめると、縄文人の生活をさらに豊かに変えていきます。「魚宮」の“民族性”によって霊性をそなえた縄文人は、大自然に感謝する「八百万の神信仰」を深めていったわけです。さらに次項でご説明いたしますが、「航海」による交易もまた縄文文明の形成を可能にしていきました。


● 三内丸山遺跡の「櫓」の意味

三内丸山遺跡は、津軽半島と下北半島に囲まれた良港「むつ湾」の奥まった高台に位置しています。
そこに建てられた推定23メートルもの櫓(やぐら)は、縄文人が「古代海人族」であったことがわかれば、何のためにつくられたのかがみえてきます。
むつ湾に入ってくる舟や周囲を確認する“物見櫓”だったことはもちろん、海に漁労に出た舟が戻ってくるための“目印”でもありました。
また日が没んでも帰ってこない舟があった場合、“灯台”の役割を果たしたといえます。
でなければ、推定12トンもの巨木を、6本も立てて「櫓」を構築する労力をついやすことはなかったでしょう。

《 海の交易と「古代縄文海人族」 》

「日本原住民」となった現生人(ホモ・サピエンス)は、「スンダランド」の時代に海を超え、島伝いに日本列島に移り住んだことは上述のとおりです。

つまり、日本原住民は「古代海人族」であって、海洋国家の縄文人が“海のプロフェッショナル”だったことを忘れてはなりません。

明治時代以降、汽車や車といった陸上交通が発達し、ダムや堰の建設などによって、河川の交通が衰退していったことから、現代人は「舟」に意識が向かなくました。

しかし、終戦直後あたりまでは、まだ庶民の身近に「水運」が存在していたのです。

個人的なお話になりますが、北部九州では、昭和28年の大水害まで、山で切り出した杉を筏に組んで、山奥から有明海まで筑後川をくだっていました。

また、子どものころ実家の一部は、隣家の船大工が2艘立ての屋形船の舟をつくる作業場にしていました。昭和40年代〜50年代頃までのお話です。

それはともかく、現代人が想像する以上に、「魚宮」の“民族性”をもった縄文人は、海に出て舟を操った冒険家(チャレンジャー)でもありました。

その証拠に、ナイフがなかった時代、火山岩の一種で、うすく鋭く剥離する「黒曜石」をナイフがわりに用いていました。

この黒曜石は、出土する産地がかぎられ、もっとも良質な伊豆諸島の神津島産をはじめ、長野などの内陸部のほか、島根県の隠岐島、大分県の姫島の黒曜石などが、日本全国はもちろん、海を越えて朝鮮半島やロシアのウラジオストックやシベリア方面にまで渡っています。

ヒスイは新潟の糸魚川周辺でしかとれませんが、北海道や三内丸山遺跡でもヒスイの加工品が発見されたことはもちろん、山陰地方の出雲や九州の遺跡からも発見されています。
直接か段階的にかはともかく、海を越えた交易がなされていたのです。

さらには、南方の海でしかとれないオオツノハタの装飾貝輪(ブレスレット)が、北海道をはじめとした遺跡から発見されるなど、“縄文海人族”の航海は、現代人の想像をはるかに超えて行なわれていました。

これらの交易(航海)は、占星学からいえば、「魚宮」の“民族性”をもった日本人(縄文人)が、当時の魚宮の共鳴星「木星」の象意にもとづいて、広く海外など“遠くの世界”を志向していたことからもみえてきます。

One-Point ◆ まだあります。オーストラリアから東に約2,000km、南太平洋の「バヌアツ」(共和国)から、「縄文土器」が発見されています。また、同島の最古の墓地から出土した人骨を調査したところ、アジア人のDNAだったことが一昨年2016年の英科学誌「ネイチャー」で発表されました。オセアニア人はともかく、バヌアツなど「リモートオセアニア」の最初の人々もまた”古代海人族”で、縄文人(と同じアジア人)だったのです。これらの事実は、縄文人が海をわたって、各地の文化や情報また交易を広く行なっていた“国際人”だったことも、縄文文明の構築に一役かっていたことをしめしています。
次回は、「古代オリエントの影響」(仮題)の予定です。

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