宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
HOME > 古代日本の黎明 feat.占星学 > その3:古代オリエントの影響
↑ シバの女王を迎えるソロモン王
●第1稿 : 2018年10月29日アップ
今まで断片的にしか明かされず、納得しにくかった「縄文晩期」における「古代オリエント」の影響をご紹介いたします。
縄文晩期というのは、一般的には紀元前1,000年頃〜紀元前300年頃のことをいいます。
ちょうど、『日本書紀』編纂チームが、初代天皇「神武東征」を設定した紀元前660年は、「縄文晩期」の中頃にあたります。
日本の歴史を正しく解明していくには、どうしても触れておかなければならないことがあります。
それは、戦後の「学校教育」や「マスコミ」また「歴史学界」は、「大陸」(中国)や「半島」(北朝鮮)を“進歩的”ととらえる「反日・左翼思想」に染まっていたことです。
逆に日本は、偏狭な“島国根性”の国で、弥生時代以降、大陸や半島からの“稲作”をはじめとする文化や“渡来人”のおかげで、文明国になったとするいわゆる“自虐史観”を植えつけてきました。
現在では、それは誤まりだということが理解されつつあります。
戦後「歴史学界」は、語ることも認めることもありませんが、日本には縄文時代から引き継がれた“先進的”な文化があります。
そのうえで、古代日本は、何でも受け入れる“民族性”「魚宮」と、異なるものに興味を示し“改革的”な「水瓶宮」の“国体”によって、大陸の一部の文物を受け入れて日本化してきました。
最近では、“反中嫌韓”の国民感情や、考古学の発見また科学的な根拠から、すべての文化が大陸や半島から来たというのは「誤り」だということが確認されつつあります。
さはさりながら、いまだに「大陸優位」の影響や「階級闘争史観」の影響は、気づかないまま日本人の心の奥底に残っています。
たとえば、一例ですが、江戸時代は「士農工商」の身分階級があったと思い込んでいることもそうです。
また、TVドラマの「水戸黄門」に代表されるように、悪老中や悪代官また“越後屋”といった悪徳商人(資本家)がいて、そういった“支配層”や“権力者”が、“農民”(労働者)を常に苦しめてきたという「マルクス史観」(共産主義思想)のとらえかたもその一つです。
One-Point ◆ ご存じのかたも多いのですが、「稲」のDNAを調べた結果、稲作は半島経由ではないことが明らかになりました。逆に半島には、古くから倭人が移り住んで国をつくっていて、半島の正史『三国史記』には、その昔、倭から来た人物が王族(名は脱解)や宰相(名は瓢公)になったことが記されています。そういった半島に渡った日本人が、後年、日本に戻ってきたときに、俗にいう「渡来人」とされることがあったわけです。
【概略】 倭国(北部九州)の東北一千里の多婆那国で、王が女人国の王女を妻に迎えた。
王妃は子を生んだが、王は捨て去るように言った。
王妃は絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。
箱は金官国(朝鮮半島)に流れ着いたが、誰も箱を引き上げようとはしなかった。
箱は辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。
そこで老婆が箱が開けると、中から一人の男の子が出てきた。
このとき新羅の赫居世(初代王)の39年(BC19年)であった。
男の子(脱解)は、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。
第2代南解王5年(AC8年)が死去したとき、儒理尼師今に王位を継がせた。
儒理尼師今が57年10月に死去したとき、その遺命に従って「脱解」(倭人)が王位についた。
(以下、略)
つまるところ、戦後「歴史学界」や「マスコミ」は、信奉する「共産主義思想」にもとづいて、日本の歴史を歪曲して“階級闘争”の歴史であるかのように解釈してきました。
その内容が、当時、全盛を極めた「日教組」によって学校で教えられてきたのです。
「宝瓶宮占星学」からみたとき、“国体”を「水瓶宮」とする日本人は、天皇のもとに「臣民平等」の意識があるために、天皇を肯定するからには、“階級闘争”といった発想をしません。
戦国時代をみても、信長の戦さ専門の軍隊は別として、ほかの領国はふだんは畑を耕す農民たちが刀をもっていて、戦さ働きをする“農兵”でした。
もし領主が、そんな自国の農民たちを反日左翼学者らがいうように階級をかさにきてふだん虐げていたら、いざ戦さというときに、まともに働いてくれません。
そうこともあり、「農民」はむしろ領国の“宝”というのが、戦国時代の日本の実情です。
また日本は、古来から「女性尊重」の社会でした。
「縄文のビーナス」や「縄文の女神」また「顔面把手付深鉢」など、縄文の土偶や土器をみても、どちらかというと“女性賛美”の作品です。
日本における女性の社会的地位は高く、11世紀初頭の『源氏物語』は、世界最初の「女流文学」です。
それをさかのぼる7世紀後半〜8世紀の『万葉集』をみても、女性の歌が多く載っていますし、天皇から庶民クラスまで”対等”に歌が掲載されています。
これが世界に類をみない“先進的”な日本文化の一例です。
むしろ、大陸や半島のほうが「男女差別」が激しく、たとえば「仏教」は女人(にょにん)を排するのが本来の教えです。
「儒教」にしても、本来は「皇帝権力」を絶対化し、「身分制度」を肯定して、女性を蔑視する「男尊女卑」の思想にほかなりません。
それゆえ家康は、将軍による江戸幕府の天下泰平を図ろうと、「忠」や「序列」を重んじる儒教を推奨したわけです。
しかし、一般的な日本人は、そういった大陸由来の思想を、仏教でいえば「親鸞」に代表されるように、女性を受け入れて、日本独自の「大乗仏教」に“宗旨”を変更することで、一般庶民にも仏教を広めました。
儒教にしても、“忠臣”をうながす五徳である本来の「温良恭倹譲」を捨て去り、“道徳”の「仁義礼智信」の五常のほうを広め、日本にそった独自のものに変えて、「水瓶宮」の“国体”らしく平等な教えにしてきたのです。
One-Point ◆ 「マルクス史観」に染まった戦後「歴史学界」(マスコミ、学校教育)は、「大陸」(中国)や「半島」(北朝鮮、韓国)を賛美し、日本を“劣等国”かのようにねじ曲げた歴史解釈を垂れ流し、国民を“洗脳”し続けてきました。それゆえ、優れた「縄文文明」を明らかにすることも、認めることもせず、大陸より先に“製鉄”や“造船建築”など「古代オリエントの影響」があったことを完全に無視し、国民の目から隠してきたのです。
丹後「真名井神社」の参道脇にある御霊水「天の真名井の水」。
組まれた岩の途中から水が出るようになっています。
衛生のため、飲まないように注意書きが記されていました。
このような誤まった“歴史認識”を、どこかで信じておられるかたほど、ご納得できないかもしれませんが、「縄文晩期」に、“製鉄”をはじめとした「古代オリエント」の影響があったことは事実です。
古代オリエントの製鉄にかんしては、次回、詳述する予定です。
もっとも、戦前には、「スメル」(シュメール)など古代オリエントの影響が一般に語られていました。
有名なところでは、伊予国一宮(愛媛県)の「大山祇神社」(三島大明神)の元宮司だった三島敦雄氏が、昭和2年に上梓した『天孫人種六千年史の研究』(スメル学界)などに、古代オリエントとの交流が記されています。
俗にいう「天皇シュメール起源説」です。
ですが、これらの書籍は、敗戦後、「八紘一宇」につうじることから、GHQによって徹底的に焚書処分にされました。
ちなみに、「古代オリエント」の影響が「神武東征」の直前にあったのは事実ですが、“天皇シュメール起源説”も“日ユ同祖論”も、拡大解釈のし過ぎで、完全な間違いです。
そういった“トンデモ説”を扱うA氏は、真名井神社を奥宮とする丹後の元伊勢こと「籠神社」(この じんじゃ)の宮司、海部氏から、『天孫人種六千年史の研究』を読むことを薦められたといいます。
これは、「古代海人族」を祖にもつ海部氏なら、ありえることです。
「真名井」と名がつく場所は、文字が異なったりしますが、だいたいは「古代オリエント」(古代イスラエル)とかかわりがあった場所です。
丹後の「真名井神社」もそうですし、出雲の「真名井神社」や鳥取、国東半島(大分県)に残る「真那井」の地名、また高千穂峡の「真名井の滝」、さらには熊野の「真名井社」など、いずれも古い歴史が残る場所ばかりです。
「天の真名井」といえば、一般的には、“清浄な水に付けられる最大級の敬称”とされますが、そうではなく、「真名」(まな)の語源は、古代イスラエルの民がエジプト脱出後、モーセとともに荒野を40年間もさまよったとき、神(天)から与えられた「マナ」とよばれる”朝つゆ”に由来します。
●『旧約聖書』 出エジプト記 第16章より抜粋
夕べになると、ウズラが飛んできて宿営をおおった。
また、朝になると、宿営の周囲につゆが降りた。
その降りたつゆがかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜(しも)のようであった。
イスラエルの人々はそれを見て互いに言った。
「これはなんであろう」(…「マナ」の意)。
モーセは彼らに言った。
「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。
…(以下略)」
One-Point ◆ 「古代オリエント」から大航海をして、縄文晩期の日本列島に来た人々にとって、先回も書きましたように、日本ではあたりまえですが「豊富で清らかな水」は、彼らにとっては渇きをいやす“いのちの水”でした。彼らはそれを“マナのような水”として「真名井」と名づけたのです。真名井神社の入口階段前には、モーセが岩を打って水を出した記述(『旧約聖書』 民数記20章)を想起させる「天の真名井の水」があります。
もう一つ、書いておかなければならないことがあります。
古代オリエント(イスラエル)の人々は、どんな風貌をしていたのでしょうか。
白人の俳優が主役をつとめたモーセの映画「十戒」や、ヨーロッパに伝わったキリスト教による「イエス」の肖像画などから、イスラエル(ユダヤ)人は、“白人系”かのように考えておられるかたも多いと存じます。
ですが、白系ユダヤが誕生したのは、8世紀頃に東欧系の白人が「ユダヤ教」に改宗してからのちのことです。
それ以前の古代イスラエル人は、イエスもふくめて、「アジア人」の風貌でした。
DNAからみても、縄文人に近い存在です。
とくに、日本に来た古代オリエントの人々は、“船乗り”でもあることから、日焼けした褐色の肌や黒い肌で、日頃から海に潜って漁をしていた海辺の縄文人とさほど、見分けがつかなかったといえます。
そういった彼らの風貌はもちろんのこと、お互いに「海」を生活の舞台とする者どうしですし、“海外”を象わす「木星」を共鳴星とする当時の「魚宮」や、“自由”で“対等な関係”を象わす「水瓶宮」の象意をもった“古代海人族”の縄文人は、興味や親近感をもち、あんがいとウマがあったといえます。
もし、そうでなくても、彼らは古代オリエントや、経由地のインドまた東南アジアからの“珍品”をもって交易を求めましたので、好奇心旺盛な縄文人は、日本列島の豊かな“食料資源”や“鉱物資源”などをもって彼らに応じたはずです。
以降の記述は、舞台をイスラエルを含む古代オリエントに移して、その状況はどうだったのかお伝えいたします。
One-Point ◆ 日本には、キリスト教が根づかなかったことから、『聖書』に馴染みがありません。とくに『旧約聖書』は、分量が多く、カタカナの人名や地名がてんこ盛りで、読む気力すら失せてしまいます。しかし、『旧約聖書』は、古代イスラエルの歴史書でもありますので、そこには重要なヒントが記されています。
まずは、古代オリエントの変遷を、当テーマに関連したポイントのみにしぼってお届けいたします。
紀元前15世紀に、世界で最初の“鉄器文化”を築いたのは、「ヒッタイト」です。
縄文時代の製鉄を語るとき、ヒッタイトの影響は欠かせません。
同じ頃、紀元前15世紀〜前12世紀に優れた“航海術”を確立したのが、「フェニキア人」でした。
縄文晩期の日本に、大航海をして来ることができたのは、紀元前7世紀にアカバ湾から地中海までアフリカを一周した、このフェニキアの船団しかありません。
また、紀元前10世紀のソロモン王の時代に、最大の版図を築いたのが、「古代イスラエル王国」です。
一例ですが「真名井」の項で書いたように、古代日本に残るイスラエルの痕跡は、この三者による「古代オリエント」の影響です。
つまり、「天皇シュメール起源説」が間違いだというのは、スメル(シュメール)は紀元前20世紀頃のウル第3王朝のときに都市文明を築きましたが、その直後の紀元前1950年頃には滅ぼされています。
その後の紀元前15世紀以降に出現した、“造船技術”や“航海術”に優れ、アルファベットを発明したことでも知られる「フェニキア」の出現をまたなければ、古代オリエントから日本にまで、はるばる来ることはできないのです。
上図は、紀元前10世紀頃の古代オリエントの版図をベースに、ご参考に当記事に関連する場所などを記したものです。
古代イスラエル(ユダヤ教)の信仰の祖「アブラハム」とその父は、「占星学」(ホロスコポス=時の見張り人)で知られる「カルデア」のウルから来ました。
勘違いしておられるかたが多いのですが、「カルデアのウル」とスメル(シュメール)第3王朝があった「ウル」は、これまでは同じだとされてきましたが、最近では別の場所であることが分かってきました。
ユーフラテス川の上流、『聖書』にも出てくるハランの東150Kmほどの場所が、アブラハムの時代の“カルデア人”の「ウル」でした。
シュメールの「ウル」は、アブラハムの時代は、まだカルデアの土地ではなく、シュメールの「ウル」があるユーフラテス川下流の沖積平野一帯にカルデア人が勢力を伸ばしたのは、紀元前10世紀前後(バビロン第5王朝)の時代です。
つまり、日本に来たのは“シュメール”ではなく、「古代イスラエル」と「フェニキア」の船団です。
さらにいえば、縄文晩期に日本に来た「古代イスラエル人」が、縄文人(日本人の先祖になったわけでもないのは当然なので、文化的な影響があったのは事実ですが、「天皇シュメール起源説」も「日ユ同祖論」も間違いだということは、ハッキリしています。
それはともかく、現在のトルコあたりに、世界で最初の鉄器文化を築いた「ヒッタイト王国」は、内紛と食糧難、また地中海のナゾの「海の民」によって、紀元前12世紀頃に滅びています。
その一因となった「海の民」が、地中海交易を行なっていた「フェニキア」とまったくの無関係と考えるのは、理解しがたいお話です。
ヒッタイトが滅びた紀元前12世紀以降、フェニキアは全盛期をむかえていったことからも、ほぼ確実にそういえます。
当時、フェニキアが最大の拠点(港、造船施設)としていたのが「レバノン」です。
『聖書』には「ツロ」(テュロス)の名で出てきます。
「古代イスラエル王国」は、その東と南に接していました。
One-Point ◆ 隣国どうしは、ふつう争いが起きやすいのです。ですが、“陸”のイスラエルと、“海”の「フェニキア」は、争うことなくむしろ協力関係にありました。イスラエルの「ダビデ王」とフェニキアの「ヒラム王」の関係もそうですし、次の「ソロモン王」の時代も、“イコール・パートナー”(兄弟関係)の良好な関係を築いています。
「フェニキア船」。二段櫂船で、エジプトのあや布の帆をもっていました。
長さ約20m、幅約6mほどだとか。
航海実験のため岩田明氏が復元した紀元前20世紀頃の船「キエンギ号」。
インドから沖縄まで90日間で渡れたと記されています。
「古代イスラエル王国」のはじまりは、預言者サムエルが「サウル」を初代王として立てたことによってです。
紀元前11世紀末(BC1080年以降〜BC1000年頃)のことです。
しかし、そのサウルに命を狙われつつも、サウルのあとを継ぎ、統一イスラエル王国を築いたのは、巨人「ゴリアト」を倒したことで有名な2代王の「ダビデ」でした。
そのダビデの子が3代目の「ソロモン王」です。
「ソロモンの財宝」としても知られるソロモン王の“栄華”は、彼が銅山をもっていたことにも由来しますが、アルファベットを発明し、航海術に優れ、広く世界と交易を行なった「フェニキア」とのタッグなしにはありえませんでした。
ソロモン王は、金や銀、財宝や珍品、また鉄をはじめとした鉱物に関心を示したことでも知られますが、その大半は、フェニキアの交易船団とのタッグによってもたらされたものだからです。
ちなみに、ソロモン王の母親「バテシバ」(バト・シェバ)は、ヒッタイト人です。
これもソロモンが鉄に関心を示したことに一因しています。
ソロモン王の死後、古代イスラエル王国は、“10支族”による「北イスラエル王国」と、祭司を行なうレビ族をはじめ、信仰に篤いユダ族とベニヤミン族の“2支族”による「南ユダ王国」に分裂していきました。
北と南に分裂したあとのお話は、後日、この連載でもお届けいたします。
いずれにしても、ソロモン王は、「タルシシの船団」を持っていて、海外の金や銀、鉄また珍物を集めていました。
『旧約聖書』には、次のように記されています。
●『旧約聖書』 列王記10章より抜粋
ソロモン王が飲むときに用いた器はみんな金であった。
また、レバノンの森の家の器もみんな純金であって、銀のものはなかった。
銀はソロモンの世には顧みられなかった。
これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせたからである。
「ヒラムの船隊」というのは、ダビデとも親交があったヒラム王の「フェニキア船団」のことです。
ソロモン王は、有名な“第1神殿”や“ソロモン宮殿”を建てるときにも、ヒラム王の協力をえて、レバノンから“香柏”や“いとすぎ”(レバノン杉)を切り出してもらい、海路で運んでもらっています。
One-Point ◆ 航海術に優れた「フェニキアの船団」と、ソロモン王の「タルシシの船団」は、フェニキアの案内と守りのもと、ともに大航海をしました。彼らは、アフリカやインドまた東アジアにもやって来ました。なぜなら、タルシシュの船団が持ち帰った「くじゃく」は、インドやスリランカ(旧セイロン)にしか生息していませんし、また「象牙」もアフリカだけとはかぎらず、インド象の可能性もありえます。
付記しておきますと、「シュメール渡来説」をとなえた航海士、岩田明氏は、粘土板をもとに復元した古代船「キエンギ号」で、航海実験をしています。その結果、インドから出発して、日本(沖縄)に到着するまで約3か月をようしたそうです。ただし、スメル(シュメール)がわざわざ危険を冒してまで、未知の日本列島にやってくる根拠や動機がありません。
※次回は、火山列島でもある「縄文晩期」の古代日本が、“食料資源”大国だったばかりでなく、“鉱物資源”の大国でもあったことなどをお届けいたします。
その2:縄文時代の日本列島 ← BACK
NEXT → その4:縄文晩期の「ソブ製鉄」
※当ページの内容は著作権法により保護されております。無断使用はご容赦お願い申し上げます。
Copyright(C) 2005-2018 Aquariun Astrology - Seiji Mitoma All rights reserved.