宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
HOME > 占星学から解く日本の原点 > 番外編:三輪山登拝の光と影
今回は、連載とは直接の関係がない「番外編」です。
番外編ですが、まったく関係がないともいえないのも事実です。
ただ、客観的な論拠があって記したともいえない内容です。
↑ ご神体の「三輪山」(御諸山)。
●第1稿 : 2016年 1月21日アップ
奈良の三輪山にこのお正月に登拝してきました。
これまでの記事とは異なって今回は、ありていにいえば単なる「随感」です。
標高476.1メートルの山頂の「奥津磐座」まで、約1時間をかけてを登拝してきた、いわゆる感想です。
ご興味がおありの方のみご高覧をたまわりたく存じます。
なぜ、登拝してきたのか、理由は、ことのついでです。
大阪で開催された「第3回宇宙会議カフェ」に参加するついでに、何もわからないまま、総勢7名での登拝となりました。
三輪山は、ご存じのように大神神社(おおみわじんじゃ)を拝殿とします。
つまり、大神神社のご神体は「三輪山」で、ご祭神を「大物主大神」(おおものぬしの おおかみ)とします。
大物主は、またの名を「倭大物主櫛甕魂命」(やまと おおものぬし くしみかたまの みこと)とも申され、大国主神(おおくにぬしのかみ、別名:大穴持命=おおあなもちのみこと)の和魂(にぎみたま)とされます。
ですが登拝は、大神神社からではなく、わきに300メートルほど進んだ標高80メートルの狭井神社(さい じんじゃ)から登ることになります。
ここからして、「なんで?」という疑問が生じます。
ですが、ことのついでに流れのままに登拝にいたりましたので、疑問をはさむ余地はありません。
この疑問は、福岡にもどってのち、地図をみて納得しました。
まずは、そこからはじめましょう。
三輪山の本当の拝殿は、一般に知られる「大神神社」ではなく、本来は「狭井神社」ではないでしょうか。
「さい」というのは「ヤマユリ」のことで、一見、三輪山とは直接には関係がなさそうですが、案外とそうでもないかもしれません。
その推測は、左下の欄外に書いておきます。
ご興味がありましたらご一読ください。
それはともかく、狭井神社は、現在でこそ大神神社の摂社ですが、もともとは天理市の大和神社(おおやまと じんじゃ)の別宮(わけみや)でした。
大和神社は、「倭大国魂大神」(やまとの おおくにたまの おおかみ、別記:日本大国魂大神)をご祭神とします。
大物主大神が倭大物主櫛甕魂命で、大国主神の和魂であることから、大和神社のご祭神の倭大国魂大神とは、類似性が考えられます。
というか、いずれも「最初に国を治め霊となった神」を意味しますので、ほとんど同一人物です。
お話をもどしまして、なぜ狭井神社が本来の拝殿だと感じたかの理由です。
大神神社の場合、参道をまっすぐ進んで、そのまま拝殿で参拝をすることになりますが、そのとき、後ろに三輪山が控えているとはいえ、山頂の「奥津磐座」からは、約600メートルほどもズレてしまいます。
なぜかといえば、三輪山を参拝するだけではなく、実は「伊勢神宮」をもあわせて遥拝していると考えられるからです。
理由は後述いたします。
一方、狭井神社は、摂社にしては立派すぎることもそうなのですが、山頂への登拝口があることをはじめ、狭井神社の参道や鳥居からみたとき、ほぼまっすぐに三輪山の山頂に向かっているためです。
そのため、狭井神社こそが三輪山を「ご神体」とする本来の拝殿です。
ちなみに、狭井神社の拝殿自体は、参道に直角ではなく少し右に曲がって建てられているようなので、山頂とは少しズレてしまいます。
One-Point ◆ どちらが本当かは、ご自由にお確かめください。今回は真実を解明するページではなく、感じた疑問のいくつかを提示したり、これまで古代史を解明してきた内容から、推測できることを述べるにとどまります。明治になって、天皇の復権とともに大神神社も栄えますが、そのときさびれていた狭井神社は、大神神社の摂社になりました。
●三輪山に登拝する山道にそった小川で、ところどころに赤黒い川床をみかけました。
なにか鉱物が三輪山で採れたのでしょうか。
製鉄では、かなり高温の火を使います。
当然、ヤケドは茶飯事的に起こります。
その際、ヤマユリの花粉がヤケドにたいへんよく効きます。
現在のように化学薬品がなかった時代、ヤマユリはヤケドの貴重なクスリでした。
ヤマユリこと「さい」から名づけられた狭井神社は、ヤケドの治療にかかわっていたことが考えられます。
つまり三輪山に登るには、ヤケドのクスリが必要だった…とか。
鉱物が採れる山であったかどうかは存じません。
ただ、大神神社から狭井神社に向かう参道脇には、「くすり道」と書かれていました。
ヤマユリのおしべは、「因幡の白ウサギ」のお話で、大国さま(大国主神、大物主)のいうとおりくるまった「蒲の穂綿」の穂によく似ています。
蒲の穂の雌花が熟すると綿状になりますが、それが穂綿です。
「辺津磐座」は、拝殿の後ろの禁足地の中にあります。
なので登拝は、拝殿前の境内の横の登拝口から、お祓いをしたのち、次の「中津磐座」、山頂の「奥津磐座」へと、約1時間ほどをかけて登っていきます。
最大の感想と疑問は、山頂のみ、まったく空気(神気)が異なることです。
山頂の直前まで、どちらかというと重たい感じがあり、無意識のうちに空気をはらいながら登っていました。
ところが山頂間際、標高466.7メートルの「高宮神社」(こうのみや じんじゃ、祭神:日向御子神)をすぎて、山頂の「奥津磐座」に出ると、スコーンと気が天空に抜けているのが次第にわかってきます。
「奥津磐座」には、1メートル前後の黒灰色の磐が数多くあって、わき道を進むと、おもわず「スゴイとこだな!」という言葉が口にでました。
「奥津磐座」のそこだけ、空気がまっすぐ空(宙:そら)に抜けていているのです。
そのことから、次のように感じました。
1、ここは、星を観測していた場所である。
2、それは、海人族(あまぞく)の人々である。
3、古代オリエントに通じる人がいた。
当然、祭祀も行なわれていたようです。
それよりも、空(宙)を通じて、(故郷の)古代オリエントへ思いをはせ、神というより大自然の「星辰」(せいしん、宇宙)に祈りを捧げていた空気感があります。
もちろん、航海に必要な星の観測を兼ねていました。
考えてみるに、星の神を「天津甕星」(あまつ みかぼし、別名:天香香背男=あまのかがせお)といいます。
大物主の別名「倭大物主櫛甕魂命」にも、甕(みか)が入っています。
神様の名前に甕(かめ)は使いませんので、「櫛甕魂」(くしみかたま)というのは、「霊妙に輝く魂(神、星)」を意味します。
また、日中は、奈良盆地(大和平野)に入ってくる船を見張っていたようです。
現在とは異なり、古代は水運がベースでした。
大阪湾から大和川を通って、人や物資が奈良に入ってきています。
古代の奈良盆地は、一部が湖(沼地)で、現在とは水量が異なります。
そういったことがありまして、三輪山に海人族が出入りし、古代大和を治め、国づくりをしていてもまったくおかしくはありません。
そう考えれば、「津」は、なになに「の」と訳すこともできますが、「辺津磐座」「中津磐座」「奥津磐座」の津は、素直に海人族が「港」と関連づけて呼んだと考えることができます。
One-Point ◆ 「大物主大神」の物(もの)は、「もののけ」(物の怪)の「もの」(霊)で、大和神社の「倭大国魂大神」の「魂」と同じです。大物主は、どちらかというと「祟(たた)り」の面を象わし、大国魂は、古代大和を治めていた「元祖」を象わします。結局、神武東征以前に古代大和を収めていた饒速日命(にぎはやひのみこと)、また大国主神、また大已貴神(おおあなむちのかみ)にかかわる神です。彼らは国譲りを迫られ「祟る」側になりました。『日本書紀』では作為されていますが、最初に国をつくった「ハツクニ シラス スメラミコト」である第10代「崇神天皇」がこれです。
8世紀になって淡海三船(おうみの みふね)が、歴代天皇に漢風諡号を号するにあたって、殺されるなど「祟」(たた)る天皇には、「崇峻天皇」など「崇」(あが)めるという字をあてました。「崇神天皇」も同様で、初代天皇だから崇めるべき神と単純に考えると、のちに日本最大の怨霊となった「崇徳天皇」の諡号と矛盾が生じます。「崇」めるという字を使って、逆に「祟」るのを鎮めるのが、言霊信仰の古代日本の作法だからです。
※上記の「古代オリエント」は、俗にいわれるシュメールとは異なります。
では、なぜ山頂のみ、空気(神気)が異なるのでしょうか。
論理立てた正解は、現在のところわかりません。
わかりませんが、架空の初代「神武天皇」になぞらえられた勢力から、攻撃を受けたとき、古代大和をつくり、見事に治めていた古代オリエント系の流れを含む勢力、饒速日命また大已貴神ら大物主大神と呼ばれるようになった人(々)は、日頃、祭祀を行ない故郷に思いをはせていた三輪山の山頂で最期を迎えたからだと考えられます。
その配下の古代原住民族は、三輪山の途上で戦ったために空気が異なるのかもしれません。
いずれにしても、三輪山には複数の空気(神気)が流れています。
単純ではなく、いくらか錯綜しています。
そういった「念」また「祟り」と「尊厳」と「信仰」が残った山なので、登拝にあたっては厳しい決まりがあります。
ご存じのように、登拝道から外れて山の中に入ることはできません。
写真をとることも禁止です。
飲料水以外の持ちこみも飲食も一切できません。
また、山のものを何一つ持ち帰ることも許されていないのです。
それを「パワースポット」といって、遊び半分で登拝するのは避けるべきです。
立派に国を治めていたので悪い神ではないのですが、自分たちがつくった国を譲った以上、やはりちゃんと引き継いでいってほしいという思いがあるようです。
なので登拝においては、どういう心づもりなのか見られていて、それゆえ無意識ながら気をはらいながら登らなければならなかったのでしょう。
もちろん、「背景」は人それぞれなので、スムーズに登れる人もいれば、体力的にはともかく、何かの変調をみせる人がいないではないかもしれません。
感じる感じないは別にして、ご神体山である以上、いずれにしてもそういった空気(神気)がある場所です。
One-Point ◆ なんとなくを含めて感じたことを書くのは、かえってむずがしい面があります。うまく伝わっているかどうかわかりません。多分、文献などによって得た知識や先入観があると、かえって間違った意識に誘導されることがありますので、さほど知らないままに登り、良し悪しは別として感じたままを書くのは、知る人にとっては何かのヒントになるかもしれません。
●正式名称は、「狭井坐大神荒魂神社」(さいに います おおみわ あらみたま じんじゃ)です。
主祭神は、大神荒魂神(おおみわの あらみたまの かみ)。
配祠神は、大物主神(おおものぬしのかみ)、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたら いすずひめの みこと)、勢夜多々良姫命(せや たたらひめの みこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)の4柱とされています。
※
ご配祠神の名称にご注目ください。
ヤケドのクスリと書いたヤマユリこと「さい」との関連で書いておきます。
狭井神社のご配祠神の姫神の名前に、いずれも「たたら」(蹈鞴、多々良)が入っています。
たたらというのは、古来からの製鉄の技法のひとつで、「踏鞴製鉄」(たたら せいてつ)の神の名を意味します。
なので「狭井」という漢字は、「狭い井戸」を表わした神社の名称ではなく、ヤマユリの「さい」を井戸にかけたものです。
ここで行なわれる鎮花祭(はなしずめまつり)が「花粉」にかかわることからも、ヤケドに効くヤマユリの花粉との関連でそういえます。
そんなこんなで登って降りて往復約2時間ちょい。
下山が定められている午後4時までには30〜40分しか残っていませんでした。
大阪に向かう電車に乗るとすぐに陽はおち、古都のようすは見れず、ほとんど三輪山登拝が目的だけの一日でした。
『古事記』や『日本書紀』には、天照大神や大物主大神のエピソードが書かれています。
その記述が、かなりあやしいのです。
7世紀に大和朝廷を立てた、いわゆる「征服朝」側からの記述ということもありますし、また当時の日本がおかれた状況もあって、『日本書紀』は最初から大和一国史として編纂されています。
それ以前に国を治めていた側の記録は、正しく残されることはありません。
天武天皇が生きていれば別ですが、その遺志を引き継ぎつつも、自分たちが不利にならないように、天武の皇子「舎人親王」を総裁としつつ、藤原不比等ら編纂チームは、最初に国づくりを行なった征服された側をも、「万世一系」に組み込んで皇統としています。
それをわからないようにしながら、天照大神や大物主大神らを扱っていますので、『日本書紀』にはあきらかに矛盾する記述が散見できます。
当ページに関していえば、崇神天皇の御世に、宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂(日本大国魂)を宮中外で祀るようになったのもそうです。
天照は大和の笠縫邑に祀られ、最後は伊勢に移されます。
あきらかにヘンです。
天照大神といえば、『日本書紀』が「皇祖神」として扱っている1柱のはずです。
その天照を、宮中から追い出して、ほかで祀るというのはおかしな話ですし、伊勢に祀られた天照を、現在のように伊勢を立派にした天武天皇の正妃「持統天皇」を除いて、歴代天皇が誰一人、行幸も「親拝」もしていないのもヘンです。
要は、(元祖)天照大神は、天智系天皇からは忌避されているのです。
結局、約1,000年後、明治天皇がご親拝をされるまで、待たなければなりませんでした。
むしろ庶民のほうが、古くからお伊勢参りをしているのです。
また、「大物主大神」を祀る祭主を大田田根子命(おおたた ねこの みこと)とし、「倭大国魂神」を祀る祭主を市磯長尾市(いちしの ながおち)をとしたことが、同時に書かれています。
大神神社の大物主と大和神社の倭大国魂を、事実上、いずれも祟り神としているのです。
個人的な解釈では、上述いたしましたように、大物主大神と倭大国魂神は同一人物、または古代大和を治めていた人物です。
「崇神天皇」ご自身も祟り神であるので、実は天皇の名をかりて史実のつじつま合わせをし、正体や真実を隠蔽しています。
結局のところ、『日本書紀』は、ほんとうの元祖「天皇」(大王)ともいえる神々(人物)の真実を正しく記していません。
そういったことが、結局は、本来の拝殿が狭井神社ながら、複雑に錯綜して大神神社を拝殿にすることにつながり、歴史の真相は闇に消されているようです。
One-Point ◆ 登拝して感じるのは、「事は単純ではない」ということです。複雑な事情が潜んでいて、『日本書紀』は、元祖「天照大御神」をはじめ、三輪山の「大物主大神」、また大和神社の「倭大国魂大神」の正体を隠しています。当シリーズの「その3:「天照大御神」の系譜」に書きましたように、「天照大神」は次々と古代の為政者(王)に投影され、日本統合の象徴「皇祖」になります。要は、「天照大神」は1人ではなく、日本人なら「天照大神」を拝すれば、誰でも自分の族長(王)を崇める仕組みになっています。
なぜこのような形なのかわからないとされる「三ツ鳥居」です。
別名「三輪鳥居」といわれることや、大神神社の摂社「檜原神社」の三ツ鳥居が、伊勢の式年遷宮の古材をもって建て替えられることなどから考えて、三輪と伊勢のつながりが秘められた鳥居です。
また、ふつうの鳥居と異なって扉があるのも特徴です。
それは、「格」が高いのと同時に、出てこれないようにしているためです。
こちらからも行けないようにしているのはもちろんですが、向こうからも降りてこられて祟られないように、封じている意味があるようです。
祟るか祟らないかはともかく、要は、それだけ強いパワー(霊力、もの、魂)をもった神々です。
最後に少し謎解きをしておきます。
大神神社の拝殿の裏には、めずらしい三ツ鳥居があります。
これをとおして、三輪山を拝むカタチになっているわけです。
それは三輪山だけではなく、実は「天照大御神」を祀る伊勢神宮をも、遥拝するかたちになっているようです。
三ツ鳥居をとおして、やや左前に「三輪山」山頂があり、正面から少しばかり右にズレた延長線上に「伊勢神宮」が位置しているためです。
三ツ鳥居は「三輪鳥居」ともいい、三角形に配された三柱鳥居とは異なり、摂社の元伊勢「檜原神社」(ひばら じんじゃ、ご祭神:天照大神若御魂神)にもあります。
なぜ三ツ鳥居なのかは、「古来、神秘なり」としてわからないとされます。
それは、わからないのではなく、明かせない、もしくは明かしたくないからではないでしょうか。
単純に考えれば、鳥居は、そこに坐します神を祀る結界(神域への入口)を意味します。
なので1つの神社に一ツでよく、それが三ツ鳥居であれば、1柱ではなく3柱の神を同時に祀っていることになります。
なので、三輪山には3柱の神が混在していると考えられます。
それが、どなたかまでは断言はいたしませんが、伊勢の元祖「天照大御神」もその1柱です。
理由は、大神神社の摂社で約1キロメートルほど北にある「檜原神社」をみてもそういえるためです。
檜原神社は、天照大神を宮中から追い出したとき、最初に外で祀った大和の笠縫邑の地であると伝えられています。
また実際にも、伊勢の式年遷宮の古材をもって、檜原神社の三ツ鳥居は建て替えられています。
そういった三ツ鳥居のある檜原神社から三輪山を望むと、山頂と一直線ではありませんが、ほぼ同じ方向に伊勢神宮を遥拝することができます。
それもそのはずで、倭姫命世記(やまとひめの みこと せいき)によると、一時期、天照を「弥和乃御室嶺上宮」(みわの みむろのみねの うえのみや)に奉祀したとされます。
それが三輪山(御諸山)山頂で、高宮神社だともいわれているためです。
三輪と伊勢、実は同一神の可能性があります。
さらには、作者不詳の「三輪」と題された能の終わりの部分に、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくらや」と歌われていることも、それを示唆しています。
大神神社と狭井神社の間に「少彦名命」(すくなひこなのみこと)を祀る「磐座神社」があります。
少彦名命とともに国づくりをした大物主大神は、元祖「天照大御神」と同体もしくは近い関係です。
要は、本来は「倭大国魂大神」を祀る「大和神社」の別宮だった「狭井神社」が、三輪山をご神体として拝する神社だったのですが、『日本書紀』は大神神社を古い由緒にして、最初に国づくりをした「大物主大神」すなわち「倭大国魂大神」をふくめ、現在「天照大神」と呼ばれる1柱、元祖「天照大御神」を、3柱同体の神として祀るようになったと考えられます。
そういったことから、大神神社は、三輪山山頂を正しく向いて参拝するようになってはおらず、「三ツ鳥居」をとおして、伊勢神宮への遥拝をふくめて統合的に参拝するカタチになっているといえます。
One-Point ◆ 大神神社のご祭神は「大物主大神」、配祀は「大已貴神」と「少彦名神」。いずれも古代大和の国づくりを行なった神々です。上述したように少彦名神は、狭井神社に行く途中の「磐座神社」に祀られています。主祭神のほかに神々を祀るのは一般の神社も同様です。だからといって一般の神社は、三ツ鳥居になっていません。結局、『日本書紀』編纂者は、元祖「国づくりの神」にかかわる奈辺の真実を、あの手この手で隠したうえで、うまく参拝して崇めることによって、御魂を鎮めるかたちにしています。
その12:古代オリエントの“海人族” ← BACK
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