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連載 “逆説”の邪馬台国-その14
書紀編3:神武東征の“モデル”
− 『日本書紀』の中の“邪馬台国” −

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「神武東征」には、いくつかの“モデル”があります。
紀元前7世紀頃もそうですが、紀元前1世紀頃もそうです。
ですが、最もリアリティーがあるのは、3世紀末の「東征」です。

「北部九州連合」は台与(神功皇后)を旗頭に3世紀末に“東征”した

↑ 武内宿禰と応神天皇(誉田別皇子)

●第1稿 : 2020年11月 4日アップ




おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

ブログに連載した「“逆説”の邪馬台国-書紀編3」の大幅リライトです。
当サイトでは、「逆順」にお送りしていますので、これ以前の内容は、後日の掲載になります。
つまり、「書紀編1」と「書紀編2」を前提にした当「書紀編3」の内容になっています。

《 『日本書紀』の仕組み 》

今回は、神武東征の“モデル”となった「その後の邪馬台国」をお届けいたします。

『日本書紀』によれば、紀元前7世紀に初代「神武天皇」が東征し、国譲りを受けて、ご即位と大和建国をしたことになっています。

たしかに、紀元前7世紀前後に新たな動きが「日本」に起きたことは否めません。

ですが、実際の神武東征の“モデル”となった出来事は、畿内に起きた考古学的な変化からも、また『日本書紀』に秘められた記述からも、3世紀末に九州「倭国」からの「大和東征」があったことは明らかです。

だからといって、古来からの「万世一系」を否定しているわけではありません。

なぜなら、3世紀の「倭国」を記した「魏志倭人伝」には、「世々王あり」と記されるように、それ以前から「王統」は継続していたからです。

『日本書紀』は、古代九州の王統をふくめて「万世一系」の“皇統”として記しています。

二重構造なので複雑なのですが、神武東征以降の「統一大和」一国史として記された『日本書紀』に秘められた九州「倭国」を知ることが、「邪馬台国」の秘密を見抜くにあたって重要です。

One-Point ◆ 7世紀の「天武天皇」は、「二度と皇位争いは起こさない」と誓い、千年後も残るように『日本書紀』の編纂を命じました。そこには、国産みの当初からの「統一大和」(1数)と「万世一系」(2数)と「臣民一体」(3数)の日本を「編纂方針」とし、古代九州の歴史を「統一大和」(本州畿内国)の礎として描いています。




●初めて国を創った天皇

『日本書紀』には「初めて国を創った天皇」が2人記されていることは有名です。
ウソの歴史書なら1人にするのですが、そうはなっていません。
『日本書紀』の律儀で良心的なところで、書けないこともあるなか、なるべく史実を記そうと、いろいろと表現に工夫をしています。
最初に国を創ったのは、右の本文にも書いたとおり、天孫族の「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)こと「崇神天皇」です。
“崇神天皇”は、「神代」では大已貴神(大国主神)に相当し、「神武天皇紀」の饒速日命(にぎはやひのみこと:物部氏)に相当します。
では、初代「神武天皇」は、どのように記されているのでしょうか。

◆『日本書紀』から抜粋
《原文》
故古語稱之曰「(略)而始馭天下之天皇 號曰神日本磐余彦火々出見天皇焉」

《現代文》
ゆえに古語にもこれを称していう、「(略)始めて天下を治められた天皇と申し、号して神日本磐余彦火火出見尊天皇」という。

つまり、神武天皇は、「古語にいわれる“始馭天下之天皇”(始めて天下を治められた天皇)という」と断定して記しながらも、『日本書紀』は仄聞(そくぶん)の体をとっています。
ありていにいえば、「そういうウワサだよ」という書き方で、実在かどうかボカした表現です。

《 三段階の“初代”天皇 》

『日本書紀』の「統一大和史観」を信じ込むと、史実が見えなくなります。

古代から「大和一国」しかなかったと思い込み、「邪馬台国」と同一視することになるために、3世紀頃の古代遺跡が出ると、“邪馬台国だ”と信じ込んでしまうことが起こるのです。

そうではなく、日本各地には「邪馬台国」以前から多くの国邑(こくゆう)がありました。

『日本書紀』は、それらを当初からの「統一大和」として描いたために、「魏志倭人伝」に記される「邪馬台国」(九州倭国)は「正史」に残すことができませんでした。

ただし、『日本書紀』の律儀なところは、それでも、史実をなるべく残そうとしているところです。

微妙な本文の言い回しを読めば、書けなかった史実がわかるように記述されている箇所が複数あります。

たとえば、“神武東征”を紀元前7世紀頃として描いたのも、その前後に“黒船来航”のような“開国”につながる事実があったからです。

また、「神代」(上下)や「神武天皇紀」には、国譲りが記されていますが、それはすでに国があったことを意味します。

「神代」に記されているのは、「大已貴神」(おおあなむちのかみ=大国主命)による国造りです。

一方、「神武天皇紀」には、すでに「饒速日命」(にぎはやひのみこと)による国造りがなされていて、それを譲り受けたことになります。

さらに、その後の第10代「崇神天皇紀」においても、「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と記され、初めて国を創った天皇として紹介されています。

では、「神武天皇」は、どのように記されているのでしょうか。

左欄に原文を掲載しましたが、「古語にいう“始めて天下を治められた天皇”と申し」というように、間接的な表現になっています。

これは、読む人が読めば、“事実”ではないと「史実」がわかるように記されている一例です。

すなわち、史実は、“崇神天皇”(第10代)とされる人物が、最初に国造りを行ないました。

その後、3世紀のこととして記される第15代「応神天皇」(神功皇后+武内宿禰)の御世において、実際の「大和東征」(“大和帰還”)と国譲りが行なわれたことがわかります。

ちなみに、宝瓶宮占星学による「星のディレクション」(運勢変化、時代変化)からみても、東征は「283年」前後に行なわれていたことがわかります。

One-Point ◆ 上述のように、『日本書紀』は、“二重構造”また“三重構造”をとっています。一つの史実を人物名やシチューションを少し変えて、“別の時代”の出来事かのように繰り返している部分があるのです。実際の「大和東征」は、鉄器文化(鉄製武器)が全国に先駆けて「北部九州」で普及したことによって行なわれています。




《 「高天原」は古代「九州」 》

「神代」(下)の最初に、皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)の娘が生んだ「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が登場します。

高皇産霊尊は、「葦原中国」(あしはらなかつくに)の君主にしようと、瓊瓊杵尊を「日向の襲の高千穂の峯」に天孫降臨させ、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに)を与えています。

その地は「神武天皇」が東征に出発した地で、「筑紫の日向」と記されています。

筑紫を「九州」ととるか「福岡」(北部九州)ととるかで異なりますが、「豊葦原瑞穂国」である以上、台与のいた北部九州でしかありえません。

なぜなら、まず「日向」の地名が南九州に移されたのは、7世紀のことだからです。

次に、“神武東征”のモデルとなったのは、3世紀の「台与」こと「神功皇后」(じんぐうこうごう)やその子「誉田別皇子」(ほむたわけのみこ=応神天皇)また「武内宿禰」(たけのうちのすくね)だからです。

学術的な年代はともかく、『日本書紀』が「3世紀」の出来事として「神功皇后」や“大和帰還”(実質の「大和東征」)を描いていることが重要です。

つまり、『日本書紀』が正史に記すことができなかった「邪馬台国」や「台与」は、「神功皇后」として描かれています。

神武東征の出発地「豊葦原瑞穂国」は、その名のとおり「台与」(とよ)を女王にすえた北部九州連合「倭国」を象わします。

結局、「神武東征」前の「神代」(上下)に、「高天原」(たかまがはら、たかあまのはら)として描かれているのは、「北部九州」を舞台にした古代九州史だったことがみえてきます。

One-Point ◆ 「高天原」という名称は、“高皇産霊尊”と“天照大神”の頭文字をつないで命名したものです。「高皇産霊尊」は、別名“高木神”とも呼ばれ、北部九州(筑紫平野)にいた人物です。一方、「天照大神」は、古代九州から本州に渡った男神「天照国照彦」(あまてる くにてるひこ)ですが、一部に卑弥呼などを含み、『日本書紀』では複数の国々のいわば“先祖神”の集合体となり、統一日本の“象徴”として記されています。




●“仲哀天皇”と「台与」

「台与」は、13歳で2代目女王に推戴されました。
ここまでは「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に記されています。
これ以降は、『日本書紀』の3世紀の記述によります。
3世紀の「仲哀天皇」は、突然、息絶えます。
逆に“気長足姫尊”(おきながたらしひめのみこと)こと「神功皇后」は、“仲哀天皇”の皇子を身ごもったまま、新羅征伐に向かい、帰国後「応神天皇」(誉田別皇子)をお産みになられます。
これは、13歳の「台与」が「魏志倭人伝」後に大人になったときの記録で、当時、「邪馬台国」を“都”とした「北部九州連合」を治めていたのは、『日本書紀』に“仲哀天皇”と記される人物ということになります。
その“仲哀王”も殺され、新たに実権を握ったのが、神功皇后「台与」のそばにいた“武内宿禰”です。
この“仲哀王”と“武内宿禰”のいずれを「伊都国王」とし、また「狗奴国王」(卑弥弓呼:ひみここ)とするのかで、歴史の解釈は異なってきます。
いずれにしても、『日本書紀』は「応神天皇」を仲哀天皇の皇子として描き、“万世一系”を整えています。

《 「山幸彦」と「海幸彦」 》

『日本書紀』(神代)には、初代「神武天皇」の祖父にあたる“山幸彦”と“海幸彦”のエピソードが記されています。

兄の海幸彦は、海の幸をえる力をそなえ、弟の山幸彦は、山の幸をえる力をそなえていました。

両者は、古代日本における「海人族」と「大山族」を象徴しています。

それは「魏志倭人伝」でいうところの伊都国(いとこく)や奴国(なこく)また不弥国(ふみこく)といった玄界灘に面した「海人族」(あまぞく)の国と、内陸の「邪馬台国」をはじめとした古来の「大山族」になぞらえて記されたものでもあります。

海幸彦と山幸彦は、「ためしにお互いの“幸”を取りかえてみよう」としたことから、兄に借りた釣針を失くした山幸彦とのあいだにいさかいが起こります。

結果は、海神(わたつみ)の助けをえた「山幸彦」が勝利し、「海幸彦」は降伏して仕えることになったお話です。

「山幸彦」は、助けてくれた海神の娘「豊玉姫」(台与)との婚姻によって「彦波瀲武鵜草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがやふきあえずの みこと)を生みます。

「彦波瀲武鵜草葺不合尊」は「玉依姫」(豊玉姫の妹)とのあいだに、四男として神武天皇をお生みになります。

一方、「神功皇后」(台与)は、仲哀天皇とのあいだに「筑紫の宇瀰」(宇美)で四男として「応神天皇」(誉田別皇子:ほむたわけのみこ)をお生みになります。

この誉田別皇子を抱えて、「武内宿禰」(たけのうちのすくね)の主導によって大和帰還こと「大和東征」を果たします。

これが「神武東征」の実在の“モデル”となった出来事です。

前者は「神代」(下)の最後に記され、後者は「神功皇后紀」に記されています。

One-Point ◆ 「金印」(漢委奴国王)が発見された志賀島には、全国の綿津見神社(わたつみじんじゃ)や海神社の総本宮「志賀海神社」(しかうみじんじゃ)があります。志賀島につうじる半島の根元には仲哀天皇と神功皇后ゆかりの「香椎神宮」があります。奈辺は「海人族」がかつて拠点としていた場所で、「魏志倭人伝」でいう“不弥国”(ふみこく)にあたります。




《 その後の邪馬台国 》

最後に「魏志倭人伝」後の「邪馬台国」を書いておきます。

歴史家は、邪馬台国以後を“空白の150年”などと“うそぶき”ます。

「邪馬台国」(3世紀後半)から、「倭の五王」(5世紀)まで、日本に関する記録が支那の歴史書に出てこないので“空白”と呼びますが、それは支那の歴史書のお話で、日本の正史『日本書紀』にはちゃんと記されています。

「マルクス史観」(共産主義史観)の歴史学者が、『日本書紀』をまともに研究もしないで“空白”と語っているだけで、自らの研究不足を露呈しています。

歴史は連続していますので、支那の歴史書や『日本書紀』また実際のデータをみれば答えは明白です。

2世紀以降、全国に先駆けて北部九州に鉄器(鉄製武器)が普及しました。

その影響は、卑弥呼を共立するに至った「倭国の乱」(倭国大乱)を生み、その後の“邪馬台国”2代目女王「台与」らによる「大和東征」につながり、さらには4世紀の倭国による「半島進出」につながっていきます。

「魏志倭人伝」に記されるように、半島南端部に領土を持っていた「倭国」は、4世紀になると高句麗(北朝鮮)に迫る勢いで半島各国を平らげていきます。

それが『宋書』に、倭王「珍」が宋の高祖文帝に「都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」に任命するよう申し出た記録です。

ちなみに、秦韓は「辰韓」で、慕韓は「馬韓」のことです。

一方、「大和東征」を果たした“応神天皇”や“武内宿禰”らは、日本海側などにも勢力圏を広げていきます。

お話を戻して半島に進出した「倭国」は、6世紀初頭の「継体天皇」の失政によって半島の領土を完全に失います。

しかし、6世紀末、隋の時代に、九州「倭国」の「阿毎多利思比孤」(あめのたりしひこ)大王が、3世紀末に東征した“弟”すなわち「日本国」(畿内国)に“政務を譲る”かたちで吸収合併をして、支那の冊封下から離れます。

結果、7世紀初頭に「独立統一国家 大和」(日本)が誕生しています。

One-Point ◆ それを知っていた7世紀の「天武天皇」(てんむてんのう)は、『日本書紀』の編纂を命じました。もはや「邪馬台国」や「九州倭国」を記す必要はなく、「統一大和」の歴史として記したのです。実際的にも「邪馬台国」は「台与」を旗頭とした「大和東征」をもって事実上、消滅します。その畿内国(のちの日本国)を“ヤマト”と呼んでもいいのですが、実際の「統一大和」は、九州「倭国」と本州「日本国」とが合併した7世紀初頭からです。




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