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連載 邪馬台国は「馬臺」-その14
書紀編3:神武東征の“モデル”
− 『日本書紀』の中の“邪馬台国” −

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北部九州連合「倭国」は半島や本州日本(畿内ヤマト)に進出した

↑ 武内宿禰と応神天皇(誉田別皇子)

●第1稿 : 2020年11月 4日アップ

●改訂稿 : 2025年 5月31日アップ


かつてブログに連載した「“逆説”の邪馬台国-書紀編3」の大幅リライトです。

当サイトでは、「逆順」にお送りしています。

「書紀編1:『日本書紀』の中の“邪馬台国”」と「書紀編2:倭国と日本国の吸収合併」を前提にした当「書紀編3:神武東征の“モデル”」です。

なお、解明のベースは創作も多いのですが、いくぶんの史実に基づいて記されている『日本書紀』を活用せざるをえません。

つまり、ほかに記録がない古代ゆえ『日本書紀』の記述をベースに、分かっている史実と照合しながらどこまで解明できるのかというお話です。

《 『日本書紀』の仕組み 》

今回は、神武東征の“モデル”ともなった「その後の邪馬台国」(隠された九州倭国の東征)の考察です。

実際は6世紀末から7世紀初頭に九州「倭国」と畿内「ヤマト」の合併によって後日、統一大和が誕生しています。

それ以前に九州倭国からの進出(東征)があったことが、支那の倭国伝の考察や『日本書紀』から分かります。

そんなこと『日本書紀』には書けませんので、できるだけ史実を残したい日本書紀編纂者らは、紀元前7世紀に初代「神武天皇」が九州から東征し「大和」を建国したことにしました。

その“モデル”となった出来事を『日本書紀』の記述からみると、3世紀末に九州から「神功皇后」と赤児の「応神天皇」そして「武内宿禰」の“大和帰還”が挙げられます。

『日本書紀』の二重三重の歴史記述からもそういえます。

One-Point ◆ 『日本書紀』は国産みにはじまる「神代編」、神武東征に始まる「人代編」、崇神や応神天皇など実在の大王(おおきみ)などによる記述を、時代や状況を変えて繰り返して記述し、統一大和史としています。「はつくにしらす すめらみこと」が二人記されるのもそれゆえです。



●初めて国を創った天皇

『日本書紀』には「初めて国を創った天皇」が2人記されていることは有名です。

ウソの歴史書なら1人にするのですが、そうはなっていません。

『日本書紀』の律儀で良心的なところは、書けないこともある中、なるべく史実を記そうと工夫をしていることです。

最初に国を創ったのは「御肇国天皇」(はつくにしらす すめらみこと)の「崇神天皇」です。

“崇神天皇”は「神代」では大已貴神(大国主神)に相当し、「神武天皇紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと:物部氏)に相当します。

神話上は、初代「神武天皇」が創作されています。

◆『日本書紀』から抜粋
《原文》
故古語稱之曰「(略)而始馭天下之天皇 號曰神日本磐余彦火々出見天皇焉」

《現代文》
ゆえに古語にもこれを称していう、「(略)始めて天下を治められた天皇と申し、号して神日本磐余彦火火出見尊天皇」という。

「古語にいわれる“始馭天下之天皇”(始めて天下を治められた天皇)という」と記しながらも、『日本書紀』は仄聞(そくぶん)の体をとっています。

「そういうお話だよ」という実在かどうかボカした書き方です。

《 三段階の“初代”天皇 》

『日本書紀』の「統一大和史観」を信じ込むと史実が見えなくなります。

古代から「大和一国」で万世一系の「天皇」だったと思い込むと、「邪馬台国」は大和や阿波だったと信じ込んでしまいます。

実際には、有名なところだけでも国邑(こくゆう)が日本各地にありました。

ただし、『日本書紀』は、当初からの「統一大和」と万世一系の「天皇」を描く責務を担っていたため、九州「倭国」や「丹波国」(たには)また「阿波国」などの史実を記すことができずスルーせざるをえませんでした。

それでも『日本書紀』の律儀なところは、史実のヒントを残そうとしていたことです。

ちなみに、宝瓶星学の「ディレクション」(運勢変化、時代変化)から申し上げますと、『日本書紀』でいう神武東征のモデルとなった出来事が実際に行なわれたとすれば、「283年」前後になります。

One-Point ◆ 『日本書紀』は、一つの史実を人物名やシチューションを変えて“別の時代”の出来事として繰り返し記載している箇所があります。そこからみると、鉄器文化(武器)が北部九州で普及したことで倭国大乱が起き、卑弥呼が共立されて治まります。また“東征”や“三韓進出”が鉄製武器によって可能になった時代です。



●応神天皇が主祭神のはずなのに、中央で祀られる「比売大神」の正体。神功皇后よりも偉い人です。



《 「高天原」は古代九州のたとえ 》

『日本書紀』「神代-下巻」の最初に、皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひの みこと)の娘が生んだ「瓊瓊杵尊」(ににぎの みこと)が登場します。

高皇産霊尊は、「葦原中国」(あしはらの なかつくに:日本)の君主にしようと、瓊瓊杵尊を「日向の襲の高千穂の峯」に天孫降臨させ、「豊葦原瑞穂国」(とよ あしはらの みずほのくに:豊国)を与えます。

その地は「神武天皇」が東征に出発した地とされ「筑紫の日向」と記されています。

筑紫(竺紫)は現在の「福岡」に相当し、竺紫の島といえば九州のことです。

北部九州にあった「日向」の地名が、これはマズイとばかりに南九州の宮崎に移されたのは7世紀頃のことです。

このことが分かれば、神話の神武東征の出発地「筑紫の日向」は、実際には北部九州であることが分かります。

神話「天孫降臨」の地も同様で、九州倭国が実在したことは統一大和史観の『日本書紀』には書けませんので、「高天原」神話として描いています。

One-Point ◆ 「高天原」という名称は、“高皇産霊尊”と“天照大神”の頭文字をつないで命名したものでしょう。「高皇産霊尊」は、別名“高木神”とも呼ばれ、北部九州(筑紫平野)にいた人物です。一方、「天照大神」は古代九州から本州に渡った男神「天照国照彦」(あまてる くにてる ひこ)が原点ですが、『日本書紀』では第41代「持統天皇」になぞらえた、統一大和の“統合女神”に変えられます。




●“仲哀天皇”と「台与」

「台与」は、13歳で2代目女王に推戴されました。

一方、『日本書紀』によると3世紀の「仲哀天皇」は、突然、息絶えます。

后“気長足姫尊”(おきながたらしひめのみこと)こと「神功皇后」は、“仲哀天皇”の皇子を身ごもったまま、新羅征伐に向かい、帰国後「応神天皇」(誉田別皇子)をお産みになられたと記されています。

両記述を無理矢理重ね合わせると、卑弥呼が亡くなったあと倭国を収めた男王が「仲哀天皇」で、国が治まらず13歳の「台与」が女王に推戴されて大人になった記述が「神功皇后」として『日本書紀』に記されたといえます。

このとき台与を擁立して実権を握ったのが「武内宿禰」になります。

いずれにしても『日本書紀』は「応神天皇」を仲哀天皇の皇子として描き万世一系を整えています。

《 「山幸彦」と「海幸彦」 》

『日本書紀』(神代)には、初代「神武天皇」の祖父にあたる“山幸彦”と“海幸彦”のエピソードが記されています。

兄の海幸彦は、海の幸を得る力をそなえ、弟の山幸彦は、山の幸を得る力をそなえていました。

両者は、古代日本における「海人族」と「大山族」を象徴しています。

それは「魏志倭人伝」でいうところの伊都国(いとこく)や奴国(なこく)また不弥国(ふみこく)といった玄界灘に面した「海人族」(あまぞく)の国と、内陸の「邪馬台国」をはじめとした古来の「大山族」になぞらえた神話となっています。

海幸彦と山幸彦は、「ためしにお互いの“幸”を取りかえてみよう」としたことから、兄に借りた釣針を失くした山幸彦とのあいだに諍いが起こります。

結果は、海神(わたつみ)の助けをえた「山幸彦」が勝利し、「海幸彦」は降伏して仕えることになったというお話です。

「山幸彦」は、助けてくれた海神の娘「豊玉姫」(トヨタマヒメ:とよの たま ひめ)との婚姻によって「彦波瀲武鵜草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがやふきあえずの みこと)を生みます。

「彦波瀲武鵜草葺不合尊」は豊玉姫の妹の「玉依姫」(タマヨリヒメ)とのあいだに、四男として神武天皇をお生みになります。

一方、「神功皇后」は、仲哀天皇とのあいだに「筑紫の宇瀰」(宇美)で四男として「応神天皇」(誉田別皇子:ほむたわけのみこ)をお生みになります。

この誉田別皇子を抱えて、「武内宿禰」(たけのうちのすくね)の主導によって大和帰還こと「大和東征」を果たします。

これが『日本書紀』に見られる「神武東征」の実在の“モデル”となった出来事です。

前者は「神代-下巻」の最後に記され、後者は「神功皇后紀」に記されています。

One-Point ◆ 「金印」(漢委奴国王)が発見された志賀島には、全国の綿津見神社(わたつみ じんじゃ)や海神社の総本宮「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ)があります。志賀島に通じる半島の根元には仲哀天皇と神功皇后ゆかりの「香椎神宮」があります。奈辺は「海人族」がかつて拠点としていた場所で、「魏志倭人伝」でいう“不弥国”(ふみこく)にあたります。




《 その後の邪馬台国 》

最後に「魏志倭人伝」後の「邪馬台国」を書いておきます。

歴史家は、邪馬台国以後を“空白の150年”などと“うそぶき”ます。

その意味は、支那の歴史書にこの間の日本の出来事が記されていないからです。

この一事をみても、左巻きが席巻していた日本の歴史学界に「あなた何人?」と問いかけできそうです。

「魏志倭人伝」に記される3世紀後半までの邪馬台国から、「宋書」に出てくる5世紀の倭の五王まで、日本に関する記録が支那の歴史書に出てこないので“空白の150年”だそうです。

歴史は連続していますので、考古学など実際のデータを、誤った歴史観をベースとせずにみれば明らかにできます。

ちなみに、2世紀以降、全国に先駆けて北部九州に鉄器(鉄製武器)が普及し、九州北部での「倭国大乱」と卑弥呼の共立による終息、そして卑弥呼後の畿内進出につながっていきます。

一方、半島南端部に領土を持っていた九州倭国は、4世紀に高句麗(北朝鮮)に迫る勢いで半島を平らげていきます。

これが“神功皇后の三韓征伐”として創作脚色されて『日本書紀』に描かれています。

それゆえ、倭王「珍」らは宋の高祖文帝に「都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」に任命するよう申し出ます。

秦韓は「辰韓」のことで、慕韓は「馬韓」のことです。

ただし、6世紀初頭に「継体天皇」の失政によって、半島の領土を完全に失います。

One-Point ◆ “継体天皇”ってだれやねん? と思います。当然、九州倭国王がモデルです。なので『日本書紀』は九州北部の宇美でお生まれになられた応神天皇の子孫だと記しています。その九州「倭国」と本州「日本」(畿内国ヤマト)が合併したのが6世紀末-7世紀初頭です。




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