宝瓶星学 ―宝瓶宮時代の新しいアストロロジー―
↑ 聖徳太子≒“蘇我馬子”の業績
●第1稿 : 2020年11月12日アップ
●改訂稿 : 2025年 6月 1日アップ
逆順にお届けしている連載「邪馬台国は馬臺」の中で、「書紀編2『日本書紀』の中の“邪馬台国”」です。
先に「書紀編3」でお届けいたしましたように「神武東征」の実際の“モデル”は『日本書紀』の中では、神功皇后と応神天皇の“大和帰還”として記されます。
3世紀末のお話でした。
今回は『日本書紀』に秘められたその理由です。
『日本書紀』は、史実としての“大和東征”を書くことはありません。
ですが、できるだけ史実を残そうとした律儀なところのある『日本書紀』は、ウソかマコトか神功皇后の“大和帰還”として記しています。
かつての『日本書紀』では神功皇后は「天皇」とされていたようですが、明治以降の皇国史観によって取り消され、「神功皇后紀」が残るのみになっています。
『日本書紀』をよく読むと、実質は九州倭国王「武内宿禰」(たけのうちのすくね)による“大和東征”で、「武」と記されるのは鉄製武器がいち早く普及した九州を象わすことが多く、その「宿禰」(すくね)なので“九州倭国王”を意味します。
もちろん『日本書紀』の編纂方針によって、倭国王のみならず九州倭国の実在さえ記すことができませんので、編纂者は「武」(九州)の「内」の「宿禰」(主=王)と小ジャレたネーミングをしたわけです。
One-Point ◆ 『日本書紀』は、“大和”以外の九州倭国も倭の女王「卑弥呼」も「邪馬台国」も記載できまません。もし、邪馬台国が畿内であれば『日本書紀』に堂々とに記載されていたはずです。この一事をみても、邪馬台国畿内説はありえません。混乱している原因は「統一大和史観」を妄信しながらも『日本書紀』を理解していない一部学者のアホさ加減です。(失礼!)
ご参考に『日本書紀』の編纂方針をご紹介いたします。
1、「万世一系」の皇統を記し、天皇統治の正統性を確立する。
2、初代「神武天皇」による建国からの独立統一国家「大和」一国史として記す。
3、地方豪族など大和民族を「天皇」に連なる「臣民一体」として記す。
4、それ以外はできるだけ史実に沿って記す。
番号は優先順位です。
「万世一系」の“皇統”が最優先で、史実を無視して初代「神武天皇」の当初から大和一国史として国家統一してきたかのように“方便”で記しています。
もちろん、風雲急を告げる当時の東アジア情勢の中、天智大王による無謀な白村江の戦いに壊滅的な大敗北を喫したため、天武天皇は早急に国内をまとめて海外に備えなければならなかった7世紀の事情がありました。
地方の豪族や王たちもそのことを理解したため「和をもって貴し」とばかりに、自国の存在がスルーされた『日本書紀』を受け入れた賢い背景があります。
One-Point ◆ かつて連載した「占星学から解く日本の原点」の「その2:『日本書紀』の3大編集方針」に記載したとおりです。その点では、一見ワンマンに見える「皇親政治」など、強いリーダーシップを発揮した第40代「天武天皇」によって、今日の日本が築かれています。
実際の万世一系は、第42代「文武天皇」から定着しています。
文武天皇の「和風諡号」(わふう しごう)は、『続日本紀』のなかに2つ記されています。
1つめは、「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)と申し上げます。
2つめは、「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)です。
24歳で崩御されたにもかかわらず“祖父”(おほぢ)と号されています。
前者は、“根子”とまで号されていて、万世一系の“原点”として位置づけられています。
さらに申し上げますと、前者の「倭」(やまと)は九州「倭国」の流れをくむことを意味します。
また、後者の「天」(あめ)も、九州倭国王だった「阿毎字多利思北孤」(あめの たりしひこ)の流れをくむ天皇であることを表わしているといえます。
万世一系が名実ともに確立したのは、第41代持統天皇の尽力により、孫の第42代「文武天皇」へのご譲位によってです。
14歳で即位し、24歳で崩御された「文武天皇」にもかかわらず、和風諡号(わふう しごう)が「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよ おほぢの すめらみこと)と呼ばれています。
珂瑠皇子(かるの みこ)こと「文武天皇」は夭折された草壁皇子の嫡子で、第40代「天武天皇」と第41代「持統天皇」の孫にあたります。
文武天皇が崩御された13年後の720年に完成した『日本書紀』は、文武天皇のご即位の正統性を示すもので、事実上の「万世一系」のはじまりとなっています。
それゆえ『日本書紀』は、持統天皇のご譲位と「文武天皇」のご即位で終わっています。
One-Point ◆ 文武天皇の「和風諡号」、「倭」(やまと)の「根子」(ねっこ)たる「豊」(とよ:北部九州の豊国)の「祖父」(おほぢ:そ)の「天皇」(すめらみこと)。祖父の天武天皇の祖は、豊後の海人族の祖だったということもあるでしょう。
たぶん、賛否はあると存じますが「統一大和」にいたる九州倭国と畿内ヤマトの合併の概略をご紹介いたします。
九州「倭国」は、自ら吸収合併されるカタチで畿内「日本国」(ヤマト)に遷します。
当時の東アジア情勢を鑑みてのことで、もう一つは支那の冊封から離れるためです。
6世紀末から7世紀初頭のことで、その立役者が九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめの たりしひこ)大王(おおきみ)です。
合併後、第2次遣隋使を送り、『隋書』に記される「日出処の天子」と称し大倭(おおやまと)の独立を宣言したその人です。
推古女帝? 聖徳太子? バカ言ってんじゃありませんよ、日本書紀史観は美しいのですが、史実は別です。
「隋」の高祖文帝に開皇20年(600年)に「日出ずれば政務を弟に委ねん」と述べて冊封下から離れる旨、仁義を切っています。
左巻きの歴史学者は、これを“日本は道理も分からず遅れていた”とバカな解釈をして貶めますが、そのときの文帝の言葉は「はなはだ義理なし」です。
“道理がない”と訳すのは曲解で、これまで冊封下にあってさんざんお世話になっておきながら朕の世で離れるとは「義理がない」ではないかと述べたのです。
One-Point ◆ 最も古い神社の一つ「大已貴神社」(おんがさま)は、福岡県の朝倉市に隣接する三輪町にあります。この神社は、東征後、大和の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわじんじゃ、おんがさま)と習合しています。三輪山の隣に「大和朝倉」の地名があるのも、「大已貴神社」と「朝倉市」の位置関係と同じです。事実、「大已貴神社」(おんがさま)は、かつて「大神神社」(おおみわじんじゃ)と呼ばれていたといいます。
「神武東征」の“モデル”となった3世紀末以前の歴史は、『日本書紀』には「神代」(上下)として記されていることが分かります。
つまり、「神代-下巻」の記述は3世紀末の“大和帰還”として記される「東征」に出発するまでの「古代九州」の歴史を神話化したものになっています。
一方、「神代-上巻」の記述は、神武が“国譲り”を受けるまでの古代「ヤマト」(本州)の国づくりなどを神話化したものになっています。
1、神代(上)
「神々の誕生」と「高天原」の天照大神と素戔嗚尊、さらには「大已貴神」の古代国づくり。
2、神代(下)
大已貴神がつくられた古代国「葦原中国」(あしはらの なかつくに:日本)を天孫族が平定、高天原(九州)から瓊瓊杵尊の「天孫降臨」と、4代後の神武誕生にいたるまでの神話的エピソード。
最初に国づくりを行なった「大已貴神」(おおなむち の かみ)は、古代九州から本州に向かった「天照国照彦」(あまてるくにてるひこ)を先祖神とする物部氏、神話上では「大国主神」(おおくにぬし の かみ)です。
「神代」ではそうですが『日本書紀』は二重構造、三重構造になっているため、「神武天皇紀」では「饒速日命」(にぎはやひの みこと)として記されていて、歴代天皇としては第10代「崇神天皇」=御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)すなわち“初めて国を治めた天皇”として記されています。
このあたりは「史実」をできるだけ残そうとした『日本書紀』の律儀な編纂方針の現われです。
付記しますと、“崇神天皇”にはじまる畿内国≒葦原中国を『日本書紀』では“大和帰還”として記される3世紀末の進出「東征?」によって譲り受けたのが誉田別皇子(ほむたわけのみこ)こと「応神天皇」として『日本書紀』では万世一系に組み込まれて記されています。
One-Point ◆ 8世紀に淡海三船(おうみの みふね)によって定められた「漢風諡号」では、“初代天皇”は「神」(かみ)の字がつけられます。「神武天皇」(1数)、「崇神天皇」(2数)、「神功皇后&応神天皇」(3数)です。武内宿禰に関しては博多湾の元沿岸部に日本第一宮「住吉神社」があり、東征後に難波に住吉総本社「住吉大社」が建てられ、痕跡が認められます。
その14 書紀編3:神武東征の“モデル” ← BACK
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