宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
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『日本書紀』がどうしても記せなかった“史実”があります。
それは、7世紀初頭の九州「倭国」と本州「日本国」の吸収合併です。
なぜなら、最初からの「独立統一大和」として記しているからです。
↑ 聖徳太子≒“蘇我馬子”の業績
●第1稿 : 2020年11月12日アップ
《おことわり》
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。
※なお、本連載は別サイト「」に全15回にわたってアップしたシリーズを、大幅なリライトを交えつつ、逆順にうしろから掲載しています。
「『日本書紀』の中の“邪馬台国”」をお送りする2回めの「書紀編2」です。
先回は、『日本書紀』に描かれる「神武東征」の実際の“モデル”となった「北部九州連合は台与(神功皇后)を旗頭に3世紀末に東征した」をお送りいたしました。
今回は、『日本書紀』に秘められたそれらの理由などをお届けいたします。
『日本書紀』は、史実としての3世紀末の「大和東征」を書くことはできません。
そのため、「神功皇后」の“大和帰還”として記しています。
さらにいえば、神功皇后は、のちに応神天皇となる「誉田別皇子」(ほむたわけのみこ)を抱えていたこともあって、実質は「武内宿禰」(たけのうちのすくね)による「大和東征」でした。
これは、事実としては、3世紀末に「邪馬台国」を都とした「北部九州連合 倭国」が、“神功皇后”こと「台与」を旗頭に、“武内宿禰”こと「新倭国王」による大和東征を意味しています。
なぜそういえるのか、それは『日本書紀』の編纂方針を知ればみえてきます。
この「編纂方針」を正しくご理解しないと、『日本書紀』に秘められた「史実」を読み解くことができません。
『日本書紀』が、記したくても記せなかった「史実」や、逆に、事実を曲げてでも編纂方針に沿って「作文」せざるをえなかった部分を判別できなくなるのです。
一例を挙げますと、その代表例は、実際上の「統一大和」がはじまる7世紀初頭以前の、九州「倭国」の存在を記すことができなかったことです。
さらに、その前身となる3世紀の倭の女王「卑弥呼」やその都「邪馬台国」もまた「北部九州連合」(女王国連合)も記せませんでした。
理由は、「邪馬台国」や九州「倭国」が、7世紀初頭の吸収合併の直前まで、支那の「冊封下」にあったからです。
さらには、『日本書紀』自らが、当初からの「万世一系」と「独立統一国家 大和」を描くという“編纂方針”があったからです。
One-Point ◆ ゆえに、『日本書紀』には「卑弥呼」も「邪馬台国」も九州「倭国」も登場しません。7世紀以降の「独立統一国家 大和」にとって、これらは、好ましいものではなく、むしろ消し去るべき“汚点”だったからです。それでも『日本書紀』は、できるだけ「史実」にそって残そうとしています。
では、『日本書紀』の編纂方針をご紹介いたします。
この内容は、6年ほど前に当「宝瓶宮占星学」サイトに書いたものです。
1、「万世一系」の皇統を記し正統性を残す。
2、初代「神武天皇」による建国からの「独立統一大和」(一国史)として記す。
3、大和民族を天皇に連なる「臣民一体」として記す。
4、できるだけ史実に沿って記す。
番号は優先順位です。
「万世一系」が最優先なので、初代「神武天皇」以来の男系の「皇統」を史実にもとづいて、“工夫”を交えながら記しています。
実際には、“傍系”の人物が一時的に「大王」(おおきみ、天皇)に就くことがあったとしても、結局は、“初代「神武天皇」”に連なる系統や大王(天皇)をメインに、「万世一系」の皇統を記しています。
また、初代「神武天皇」から第10代「崇神天皇」にいたるまでの俗に“欠史9代”といわれる天皇は、歴代天皇に連なる各地の「豪族臣民」が記されています。
そうすることで、天皇のもとにある「臣民一体」の大和民族として、“和”を図ることが可能になるためです。
以上のうえで、できるだけ「史実」にそって残そうとしたのが『日本書紀』です。
One-Point ◆ 詳しくは、「連載 占星学から解く日本の原点 その2:『日本書紀』の3大編集方針」をご参照ください。当時の「星のディレクション」や時代状況もそうですが、具体的には“異父兄”の「中大兄」(のちの天智天皇)が起こした「白村江の戦い」の敗北と、その皇子「大友皇子」(追諡:弘文天皇)との「壬申の乱」にかかわって、二度と皇位争いを起こさないと誓った「天武天皇」の命によって編纂が紆余曲折をともないつつはじまっています。
万世一系は、第42代「文武天皇」から確実に定着していきます。
文武天皇の「和風諡号」(わふう しごう)は、『続日本紀』のなかに2つ記されています。
1つめは、「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)と申し上げます。
2つめは、「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)です。
24歳で崩御されたにもかかわらず、“祖父”(おほぢ)と号されています。
前者は、“根子”とまで号されていて、間違いなく万世一系の“原点”として位置づけられていたことがわかります。
さらに申し上げますと、前者の「倭」(やまと)は九州「倭国」の流れをくむことを意味します。
また、後者の「天」(あめ)も、九州倭国王だった「阿毎字多利思北孤」(あめのたりしひこ)の流れをくむ天皇であることをあらわしています。
万世一系が名実ともに確立したのは、第42代「文武天皇」のご即位によってです。
14歳で即位され、24歳で崩御された「文武天皇」の「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)という和風諡号(わふう しごう)をみれば、それがみえてきます。
珂瑠皇子(かるのみこ)こと「文武天皇」は、第40代「天武天皇」とその妃、第41代「持統天皇」の孫にあたります。
文武天皇が崩御された13年後の720年に上奏された『日本書紀』は、「文武天皇ご即位の正統性」と、その後の「万世一系」の皇統を確実に定着させるために記されたといって過言ではありません。
そのため『日本書紀』は、母、持統天皇の譲位による「文武天皇」のご即位でもって終わっています。
以降、天武天皇系と、妃の持統天皇の父の天智天皇系によって、「万世一系」の皇統が引き継がれていきます。
そこにいたる、7世紀初頭に「統一大和」が誕生する以前の皇統は、九州「倭国」の皇統(王統)も統一大和の「万世一系」の大王(天皇)として記されています。
なぜなら、九州「倭国」と本州「日本国」は、吸収合併して「統一大和」となりましたので、九州「倭国」も“統一大和の歴史”として組みこまれて記されているからです。
One-Point ◆ 『日本書紀』上奏後、8世紀中頃に漢字2文字によって定められた「漢風諡号」(かんふうしごう)だとわかりにくいのですが、『日本書紀』自体が記した「和風諡号」をみれば、天皇の系列が案外とみえてきます。「豊」(とよ=台与)字がつくのは九州「倭国」系の天皇で、「鉄製武器」を先駆けてもちいたことから「武」がつく天皇もまた九州「倭国」系が多いといえます。天皇ではありませんが、「武内宿禰」はその代表格です。
『日本書紀』は、古代九州や九州「倭国」の記録を、畿内「日本国」との合併によって、「統一大和」の記録として、そのまま残そうとしています。
そのさい齟齬が生じるのが「地名」です。
できるだけウソを記したくない『日本書紀』は、古代九州の地名と位置のままに、同じ地名を大和(畿内)につくりました。
厳密には、のちの「大和朝廷」がそうしたのかもしれませんし、あるいは朝倉市界隈を中心とした北部九州から東征した一団が、同じ地名を類似の位置関係で、畿内大和に命名したのかもしれません。
いずれにしても、北部九州の地名が、ほぼそのままの名称と方角で、畿内大和に残ることは、北部九州からの“東征”また大規模な“移動”を物語っています。
「統一大和」にいたる吸収合併の歴史的経緯をご紹介します。
九州「倭国」が、自ら畿内「日本国」に吸収されるかたちで合併し「統一大和」(日本)を建国したのは7世紀初頭です。
『隋書』に記される「日出ずる処の天子」のエピソードがそれをあらわしています。
端的にいえば、九州倭国王「阿毎字多利思北孤」(あめのたりしひこ)こと蘇我馬子(そがのうまこ)は、吸収合併の功労者です。
畿内「日本国」というのは、3世紀末に九州「倭国」から「大和東征」を行ない、初代「神武天皇」の“モデル”の一人となった人物が、“国譲り”を受けて「独立」し建国をした“弟国”にあたります。
当然、九州「倭国」は“兄国”にあたるのです。
それゆえ「阿毎字多利思北孤」大王は、開皇20年(600年)に「隋」の高祖文帝に、「日出ずれば政務を弟に委ねん」と述べます。
これは、九州「倭国」を“弟国”の畿内「日本国」に譲り吸収合併して、支那の冊封下から離れると“仁義”(あいさつ)をきったものです。
文帝の答えは、「はなはだ義理なし」でした。
合併後、畿内に移った“阿毎字多利思北孤”大王は、大業3年(607年)に隋の2代目煬帝(ようだい)に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつが無きや」という事実上の「独立宣言書」を送っています。
つまり、文帝に述べた「日出ずれば…」が成ったゆえに「日出ずる処の天子」でもあるのです。
こうして日本は、名実ともの「独立統一国家 大和」を7世紀初頭に築きました。
そのため、7世紀中頃の「天武天皇」によって編纂が命じられ、720年に上奏された『日本書紀』は、吸収合併した九州「倭国」から東征した初代「神武天皇」をふくめた、当初からの「独立統一大和」(一国史)として「万世一系」の皇統が記されるに至ります。
この意味は、結局、「統一大和」の歴史のなかに、「古代九州」や3世紀末の東征後も九州「倭国」に残り、吸収合併される6世紀末までの九州「倭国」の歴史も含めて、一国史として記されていることを意味します。
このいきさつが最重要ポイントなのです。
当然、「万世一系」の皇統も、畿内「日本国」だけでなく、九州「倭国」の王統もまた、「統一大和」の“皇統”として入り混じって記されています。
さらに特筆すべきは、“国譲り”をした3世紀末までの本州「大国主連合」(饒速日命)の王統もまた同じ天孫族のみしるし(天の羽羽矢と歩靫)を持っていたことから、「万世一系」の皇統に組み込まれています。
One-Point ◆ 最も古い神社の一つ「大已貴神社」(おんがさま)は、福岡県の朝倉市に隣接する三輪町にあります。この神社は、東征後、大和の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわじんじゃ、おんがさま)と習合しています。三輪山の隣に「大和朝倉」の地名があるのも、「大已貴神社」と「朝倉市」の位置関係と同じです。事実、「大已貴神社」(おんがさま)は、かつて「大神神社」(おおみわじんじゃ)と呼ばれていたといいます。
以上のことが見えてくれば、3世紀末の「神武東征」の“モデル”となった以前の歴史は、『日本書紀』に「神代」(上下)として記されていることがわかります。
「神代」の記述は、3世紀末に「大和東征」に出発するまでの「古代九州」の歴史を神話化したものです。
つまり、「神代」(下)には「邪馬台国」をはじめ「北部九州連合 倭国」の歴史が象徴的に含まれているということです。
それ以前の「神代」(上)には、神武が“国譲り”を受けるまでの古代「本州」の国づくりも描かれています。
おおむね、次のようにいえます。
1、神代(上)
「神々の誕生」と「高天原」の天照大神と素戔嗚尊、さらには「大已貴神」の古代国づくり。
2、神代(下)
大已貴神がつくられた古代国「葦原中国」(あしはらの なかつくに)を天孫族が平定、高天原から瓊瓊杵尊の「天孫降臨」と、4代後の神武誕生にいたるまでのエピソード。
事実上、最初に国づくりを行なった英雄「大已貴神」(おおあなむちのかみ)は、古代九州から本州に向かった「天照国照彦」(あまてるくにてるひこ)を先祖神とする物部氏で、神話上では「大国主神」(おおくにぬしのかみ)のことです。
「神代」ではそうですが、『日本書紀』は二重構造(三重構造)になっているために、「神武天皇紀」では「饒速日命」(にぎはやひの みこと)として記されており、歴代天皇としては、第10代「崇神天皇」として記されているのです。
それゆえ、崇神天皇は「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)すなわち“初めて国を治めた天皇”と明確に記されています。
このあたりは、できるだけ「史実」を残そうとした『日本書紀』の律儀な編纂方針のあらわれです。
その畿内国を、事実上、の3世紀末の「大和東征」(『日本書紀』では“大和帰還”)によって譲り受けたのが、誉田別皇子(ほむたわけのみこ)こと「応神天皇」として『日本書紀』は描いています。
こちらは編纂方針上、書けない事実があるので仕方がないのですが、“神功皇后”こと「台与」を御輿(みこし=旗頭)に、実際に戦って「大和東征」を果たしたのは、“武内宿禰”こと「北部九州倭国王」だといえます。
One-Point ◆ 8世紀に定められた「漢風諡号」では、“初代天皇”は「神」(かみ)の字がつけられています。「神武天皇」(1数)、「崇神天皇」(2数)、「神功皇后&応神天皇」(3数)です。武内宿禰に関しては、博多湾の元沿岸部に、全国の住吉神社の始祖となる日本第一宮「住吉神社」があり、東征後に難波に総本社「住吉大社」が建てられています。
その14 書紀編3:神武東征の“モデル” ← BACK
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