宝瓶星学 ― 宝瓶宮時代の新しいアストロロジー ―

連載:邪馬台国は「馬臺」-序
本当に邪馬台(壱)国はなかったwww
− 過去のお話はどうでもいいけど… −

古代中国の文献による「邪馬台国」。
それによると四国でも本州でもないことは明白ですが…。
15回ほどのシリーズを逆順にお届けいたします。

魏志倭人伝に記された邪馬壹国(邪馬台国)は「馬臺」

↑太宰府天満宮-現在令和の大改修中

●第1稿 : 2020年10月28日アップ
●改訂稿 : 2025年 5月28日アップ


邪馬台国はどこなのか、いまだに定まっていません。

当然です。

陳寿が記した「邪馬壹国」(邪馬壱国:やまいちこく)などないし、俗に言う邪馬臺国(邪馬台国:やまたいこく)もなかったからです。

そのため、“やまと”“やまだ”などと読んで“山門”や“大和”などに比定すること自体が間違っています。

理由は、陳寿がタネ本にした古代記録には、「馬臺」(またい:馬台)と記されているからです。

《 “邪馬台国”の名称問題 》

以前、「宝瓶宮占星学のクオリアルな観点から社会の過去・現在・未来のホロスコープ」(現在休止中)に15回にわたって連載した「“逆説”の邪馬台国」を、逆順に簡素化して掲載いたします。

その最終回の「馬臺編」を今回「序」としたものです。

結論的に「邪馬台国」の比定に重大な問題提起をしているためです。

3世紀の当時の日本人が、倭の女王「卑弥呼」(早弥娥:読み不明)が都とする場所を「ヤ・マ・タ・イ」または「ヤ・マ・ト」や「ヤ・マ・ダ」と呼んでいたのでしょうか。

いずれも違います。

俗称「魏志倭人伝」には、たしかに「邪馬壹国」と“壹”(壱)の字で記されています。

ですが、陳寿が記した“壹”(壱)は「臺」(台)の字の間違いであることが明らかなので、江戸時代の学者らが当時の支那の発音で「やまたいこく」と読んだようです。

それを時代を遡って「台」のみを“と”(トィ)と読み替えて「や・ま・と」だと主張したところで、魏の時代の「上古音」(しょうこおん)とは発音が異なります。

ですが、問題はそこではなく、もっと根本的なところにあるのです。

One-Point ◆ 歴史書に残された記述が必ずしも正しいとはかぎりません。“歴史は勝者の記録”といわれることからもそうです。「魏志倭人伝」に記される“里程”や“日程”また“方角”に関しては検討がなされていますが、「邪馬台国」そのものにかんしては恣意的です。




●陳寿の“脚色”に要注意

“中国三千年”などウソの歴史を語る現代の中国(中国共産党)とは違って、いろんな民族が入れ替わり支配した古代支那(大陸)は、次の王朝が前の王朝の歴史を多少の意図を含めつつ残してきた経緯があります。

しかし、その中でも「魏志倭人伝」を著した「陳寿」は、文才はあるものの史実を“ドラマチック”に脚色するクセがありました。

「陳寿」の伝記を読めば、そのことが分かります。

陳寿は、“人物史”(伝)を著すのに子孫にワイロを要求した話なども残されています。

上司の言うことをきかない一面があったことから、正規の「著作郎」に就くことはありませんでした。

これらは「魏志倭人伝」に“脚色”された部分がある可能性を示唆しています。

《 陳寿は意図的に“邪馬壹国”と記した 》

“邪馬台国”まで行ったことがない「魏」の郡使らが、常に駐(とど)まった「伊都国」(いとこく)で聞いた倭(わ)の女王「卑弥呼」(実際は早弥娥)の都を彼らなりに漢字で表記したものです。

発音自体が異なりますし“当て字”なのはいうまでもありません。

陳寿も“邪馬台国”に行ったことはありません。

そのため、過去の『魏略』や“訪倭記録”をもとに「魏志倭人伝」を著わしたものです。

ちなみに「魏志倭人伝」のなかに「邪馬壹国」(やまいこく)という表記は1度しか出てこず、陳寿は「臺」(台)ではなく意図的に「壹」(壱)の字を用いました。

のちの学者によって「壱」は誤りで、正しく「臺」(台)の字を用いて邪馬臺国(邪馬台国)と記すのが常識です。

陳寿は『魏略』などの記録に残る本来の「臺」(台)の字を、かってに「壹」(壱)の字に変えて「邪馬壹国」(やまいちこく)と記したのです。


●「馬臺」にかかわる“波動”が残る大宰府の霊峰「宝満山」。近くの街道を南に下ると「朝倉」から「日田」へと続く

One-Point ◆ 書籍名『邪馬台国はなかった』という論は成り立ちません。「邪馬壹国」も「邪馬台国」もなかったからです。実際にあったのは「馬臺」(またい)という「早弥娥」(卑弥呼)が都とする処でした。




《 『翰苑』に残された“邪馬台国” 》

陳寿が参考にした『魏略』などをはじめ“訪倭記録”などを調べれば、すぐに分かることなのですが、なんせ3世紀のお話なので、原本は残っていません。

ところが、唯一、『魏略』(ぎりゃく)の「逸文」(いつぶん)が、なんと福岡の「太宰府天満宮」に残っています。

「逸文」というのは、ほかの書物の中に“引用文”として記されたもので、唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

太宰府天満宮には、『翰苑』の叙文(じょぶん)と第30巻のみが残っています。

なぜ、九州倭国の“首都”でもあった「大宰府」(筑紫城)に、古の“邪馬台国”が記された『魏略』の逸文が残っているのでしょうか。

それは「邪馬台国」の比定においても興味深い事実です。

ですが、ここでは触れません。

『翰苑』に残された『魏略』の逸文をご紹介します。


『翰苑』(『魏略』逸文)の抜粋

原文:「憑山負海 鎮馬臺 以建都」

《読み》
山に憑(つ)き、海に負(お)い、馬臺(またい)に鎮め、もって都を建てる。


解釈いたしますと、次のようになります。

――倭国は、「山」が海岸近くまで迫っており、「海」(海産物など)によって営み、「馬臺」において国を鎮め、「都」としている――

内陸の魏からみれば、「海に負う」という表現は、自分たちとは著しく異なるために珍しいことだったようです。

ここには、ちゃんと「馬臺」と臺(台)の字で記されています。

“邪+馬台+国”の「馬臺」(馬台)ですよ。

One-Point ◆ 唐の時代に記された『翰苑』は、中国共産党が“文化大革命”という名の過去の「歴史の大抹殺」や「大粛清」を行なったために、現在の中国には残っていません。また、魚豢(ぎょかん)が記した『魏略』の逸文を清の時代に集め、清が滅びた直後の1922年に張鵬一が編したようですが、やはり残っているかどうか確認できていません。




●魏志倭人伝「牛、馬、…なし」

邪馬台国の時代、倭(わ)の地には、“牛”や“馬”はいませんでした。
『魏書』には次のように記されています。

●『魏書』倭人条より抜粋
《原文》
種禾稲苧麻 蚕桑緝績 出細紵絹緜。
其地無牛馬虎豹羊鵲。


《読み》
――禾稲(イネ)苧麻(カラムシ)を植え、蚕桑緝績し細紵絹緜(細い麻糸や絹や綿)を出だす。
その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない。――

当時の「倭」は、日本全国のことではなく、邪馬台国を女王の“都”とした「女王国連合」のことです。

そこに住む人を「倭人」と呼び、倭の東にいた日本人は「皆、倭種なり」と記されています。

四国や本州のことで、邪馬台国を女王の都とした倭人の国ではない「倭種」と呼ばれた日本人の国です。

《 なぜ「邪」の文字が付加されたのか 》

「まてまて、馬臺には、“邪”の文字が抜けているではないか」という声が聞こえてきそうです。

陳寿は、「東夷」(とうい:東の野蛮人の意)である倭人の国に「馬臺」は美字にすぎると考えたようです。

現在も中国人の姓の一つに「馬」があるように、「馬」は戦に大切な存在で“悪字”とするのはむずかしく、百家姓の第52位になっているほどです。

一方、「臺」(たい、うてな)は、天子の政庁などを意味する良い文字なので、名文を書くものの、歴史をドラマチックに脚色することでも知られる陳寿は、「臺」(台)によく似た「壹」(壱:イチ、イ)の字をあてました。

ですが、「馬壹国」だけでは東夷の国には不十分なので、卑弥呼の「鬼道」から類似の意味を持つ「邪」の字を頭にもってきて「邪馬壹国」(やまいちこく)としたようです。

人を貶める字を用いるのは、半島や大陸の悪い癖です。

卑弥呼は、死者の霊を乗りうつらせて言葉を語る「口寄せ」(霊言、良くいえば託宣)を行いました。

今でもそうですが、幽霊(ゴースト)や死者のことを「鬼」と表現していたので「鬼道」です。

そのような女王国連合なので、似た意味の「邪」を付けて「邪馬台国」なのです。

One-Point ◆ 科学的概念が発達した現代日本人の観点から、卑弥呼や古代日本を解釈すると間違います。たとえば、2,000年以上前の古典アストロロジーが、医聖ヒポクラテスなどによって医術に活用されたように、つい最近まで“迷信”や“祟り”や“祈祷”などの力が本気で信じられていた時代です。




●3世紀は「上古音」の時代

「台」(ダイ、タイ)の字を、古代支那の発音だとして「トィ」と呼んでもかまいませんが、その場合は、「邪」(ヤ)もまた同時代の発音で「シェ」などと呼ばなければなりません。

「台」だけを「ト」読んで、「邪」を現代の発音のまま「ヤ」と読むのはご都合主義です。

邪馬台国を畿内にするために、「台」だけを「ト」読んで「ヤマト」とするのはデタラメな解釈です。

だったら全部を「中古音」で「シェマトィ」と呼ばなければなりません。

さらには、邪馬台国があった3世紀は「上古音」(しょうこおん)でしたので、発音はさらに異なります。

あえて書けば、上古音では“メァダ”が近いのですが、邪(や)をくっつけたまま「ヤマダ」とこじつけるのも間違いです。

《 ほんとうに「邪馬台国はなかった」(笑) 》

お話を戻します。

漢字一文字の意味を大事にするのが支那人です。

もっとも、明治の文明開化以降に漢字を組み合わせて、西洋の科学技術や文明を表現した“日本語”を支那人も逆輸入して用いるようになりました。

『日中・中日辞典』によれば、「邪」には、迷信で死者の霊魂がもたらす「災い,たたり」と記されています。

ということから、陳寿は、“卑弥呼”の死者の霊魂を呼び込む「鬼道」によって、女王の都「馬臺」の頭に「邪」をつけて、「邪馬壹国」(邪馬台国)としたものです。

今音(現代音)でこそ「邪」を「ヤ」と読むことは可能ですが、5〜6世紀頃以降の“中古音”では「シェ」なので、“邪馬壹国”(やまいちこく)はもとより、“邪馬台国”(やまたいこく、やまとこく、やまだこく)もありませんでした。

なので、福岡の南端「山門」(やまと)も、7世紀以降の畿内の「大和」(やまと)も、「馬臺」(俗称:邪馬台国)とは関係がありません。

One-Point ◆ 支那には「今音」(現代音)と「古音」(古代音)があります。さらに「古音」は近古音、中古音、上古音に分けられます。3世紀は明らかになっていない「上古音」の時代です。支那大陸は支配民族が次々と変わっていったため、古代の発音は残っておらず、「客家語」(華僑や台湾に残る)に近いといわれています。




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