宝瓶星学 ―宝瓶宮時代の新しいアストロロジー―

連載 邪馬台国は馬臺-その10
鉄器編:倭国大乱と卑弥呼の共立
− 北部九州の鉄器文化 −

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鉄器の普及の推移は倭国からヤマトへ

↑ 出土した鉄鏃(てつぞく)例。

●リライト稿 : 2025年 6月 8日アップ


2世紀の鉄器文化は卑弥呼と密接にかかわります。

なぜなら、相攻伐すること長年続いた「倭国大乱」に疲弊し、卑弥呼を女王として共立することで、戦乱が収まったからです。

詭説による“鉄器を求めた”から倭国大乱が起きたのではなく、事実は逆で「魏志倭人伝」にも記される鉄鏃(鉄の矢尻)などから、鉄製武器が普及したことにより起きたものです。

このことが意味するのは2〜3世紀にかけて、鉄鏃などの武器が数多く出土する地域が「倭国大乱」の場所であって、卑弥呼が都とする「邪馬台国」はその奈辺にあったことが分かります。

歴史学者の一部が弄する詭弁に惑わされなければ、文献のみならず考古学からも「邪馬台国」の位置は自明です。

《 畿内ヤマトは銅鐸祭祀文化圏 》

『旧唐書』(くとうじょ)には「倭国伝」と「日本伝」とが併記されています。

このことから、7世紀に入るまで倭国と日本国(ヤマト)とが日本列島にはあったことが分かります。

卑弥呼の2〜3世紀は、石器や青銅器また鉄器文化の端境期で、交通網が未発達の当時は全国一律ではなく、地域によって相当の格差がありました。

畿内ヤマトはまだ石器や銅鐸祭祀文化圏で、平和的な縄文文化が残り、一方、北部九州は大陸に近いことからも、平穏ではいられずにすでに鉄器文化が始まっていました。

たとえば、『日本書紀』に「武」という字で記される人物の多くは北部九州の出自にかかわります。

といったことがあり、鉄器による武器の普及によって、優位に立った国々が起こしたのが「倭国大乱」です。

One-Point ◆ 簡単な道理です。ですが、それを認めたくない畿内説の学者らは、研究費を削られたくないこともあって、お得意の理屈をこねたり年代操作を行なって、マスコミや国民を欺いています。




《 鉄鏃の出土がダントツの北部九州 》

文献的にも考古学的にも証拠はあがっています。

いつのまにか権力に阿るようになったマスコミも、邪馬台国論争が決着すると、視聴率や売上げにもかかわるのか、劣勢の畿内説の学者の意向に与しています。

しかし、ネットをみれば分かるとおり、一般国民の関心は7割がたが九州説だといえます。

当「宝瓶星学」のデレクション・リーディングから申し上げますと、アカデミックな権威「日本学術会議」などの処遇を見ても分かるように、詭弁を弄する“権威”は、あと5年ほどで終わりです。

それはそれとしてお話を戻しますと、2〜3世紀ころの「鉄器」の出土は、並外れてダントツで福岡と熊本に集中しています。


●「倭国大乱」の要因となった鉄器の出土数(1〜3世紀)の推移。
(出典原本は、故川越哲志教授編「弥生時代鉄器総覧」。その一部を改変されたものを着色)


One-Point ◆ 「倭国大乱」が起きた場所ゆえ当然です。さらには女王国連合が成立後、卑弥呼に敵対する「狗奴国」(くなこく:熊本)と激しく争った地域なので、日本全土と比べても「鉄鏃」の出土が著しく集中しています。



《 弥生時代最古の鉄器 》

弥生時代の最古の鉄器は、福岡県糸島市から発見されています。

糸島市は「魏志倭人伝」に出てくる一大卒が置かれた「伊都国」(いとこく)があり、「世々王あり」と記される中心的な場所です。

倭国に来た魏の郡使らが「常に駐(とど)まる処」で、大陸の玄関口となっていた当時の最先端の地域で、女王国連合の諸国を検察せしめていた首都的国家でもありました。

糸島市二丈町の「曲り田遺跡」の住居の床面近くから発見された大きさ3cm×1.5cm×厚さ4mmほどの「小鉄片」がそれで、すったもんだのあげく“鍛造された板状鉄斧”の頭部と推定されました。

One-Point ◆ いつ頃の鉄器かといいますと、発見当時の年代観で「紀元前4世紀」です。専門家による「鉄の研究」では、九州北部においては、すでに1世紀の時点で“石器”から“鉄器”への変遷が行なわれています。


《 戦後の製鉄史観の誤り 》

鉄器の平和利用をみても、考古学者で国立歴史民俗博物館考古研究系教授、総合研究大学院大学教授、博士の藤尾慎一郎氏は次のように述べています。

「半島に先んじて、紀元前2世紀以降、北部九州では鉄斧や鉄製鍬先など農工具の鉄器化が進んだことによって、鉄が新たな可耕地開発に威力を発揮したことには変わらない。

日本海側を除く、近畿までの西日本に鉄器が本格的に普及するのは、石器がほぼ完全に消滅する(弥生時代の)後期後様以降と考えられる」

「弥生鉄史観の見直し」より引用。

GHQによる日本は大陸や半島より劣っているとして日本人の精神を破壊し二度と立ち上がれないようにする「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)によって、戦後の歴史教育や学術界は日本を卑下し続けてきました。

One-Point ◆ 古代日本には鉄や製鉄技術はなかったとされてきました。そのほうが畿内説には都合がよく、畿内に鉄が普及し大量に使われるようになったのは3世紀後半〜末以降、卑弥呼が亡くなったあたりからです。



●「和鉄の道2015」サイトから引用。カラカミ遺跡 第一地点:ここから6基の炉跡遺構が出土した。



《 原の辻遺跡の製鉄跡 》

「魏志倭人伝」に記される「一支国」(いきこく)こと壱岐(長崎県)の「原の辻遺跡」の鉄器の出土は、総数336点にもおよびます。

鍛造鉄斧(18)、鉄剣(7)、鉄鉾(1)、鉄鏃(37)などです。

「原の辻遺跡」は、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落で「魏志倭人伝」に記される以前から認められる遺跡です。

同じく壱岐の「カラカミ遺跡」も同様に弥生時代の環濠集落で、鍛造鉄斧(1)をふくむ鉄斧(8)、刀子(5)、鉄鏃(7)など117点の鉄器の出土が報告されています。

「カラカミ遺跡」からは、弥生時代では国内初めての鉄生産用の「地上炉跡」が見つかったと、2013年に新聞発表がされ“精錬炉”の可能性があると指摘されています。

これらも当時は倭半島にまで勢力が及んでいた倭(国)の一部で、倭国大乱とその後の「邪馬台国」を都とした倭の女王卑弥呼に連なっています。

One-Point ◆ 半島によらずとも鉄器生産が日本国内で可能だったことを意味します。邪馬台国への行程として記録される壱岐(一支国)や糸島市(伊都国)での古代の鉄の発見は、北部九州の女王国連合が畿内とは異なり鉄器文化圏だったことを意味します。






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