宝瓶星学 ―宝瓶宮時代の新しいアストロロジー―
↑ 竹ではなく当時は丸木弓。
●リライト稿 : 2025年 6月10日アップ
過去には「魏志倭人伝」に記される里程や日程などの行程や方角が多く取り沙汰されてきました。
詳しく読んで正しく解釈すると、読み方の“勘違い”があって、海の中ではなく九州北部にきれいに収まります。
それはそれとして、「魏志倭人伝」に記される木弓などの武器の記述や物的証拠となる考古学の出土からも、九州北部で間違いないことが分かります。
卑弥呼の時代、すなわち弥生時代の製鉄に関しては「邪馬台国は馬臺-その10 鉄器編:倭国大乱と卑弥呼の共立 」で述べました。
今回は木弓に欠かせない「鉄鏃」(てつぞく:鉄の矢じり)の出土に焦点を当ててみました。
倭の女王卑弥呼が都としたのが、通称「邪馬台国」です。
女王を共立することで矛を納め、「倭国大乱」を収束させて成立した女王国連合(邪馬台国連合)は、29か国だと「魏志倭人伝」に記されています。
代々王を戴く当時の首都(都督)的な役割の一大卒が置かれた「伊都国」(いとこく)。
『後漢書』に記される「漢委奴国王」の金印が出土した「奴国」(なこく)。
後年、応神天皇がお生まれになった場所と天皇の出生地が唯一『日本書紀』に記される宇美(うみ)に比定される「不弥国」(ふみこく)などが代表です。
その先に邪馬台国が位置し、その南に旁余の21か国が記されています。
この位置関係は「邪馬台国」の比定に重要です。
One-Point ◆ 三国志の時代、覇を手にした魏(ぎ)から見て、敵か味方か分からない倭国を軍事偵察した記録をベースとしたのが通称「魏志倭人伝」です。距離や日程また方角を間違えることは、軍事偵察の記録ゆえにほぼ確実にありえません。
そのため軍事に関連して「魏志倭人伝」は次のように記しています。
「兵には、矛、盾、木弓を用う。木弓は下を短く、上を長くす。竹箭(ちくせん=矢)には、或いは鉄鏃(てつぞく)、或いは骨鏃(こつぞく)。」
魏の郡使に同行した軍事偵察隊の“記録”をまとめたものでもあるために、倭人がどのような武器を使っていたのかが記録されています。
「矢」にはどんな種類の竹が用いられているのか、「矢じり」には何が使われているのか。
卑弥呼が共立されたキッカケとなった「倭国大乱」の場所でもあり関心は高かったのでしょう。
One-Point ◆ 今の日本ならいざ知らず、魏の郡使が戦乱の時期に手ぶらで観光旅行にくることなどありえません。武装した偵察隊を伴ない、倭は本当に味方なのか? 軍事力は? 呉や蜀と結託して責めてくることはないのか? などが最大の関心です。
卑弥呼を女王に共立して女王国連合が形成されたのち、3世紀の中ごろあたりに、女王国の南に位置した「狗奴国」(くなこく)が攻めてきたことが記されています。
「狗奴国」は「魏志倭人伝」に記される「狗古智卑狗」(くこちひこ:きくちひこ?)の名称から、熊本県菊池あたりに比定されています。
女王国連合内で起きた2世紀の倭国大乱に続いて、3世紀中葉には狗奴国との戦争が起きたのです。
このことは、北部九州の軍事力の増大をもたらしただけでなく、2〜3世紀に「鉄鏃」が数多く出土する地域が、倭国大乱の場所であり、狗奴国が攻めてきた邪馬台国連合の場所であることを意味します。
その出土は、全国でも北部九州が群を抜いてダントツです。
一方、畿内ヤマトは2桁に満たないのに対して、福岡県と熊本県はそれぞれ400個前後もの鉄鏃の出土が確認され、福岡平野と筑後平野に集中しています。
One-Point ◆ 奈良県の纒向遺跡を有する地域は、都市開発があまり進んでいないこともあって発掘が容易で過去の遺跡が多く発見されています。予算も多く出ているため、発掘調査が進んでいるのです。にもかかわらず、奈良県全体を見ても2〜3世紀の鉄鏃出土はわずか4個です。
上掲の「鉄鏃」の出土分布図は、WEBサイト「邪馬台国大研究 本編」の「13.遺跡は語る―考古学の成果からみると−総論−」を参考に北部九州の地図に重ねたものです。
重ねた結果、「ビンゴ!」でした。
以下、かんたんにご説明を差し上げます。
福岡平野に鉄鏃の出土が多いのは、ここが「倭国大乱」の場所だからです。
一方、筑後平野の出土は、女王国連合と狗奴国との主戦場となったためで、いくつかの地域に集中しているのは、奈辺に環濠集落があり、防衛拠点の役割を担っていた場所だからです。
One-Point ◆ 筑後平野の鉄鏃の出土は、邪馬台国の南にあったと記される旁余の21か国で、一方、邪馬台国の北には伊都国、奴国、不弥国があったと「魏志倭人伝」に記されています。そうすると、水運(交通)と防衛(軍事)と食料(生活)などが可能な地政学的な条件から、古の邪馬台国の位置は比定されざるをえません。
また、筑後平野の南部と東部の2か所に「鉄鏃」の出土が集中していることにもご注目です。
女王国連合の南端、旧「山門」(現みやま市瀬高付近)は、すぐ南に「狗奴国」があり最前線だったので当然です。
「魏志倭人伝」には邪馬台国の南、女王国の南部に「旁余の21か国」があったと記されているのですが、山門の南は丘陵を隔てて「狗奴国」なので、それらの国々が立地する余地がありません。
さらにいえば、「邪馬台国は「馬臺」-序」で述べたように実際にあったのは“邪馬台国”ではなく「馬臺」(またい)だったことから分かるように、「山門」や「大和」を邪馬台国に比定することは困難です。
One-Point ◆ 旧「山門」は当時の海面からみれば、有明海沿岸部付近に位置しました。水行のみで行けるのに、わざわざ「陸行1月」を費やす必要はありません。「魏志倭人伝」にかぎらず、ホロスコープもそうですが、部分のみを根拠とすると高い確率でご判断を間違います。
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