宝瓶星学 ―宝瓶宮時代の新しいアストロロジー―

連載 邪馬台国は馬臺-その8
地理編:行程と位置関係
− 帯方郡と不弥国の南 −

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行程の二重記述と位置関係から誰にでも分かる

↑ 伊都の国「日向峠」(ひなた とうげ)。

●リライト稿 : 2025年 6月13日アップ


地理や位置関係が分かりにくいことがあると存じますので、関連する地図を掲載しておきます。

逆順に掲載しています「邪馬台国は馬臺」シリーズでは、先回掲載いたしました「鉄鏃編:出土分布が示す位置」に掲載した地図のベースです。

当地図では、「魏志倭人伝」に記される行程(道順)や国々の配置を記しています。

といってエキセントリックではなく定説どおりで、里程で記されたルートと、日程で記されたルートがあります。

《 新旧のルートの記録を“混同” 》

まず、「一支国」(いきこく:壱岐)から「末盧国」(まつらこく)まで「千余里」と記されています。

若干、短く感じますが、松浦半島の先端までではなく、根元の唐津市への寄航までと考えれば齟齬はありません。

そこから「伊都国(いとこく)まで「五百里」と記されています。

比定地は次のとおりです。
 「一支国」(いきこく)=壱岐
 「末盧国」(まつらこく)=松浦市(長崎県)、唐津市(佐賀県)、松浦半島周辺
 「伊都国」(いとこく)=糸島市

魏の郡使らは、壱岐から南に松浦半島を目指し、奥の入り江の唐津市で長旅の休憩をします。

ただし、初期のルートは、「里程」で記されるルートではなく、唐津市に流れ込む松浦川をそのまま遡って、上陸後は未開の筑紫平野の山際を「吉野ヶ里」経由で陸行1か月をかけて邪馬台国へ行く「日程」ルートです。

この兵站(軍隊の食料補填など)にかかわる「日程」の記録が、倭国大乱後の伊都国経由の「里程」の記録と併記されているため混乱が生じています。

One-Point ◆ 倭国大乱前の「馬臺」(またい)に到る記録は、風待ちなどを含めた「日程」で記されます。「馬臺」というのは推測ですが、徐福の一行の「馬」氏の拠点で、筑後川から宝満川を遡った辺りです。近くの天山(あまやま)には「童男丱女岩」(どうなんかんじょけ いわ)が残っていることからもそういえます。




《 倭国大乱後の不弥国への「里程」 》

一方、倭国大乱後の女王国連合成立後は、唐津から魏の郡史らが常に留まったと記される、一大卒が置かれた「伊都国」へ船でそのまま到っています。

このころになると測量によって「里程」で記されます。

この新旧の2つの訪倭記録を参考に、陳寿は、片や不弥国(ふみこく:宇美)までの「里程」と、片や邪馬台国に到る「日程」とを、分かっててか知らずにか「魏志倭人伝」に併記したのです。

それを知らずに、里程と日程とをつなげて読んだら、そりゃあ2倍の距離になり、「海の中に邪馬台国があった」、あるいは「南は東の間違い」などと詭弁を弄する御仁が出てきて、畿内だ阿波だなどと誤った比定をすることになります。

One-Point ◆ 作為されたプロパガンダが含まれる『日本書紀』の記述を史実だと妄信すると、九州倭国が目に入らなくなります。日本の原点は“大和”だ、それ以前の“阿波四国”だなどと、まんまとプロパガンダを信じて「魏志倭人伝」の記述を『日本書紀』で解釈するチグハグに陥ります。



《 伊都国と邪馬台国、二つの都 》

伊都国にあたる現在の糸島市は、明治の郡制によって内陸側の怡土(いと)郡と半島側の志摩(しま)郡が合併して糸島郡となり、旧前原市をメインとして、今日の糸島市が誕生しました。

伊都国には、女王国連合諸国を監察する一大卒が置かれ、「魏志倭人伝」には「世々王あり」と記されることからも、首都(都督)的な役割を担っていました。

すなわち、“一統国”(いっとう こく)また“都督国”(ととく こく)などの意を含んで「伊都国」です。

都督は、三国志の時代からの名称で、軍事を含めて監察する要職の地方長官や司令官「大宰帥」(だざいのそち)に当たります。

国家で言えば、卑弥呼が都とした邪馬台国は“京都”のようなもので、首都“東京都”にあたるのが「伊都国」です。

One-Point ◆ 誰も知る人がいないと存じますが、6世紀末に九州倭国の主導で畿内ヤマト国と合併しました。このとき、和をもたらすために卑弥呼の共立にならって立てられたのが、初の推古女帝です。『古事記』が推古天皇で終わっているのも合併にかかわるためです。




●対立二元論思考で見えてくることはありません。「三数思考」(クオリアル・シンキング)によって宝瓶宮時代が進むほど事実が読み解けます。

《 伊都国から奴国への抜け道 》

「伊都国」に駐(とど)まった郡使らは、次のように記しています。

東南に約100里の距離に「奴国」(なこく)があり、さらに東に約100里の距離に「不弥国」(ふみこく)がある。

比定地は次のようになります。
 「奴国」(なこく)=福岡平野中部
 「不弥国」(ふみこく)=福岡平野東部

なぜ、伊都国から“東南”に奴国なのでしょうか。

伊都国の東、現在の福岡市北部は、当時は海や沼地で中部や南部に「奴国」があったためです。

遺跡からもそのことが認められるのですが、伊都国から沿岸部を東に行くよりも、日向峠(ひなた とうげ)[ひむか][ひゅうが]を東南に抜けたほうが近かったのです。

One-Point ◆ 日向峠は、現在の糸島市と福岡市西南部を結ぶ案外と交通量の多い山道にあります。高祖山(たかすやま)と王丸山(おうまるやま)の山あいを抜ける峠で、標高は246〜247mです。


《 「不弥国」よもやま話 》

「不弥国」(ふみこく)は、現在の福岡県糟屋郡宇美(うみ)町に比定されています。

『日本書紀』に、応神天皇こと誉田別皇子がお生まれになられたと伝わる宇美八幡宮があります。

ところが、糸島市にも宇美八幡宮があり、仲哀天皇ゆかりの地でもあることから、仲哀天皇と神功皇后の皇子と記される応神天皇が、どちらの宇美でお生まれになられたのか議論があります。

また、不弥国の近くの宇美川を下ると、多々良川と合流し、河口近くに香椎神宮があります。

仲哀天皇と神功皇后とが祀られる「香椎廟」(祖先を祀る霊廟、祖廟)でした。

こちらも糸島市の宇美八幡宮の仲哀天皇の山陵(墓所)と論争になったことがあります。

One-Point ◆ 邪馬台国(倭)は、大きくみると帯方郡の南に位置します。九州北部では不弥国の南に位置します。どちらも南で、史実を記しながらも結構いい加減なところのある陳寿は、ドラマチックに不弥国までの「里程」の後に帯方郡からの「日程」を記したようです。






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