宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―

邪馬台国が見つからない理由
[古代史解明7] 
 ― 1,700年もの昔の倭の女王の都 ―

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卑弥呼の都は後年、大和の“西の政庁”となった

↑ 菅原道真が住んだ跡に建つ榎社。


●第1稿 2023年11月13日 アップ。


江戸時代の国学にはじまった邪馬台国所在論争は、いまだに決着がつきません。

いろいろな比定地があり、議論が活発なのはよいのですが、誰かの論を知れば相応の根拠が示されるために変節も起こりえます。

中には一見、正当なようで表層的なものもあり、ベーシックな不動の「理」を押さえておくことは重要で、でないと変だと気づけないまま畿内説になったり、九州説になったり、海外説になったりします。

もとい、なぜ邪馬台国の所在は、いまだに明らかにならないのでしょうか。

確たる物証が出ないその理由は、逆説的ですが、僻地(へきで)ではなくもはや市街地になっているためです。



《 古代の遺跡発掘の限界 》

よくニュースで耳にしますよね。

たとえば、大手企業が高速道路の開通に伴い、交通の便の良い場所に物流拠点や工場を建てようと工事をはじめたら、何やら「遺跡」が出てきた!

すると、発掘調査が終わるまで建設延期になったり、場合によっては中止を余儀なくされ、重要な遺跡として保存された例も少なくありません。

原っぱや僻地だった場所に、古の倭の女王「卑弥呼」が都とした「邪馬台国」があれば、通称「魏志倭人伝」に「居処、宮室、楼観、城柵、厳かに設け」と記されているように、セットで出てきて見つかっていてもおかしくはありません。

邪馬台国そのものではないのですが、いちばん近い出土で知られるのは、筑後平野の北端に位置する「吉野ヶ里遺跡」(佐賀県)です。

One-Point ◆ 吉野ヶ里遺跡が発掘された場所は、幸運にも県立高校の移転改築の候補地でした。ところが、広範囲にわたって遺物が出土したために、移転改築は中止されます。もし、私企業の所有地であればどうなっていたでしょうか。


《 古代の北部九州文化圏 》

吉野ヶ里以上に規模の大きい遺跡が、まだ楼観は見つかっていませんが、福岡県朝倉市の「平塚川添遺跡」です。

近隣にはすでに住宅など私有地が拡がり、これ以上の発掘調査ができないのです。

両遺跡の例から分かることは、大規模な遺跡ほど吉野ヶ里のように人があまり住んでいない場所で見つかり、大集落や都として栄え今も住宅地や相応の都市部として発展している場所では、発掘調査は困難で、発見しにくくなるということです。

日本三大暴れ川で知られる筑後川の下流域は、古代は洪水のたびに川筋が変わり、人が住む場所は吉野ヶ里遺跡のように高台でした。

また、有明海の古代海進によっても、海が近くまで迫っていたこともあり、津波対策からも古来からある神社などは高台や丘の中腹などに建てられています。

後年、海進も収まり、河川の治水工事などもあって、今日では有明海や筑後川から離れた内陸部の僻地に吉野ヶ里は位置しており、あまり宅地化が進まなかったゆえの発見です。

一方、それ以上の規模を持つ平塚川添遺跡は、筑後川の中流域に位置し、周辺は宅地化が進んでおり、一部が発見されたものの、全容解明は進められない現状です。

One-Point ◆ 奈良県の箸墓古墳やその近隣の場合、近くに道路や宅地はあるものの畑や田んぼが多く、発掘調査は比較的に容易です。さらには、大和という歴史的な土地柄のため、予算や許可が降りやすく遺物の発見が進んでいます。



《 古代の遺跡は僻地に“残される” 》

邪馬台国は2〜3世紀の古代の集落です。

比定地の一つとされる箸墓古墳のあたりは、かつての都/平城京からやや離れ、遷都も行われたゆえ、古代も今も都市開発から取り残された地域です。

土地は古来よりさほど掘り起こされておらず、土中に遺跡が残され、畑なども多いことから発掘しやすい場所になっています。

にもかかわらず、建物跡はあるものの「魏志倭人伝」に記される「楼観」や「城柵」といった遺構が、いまだに見つかっていません。

ほかにも、3世紀当時の「鉄鏃」(鉄の矢じり)も奈良県全体をみても数個しか発見されておらず、福岡県や熊本県の五百個に近い発見数に比べると、とても「倭国大乱」が起きた場所とは思えません。

2〜3世紀における文化交流の規模や範囲を考えれば、吉野ヶ里で「楼観」が発掘されたというのは、同じ北部九州文化圏の中に「邪馬台国」があってもおかしくない傍証の一つです。

One-Point ◆ 「邪馬台国」は「狗奴国」(くなこく)と敵対していました。狗奴国は現在の菊池市など熊本県に比定されています。つまり、吉野ヶ里は邪馬台国を防衛する砦の役割を果たし、同じ文化圏に属していたのです。


《 邪馬台国以南の傍余の21か国 》

当時、倭国は「魏志倭人伝」に「一大卒」と記される現在の糸島市(佐賀と福岡市に隣接)する「伊都国」(いとこく)のもとに事実上、統治されていました。

伊都国は「世々王あり」と記され、邪馬台国に至る行程では「伊都国」の次に「奴国」(なこく)、次に「不弥国」(ふみこく)で、両国は伊都国に隣接する福岡市に比定されており、コンセンサスがほぼ得られています。

その先に「邪馬台国」がありました。
※路程のナゾは「邪馬台国への行程ミス」をご参照ください。

「魏志倭人伝」には、邪馬台国以南の21か国をもって、「これ女王の境界の尽くる所なり」と記され、さらにその南に狗奴国(熊本県菊池市界隈)があったことが分かります。

そのような位置関係を見れば、邪馬台国以南の傍余の21か国とは、狗奴国(熊本県)の北側、筑後川下流域の筑後平野に比定できます。

さらに、傍余の21か国の北側で、奴国や不弥国の比定地「福岡平野」との間に古の邪馬台国は位置していたことが見えてきます。

One-Point ◆ 邪馬台国が見つからない理由は、吉野ヶ里や箸墓古墳のように、宅地化や都市化が進んでいない地域ではなく、逆に古来から“都”として栄えてきた場所にあって、歴史的に人が多く現在も市街地となっているため遺跡は破壊され、発掘も困難な場所ゆえです。



●「魏志倭人伝」の“里程表記”と“日数表記”は、いずれも帯方郡から邪馬台国までを記したもので、軍隊が行軍する際は約2か月を要すと併記したものです。


《 邪馬台国の比定地はココ 》

結論です。

「魏志倭人伝」の記述とも一致する次の場所に邪馬台国はありました。

(1)帯方郡からおよそ1万2千余里の場所。
(2)狗奴国から見て、吉野ヶ里を経た北方の博多方面。
(3)鉄鏃などの発見が近隣に集中している場所。
(4)古来より“都”として発展してきたため発掘が困難な場所。

古代は「邪馬台国」など重要視されておらず“歴史的遺跡なので保存すべき”などとは考えられていません。

日常生活が優先されて宅地化が進み、公共の建築物も建てられて、都ゆえ都市開発が進んだといえます。

そんな古来より“都”の場所があるかって?

有力な候補地が一つだけあります。

「統一大和」が7世紀に成立してのち、大和朝廷の“西の政庁”(出先機関)が置かれた元九州倭国の都「大宰府」(だざいふ)がそれです。

現在は太宰府市となり、「大宰府政庁跡」が残っています。

平安時代に、藤原一族に疎まれた菅原道真が流された福岡県太宰府市で、太宰府天満宮に道真公が“学問の神さま”として祀られているのは有名です。

また「令和」の元号のもととなった歌が詠まれた場所ともなっています。

この奈辺に、もはや発掘は不可能ですが、卑弥呼が都とした「邪馬台国」がありました。


2023年現在、124年ぶりの「令和の大改修」を行なっている太宰府天満宮(仮拝殿)。


One-Point ◆ 太宰府天満宮には、国宝として唯一、古代中国の史書の逸文が記された『翰苑』(かんえん)が残っています。そこには(邪)「馬臺」(またい:邪馬壹国ではない)国の記録が残されていますが、それはご当地にかかわる最古の記録だからです。






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