宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―

邪馬台国への行程ミス
[魏志倭人伝]
― 里程、日程、方角は間違っていない ―

特別編の[古代史解明]です。
古代史の謎を解明してお届けいたします。
史実を追えば勘違いや創られたミステリーだったりします。

合理的な解釈をすれば北部九州を出ることはない

●第1稿 2022年 7月11日 アップ。


「倭国大乱」の時代状況を知れば、邪馬台国の位置は明らかです。

『三国志』(魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条)こと、通称「魏志倭人伝」に記述ミス、もしくは解釈ミスがあるのはご存じのかたも多いでしょう。

記述どおりに進むと、海の中に邪馬台国が位置することになるためです。

かといって、里程や日程また方角が間違っていると考えるのも的外れです。

そういった学者や研究者は、たぶん平和ボケしていて、当時の状況がつかめていないのではないでしょうか。


《 観光旅行の記録ではない 》

晋の史官、著作郎の陳寿(233?-297?)が記した「魏志倭人伝」は、一般人の倭国観光旅行記を資料にしたものではありません。



三国志の時代はもちろん、その前の後漢(東漢帝国 25-220)といえども、予断は許さない戦時中です。

これが意味するところは、陳寿が参考にした記録は、文化レベルも分からない海を渡った異国の軍事偵察を兼ねたものだということです。

しかも、倭国大乱をはさんだ時代であって無防備で旅をすることはありえません。

万一に備えて、軍隊や偵察測量のプロを伴なった一行の記録だと考えなければなりません。

里程や日程また方角をもし間違えたら、自分のクビが飛びかねない時代なのです。

One-Point ◆ そんな軍事偵察のプロが記した倭国偵察記をもとに著したのが、通称「魏志倭人伝」です。里程や日程また方角を大きく間違うことは、ほぼありえません。



《 複数あった偵察や訪問の記録 》

倭国を訪れた記録は1つだけではありません。

福岡の志賀島(しかのしま)で発見されたと伝わる金印の時代、1世紀に相互に訪問した記録が『後漢書』に記されています。

後漢や魏を訪れた倭国からの使者から聞き取った記録も残されているでしょう。

また、2世紀の倭国大乱や3世紀の卑弥呼共立後の記録など複数あることが、太宰府天満宮に残された国宝「翰苑」(かんえん)の逸文などからみえてきます。

結局、「魏志倭人伝」を著した陳寿は、複数の記録を参考にしつつ一つにまとめたのです。

卑弥呼の邪馬台国が記された記録は、その最後のものでしかありません。

もちろん手書きの時代ですし、書き間違いや写し間違いはチェックしたとしても起こりえるでしょう。

だからといって、里程や日程の数字にミスがあってはいけないので、慎重にチェックされます。

One-Point ◆ まして、東西南北の方角を写し間違えるなど、軍事偵察の記録にはあってはいけないことなので、大きなミスは考えられません。これが「魏志倭人伝」をひもとく大前提になります。



《 単位の違う行程を足し算しても 》

こう書いても信用されないかたがいらっしゃるのではないでしょうか。

「いやいや、それだと邪馬台国は海の中に…」

ありません。

北部九州内にきれいに収まります。

なぜなら、ポイントは「投馬国」(つまこく)にあるからです。

謎解きをしましょう。

帯方郡(半島の付け根付近)から、倭(当時は九州)の「不弥国」(ふみこく)までは、里程(短里)で記されています。

ところが、次の投馬国や邪馬台国は、日程で記されているのです。

これをつなげて邪馬台国は海の中になるとか、方角の間違いで畿内だなどと解釈しているのです。

そういった歴史学者や研究者は、もう一度小学校にいって算数を習いなおされたほうがよいでしょう。

もちろんジョークですが、単位が異なる里程と日程の足し算は成り立たないのは常識です。

One-Point ◆ 「魏志倭人伝」も同じです。不弥国までの行程(里程)の記録と、直後に記される投馬国や邪馬台国までの行程(日程)の記録は、分けてとらえるべきで、出発点が同じだと考えなければなりません。



《 原文をよく読んでみよう 》

不弥国までは、詳しく里程によって記されていることもあって、場所は福岡市の東方面に比定されることで、ほぼ合意がなされています。

ところが、そのあとに記される南に水行20日の「投馬国」(つまこく)の比定地は、不弥国の南には海がなく、どこなのか比定地はてんでバラバラです。

そして、投馬国のあとに記されるのが邪馬台国(やまたいこく)です。

なので、投馬国の比定がポイントです。

「魏志倭人伝」から邪馬台国の位置を割り出す要諦になっています。

どうとらえればいいのか、すでにお答えは上述しておきました。

出発点の帯方郡から、不弥国までの里程とは別に、もう一度、出発点に戻って、再度、日程によって記されたのが投馬国を経た邪馬台国までの行程です。

One-Point ◆ 距離で記された里程と、日数で記された行程は別ものです。道らしい道はなく地図もないので、距離で記しても何日かかるか分かりません。軍事行動にとって日数は、食料など兵站にかかわる重要データです。


《 行程問題となる箇所の原文 》

出発点の帯方郡から、南に水行20日が投馬国で、そこから水行10日陸行1か月が邪馬台国です。

原文では次のように記されています。

「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」

読み下しますと、次のようになります。

「東行すること不弥国に至る百里なり。官は多摸といい副は卑奴母離という。千余家有り。
南に投馬国に至る水行二十日なり。官は弥弥といい副は弥弥那利という。五万余戸ばかり。

この後に「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」、すなわち「南に邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日陸行一月」と続きます。

邪馬台国の行程問題で課題となる箇所はここだけなのです。

One-Point ◆ たったこれだけです。平和ボケしていると、現代の視点から解釈を繰り広げます。全部の方角が90度ほど違っているなら「南は東の間違い」はありえますが、都合のいい部分だけを方角の間違いとするのは曲解です。
※ちなみに夏時間の場合、最大で23.4度ほど全体的に方角が異なることも考えられます。


《 写し間違いか昔の名称:投馬国 》

原文の違いにお気づきいただけますでしょうか。

微妙ながら不弥国までの里程表現と、投馬国や邪馬台国までの日程表現の書き方が違います。

「行至」と「至」の違いですが、たぶん日本人には難しくても、漢文にこなれた学ある中国人なら、里程と日程の違いなどもあって、ダメ押し的に念を入れてもう一度併記し直したものだと一発で気づくのではないでしょうか。

現代中国人にとっては、昔のことで他国のことですし、一文の得にもなりませんので、関心のないことだと存じます。

単位が異なる里程と日程を非常識にも足し算したために、邪馬台国の比定に混乱が生じています。

陳寿は、複数の記録を参考に、卑弥呼が都とする場所を里程と日程の両方で記したのです。

間違えないように念を入れて、邪馬台国までの行程を里程と日程の両方で記しておいたものを、読む側が知らずに一つにつなげたら、倍の距離に邪馬台国が位置することになります。

ちなみに、邪馬台国に至る行程を記した最後は、次のように明記されています。

「自郡至女王國 萬二千餘里」

読み下しますと、「自郡(帯方郡)から女王国に至るは1万2千余里」。

One-Point ◆ 福岡市東辺部に位置することでコンセンサスがとれている不弥国からだと、帯方郡から1万2千余里はいくばくも残っていません。結局、北部九州を出ることのない奈辺に邪馬台国はあったことが確定できます。





《 投馬国は対馬だった 》

出発点の帯方郡から、1万2千余里のところにある邪馬台国に至るには、日程でいえば「水行20日」で投馬国まで行くことができ、そこから「水行10日陸行1か月」ほど、すなわち軍隊をもってして2か月ほどで邪馬台国まで行けるという記述です。

最後にタネ明かしを書いておきます。

投馬国というのは、対馬(つしま)のことです。

使節の出発点から、記述どおり朝鮮半島を西海岸沿いに南に下り、大昔のことなので天候や風待ちをしながら、水行20日ほどで投馬国こと対馬に着きます。

そこから南北70kmほどの対馬をさらに南下しつつ、海を渡って九州北岸に着き、そのまま松浦川などを溯上して行けるところまでが水行10日ほどです。

その後は、食料の調達や道なき道を確認しながら、筑紫平野(つくしへいや=佐賀平野+筑後平野)の北端の山際を東へ進んで、陸行すること1か月ほどで卑弥呼が都とした古(いにしえ)の邪馬台国に行けるという過去の記述です。

もはや、どうでもいいお話です。

One-Point ◆ 「南は東の間違いだ」などとおっしゃって、ありえない強弁をもって意図的に近畿にもっていきたい御仁がいらっしゃるようで、邪馬台国論争に拍車をかけています。それによって、本が売れたり視聴率が稼げるので、マスコミは半ば分かっていても劣勢の畿内説を取り上げて、あおっているようにも思えます。




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