宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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●第1稿 2023年11月21日 アップ。
日本の古代史を解くカギは、古来から「統一大和」だったのかどうかにあります。
日本書紀史観によって、古来からの統一大和だったと信じ込んでしまうと、精神論としては美しくても、史実とは異なり“勘違い”が生じます。
「神武東征」「万世一系」「邪馬台国」「卑弥呼」「聖徳太子」、さらには蘇我本宗家が滅ぼされた「乙巳の変」、統一大和の成立過程ももちろんそうです。
というのも、『日本書紀』は7世紀終盤の統一大和政権が、自らの統治を正統化するために「和を以って貴しとなす」を基礎に記述された天才的なプロパガンダ(政治宣伝)の歴史書だからです。
7世紀の国内外情勢によって、必要があり『日本書紀』は720年に完成しました。
統一独立国家「大和」として早急に諸国をまとめ、天皇のもとに統(す)べる必要があったからです。
天皇を「すめらみこと」(統めら尊=貴い人)と呼ぶのはそのためです。
史実は、古来からの“統一大和”ではなく多くの国がありました。
代表的なものだけでも、九州の「倭国」、四国の「阿波国」、中国地方の「吉備国」、近畿の「畿内国」、中部の「尾張海人族の国」、北陸の「越国」、関東には「関東国」などです。
それぞれの経緯が成り立ちにあり、一括りにはできません。
One-Point ◆ 「統一大和」の成立を迫られたいちばんの理由は、時代の発展とともに国際環境が異なってきたからです。海外からの侵攻に対する備えが必要になったのです。
「水」や山海の「食料」が豊かで、気候も「温暖」な日本列島は、古代から羨望の地でもあり、住み着く人が多くいました。
異国や他民族が領土にしようと狙うのは想像に難くありません。
大陸や半島に近い沿岸諸国ほど、警戒を強めざるをえなくなったのです。
九州倭国はとくに次の2点が急務となってきた6世紀でした。
1、拠点を海外から攻撃されにくい内陸に移す。
2、国内諸国の協力一致によって海外からの侵略に備える。
One-Point ◆ 5世紀は「倭の五王」で知られるように、朝鮮半島に進出したものの大陸の皇帝らは、半島は陸続きゆえに、支配権を五王に認めませんでした。逆に勢力を増す倭国に、警戒の念を強めたのです。
金印「漢委奴国王」で知られる1世紀から、大陸の冊封下にあったのが九州倭国です。
金印の「委奴国」という印刻を“いとこく”また“いぬこく”と読む向きもありますが、どうみても“漢が委ねる奴隷国王”という意味です。
それとも、中華思想の国が、東の蛮族と蔑む東夷の国王に、お人好しにもタダで金印をつくって渡したと思われますか?
ありえません。
「お前を国王だと認めるけれども、漢の奴隷国の王だ」と金印をもって示したのです。
そのような東夷の奴隷国にすぎない倭の五王を、陸続きの半島の王に封じることはありえません。
逆に、勢力を伸ばす倭国を警戒し、機あらば半島を直接支配下におこうとするのが彼らのやりかたです。
統一大和成立の直前、隋と半島の付け根を治める高句麗とが、戦争をはじめる要因の一つとなっています。
One-Point ◆ 海外の脅威を最も感じていた九州倭国は、かつて九州から東征した「饒速日命」(にぎはやひのみこと)が治めていた畿内国との吸収合併を図ります。沿岸に属さない唯一の国への移転計画の実行です。
統一大和が成立したのは、7世紀初頭です。
九州倭国と畿内国との“合併”によってです。
のちの大和となる「大倭」(おおやまと)の誕生です。
その経緯は、大陸の正史『隋書』倭国伝にヒントが記されています。
もっとも、隋にとっては、自分の代に約600年におよぶ冊封下から九州倭国が離れるという不名誉な出来事ゆえに、ボカした記録で倭王の国書を記しています。
●『隋書』より抜粋-その1
“倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。
天いまだ明けざる時、出でて政を聴き、胡坐して坐す。
日出ればすなわち理務をとどめ、わが弟に委ねんという。
高祖いわく、「これはなはだ義理なし」”
この意味は、政権(政務)を“弟”の畿内国に譲るので、九州倭国は冊封下から離れる、よろしくと隋の高祖文帝に仁義をきったものです。
『日本書紀』にこの経緯が記されることは決してありませんが、合併による統一大和成立後の第2次遣隋使は当然に記されています。
そのときの有名な国書の内容を『隋書』から引用しておきます。
●『隋書』より抜粋-その2
その国書にいわく、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」と。
帝、これをみて悦ばず、鴻ろ卿にいいていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり」。
One-Point ◆ 2代目「煬帝」(ようだい)に変わっていました。「日出処の天子」なので、大陸と同等以上で、天子を抱く独立国を意味します。煬帝は激怒します。
第2回遣隋使の国書にある「日出処の天子」の深意は、冊封下から離れ、対等の国だよという事実上の独立宣言です。
神代から統一大和だったとする『日本書紀』を信じる学者は、『隋書』は偽書だと決めつけます。
もしかしたら、『日本書紀』を信じるふりをして日本はいまだに大陸の冊封下の国だと広めたい“工作員”なのでしょうか。
また、遣隋使を派遣した倭王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)は、15歳で推古女帝の摂政に就いた聖徳太子だと考えています。
ありえません。
国書というのは「国家元首」が発するもので、聖徳太子が仮にしたためたとしても「推古女帝」の名によって行ない男王とすることはありません。
史実は、『隋書』に「阿蘇山あり」と記されていることからも、九州倭国王「阿毎多利思北孤」で間違いありません。
彼は畿内国との合併を画策し、冊封から離れる旨、文帝に仁義をきって“政権移譲”のかたちで、7世紀頭に九州倭国と畿内国を合併させ、統一大和を成立させたのです。
One-Point ◆ その後“倭国王”由来の蘇我氏から「乙巳(いっし)の変」(645年)によって政権を奪取したものの、「白村江の戦い」(663年)の大敗北と「壬申の乱」(672年)の敗北で政権を失います。新たに天武政権が誕生し、その正統性を示すバックボーンとして記されたのが『日本書紀』です。
※第40代天武天皇の皇統は、第48代称徳天皇までで途絶えます。次の第49代光仁天皇以降は、天智系の皇統に戻ります。
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