宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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↑女山(ぞやま)の神籠石。
●第1稿 2024年 8月16日 アップ。
マニアックな古代史の内容です。
北部九州をメインに「神籠石」(こうごいし)と呼ばれるナゾの遺跡群があります。
天智大王(てんじ おおきみ)こと中大兄(なかのおおえ)が主導した「白村江の戦い」(663)に大敗して、日本防衛のために北部九州から瀬戸内沿岸部に築かれた「朝鮮式山城」とは別の築造物です。
土器などがほとんど出土していないために築造年代は不明で、何のために築られたのかもハッキリしておらず、『日本書紀』にも記されていないため、学者先生が何を言おうと憶測の域を出ない歴史的遺物です。
その一つもしくは幾つかを実際に登ってみたりした体験から、私見を述べてみようと思います。
「神籠石」(こうごいし)という言葉に深い意味はありません。
第一、何のために築造されたものか分からないのに、適切な名前を付けることはできません。
ただし、何か名前をつけておかないと特定することができないために、とある伝承に基づいて「神籠石」と名づけたものです。
ぶっちゃけて言えば、四角く加工した石を積み上げて並べた築造物を総称して「神籠石」と呼んでいます。
そのため、学者先生が「神籠石」と呼ぶ築造物の用途は、それぞれに異なっており、だからこそ逆に何のために作られたものか判然としないので頭を抱え込むことになります。
にもかかわらず、一部分のみの特徴から、彼ら特有の「闘争史観」に基づいて“山城”(やまじろ)と決めつけようとしています。
実際は、見張り所を兼ねた通信台だったり、古代の暦を知る天体観測台だったり、貯水用や鉄砲水また土石流防止の砂防堰堤(さぼうえんてい)だったりと、いろいろとあるのです。
ですが、築造様式が一様に古代の“四角い石組”で同じであることから、「神籠石」と呼称し十把一絡げに“古代山城”と決めつける“おそ松くん”(古ッ)ぶりです。
One-Point ◆ たとえば、畿内ヤマトの勢力が瀬戸内海西端の中津市(大分県)辺りから、発見例で日本最古の豪族居館跡が確認されている日田市を経て、筑後川沿いに筑後平野へ出る直前に「杷木(はき)神籠石」が旧朝倉街道沿いに残っています。
「神籠石」という名称は、筑後平野に突出し、古代の要衝となっていた高良山(こうらさん)に由来します。
高良山は、日田方面から太宰府方面へ連なる耳納(みのう)連山の最西端に位置し、中腹には筑後国一ノ宮「高良大社」が標高312メートルの位置に鎮座しています。
ご祭神は「高良玉垂命」(こうら たまだれの みこと)、「八幡大神」、「住吉大神」です。
社伝では、「高木神」こと『日本書紀』に皇祖と記される“タカミムスビ”がいたのですが、高良玉垂命が一夜の宿を願い高木神が譲ると、結界を張ってそのまま籠ったという由来が残ることから、「神籠石」と名づけられたことが学会で発表されています。
1898年(明治31年)に初めて学会で発表されたもので、築造は古い(不明な)のですが、認知されはじめたのは近年です。
One-Point ◆ まだ充分に研究は進んでいません。というか、日本書紀史観に偏した一部の学者や歴史家ではご判断できません。なぜなら「城柵」(きかく)とはかぎらず、『日本書紀』など文献に残らないからです。
●「神籠石」の命名に由来する高良大社の主祭神は「高良玉垂命」(こうら たまだれの みこと)です。
『日本書紀』にも『古事記』にも出てこないため、諸説があり、ハッキリしていません。
江戸時代は「武内宿禰」(たけのうちの すくね)の説が有力だったようですが、明治以降は特に比定されていないとのことです。
「玉」といえば「山幸彦と海幸彦」の物語で、海神の娘豊玉姫からもらった「潮盈珠」(しおみつたま)」と「潮乾珠」(しおふるたま)が有名です。
海神は「大綿津見神」(おおわたつみのかみ)のことです。
一方、神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉「潮干珠」(しおひるたま)と「潮満珠」(しおみつるたま)の伝説もあり、いずれも海人族にかかわります。
日田市内には「玉垂社」とも「黒男殿社」とも呼ばれる小さな古社がありますが、“黒どん”(黒殿)といえば、住吉大神ともいわれる“武内宿禰”のことです。
では、改めまして「神籠石」とは何なのでしょうか。
重要なヒントは、九州北部や瀬戸内海沿岸部にある「朝鮮式山城」は『日本書紀』に明確に記されているのですが、「神籠石」の記述は『日本書紀』はもちろん文献に残っていないことです。
一部の学者が斉明天皇の4年の条に「城柵を繕修い」とあることから、これが“神籠石”のことだと指摘していますが、そうであったとしても“修繕”するくらいですから以前からあった築造物になります。
誰が何のために作ったのか、『日本書紀』や文献に記述がないことが、なぜヒントになるのでしょうか。
『日本書紀』は、7世紀に早急に全国をまとめて「統一大和」を建国する必要から記された“プロパガンダ”の書であることが、明確にご認識できれば簡単に分かります。
“プロパガンダ”が悪いのではなく、当時の日本のために絶対に必要なもので、ただ史実を記した歴史書などではなく、都合の悪い各地の記録は処分させ、『日本書紀』の記述に沿うように地名なども勅命によって変えさせられています。
つまり“プロパガンダ”のために「卑弥呼」や「邪馬台国」などと同じように、“神籠石”の存在も無視する必要があったのです。
One-Point ◆ 『日本書紀』が隠したのは、大国主の古代国づくりや物部王国また四国阿波など“国譲り”にかかわるものだけではありません。最大のものは、大陸に近く当時の最先進国で「冠位12階」なども定めていた「九州倭国」の存在にかかわるすべての事物です。
『日本書紀』が創作した紀元前660年からの初代「神武天皇」による当初からの独立統一国家「大和」の建国神話を信じたら、決して史実は見えてきません。
フェニキア人による、ソロモン王のタルシシの船団によって、最初の古代イスラエルの影響が紀元前10世紀頃に日本にありました。
それは事実ですが、『日本書紀』に記される“国を治める君たる者”“三貴子(みはしらのうずのみこ:天照大神、素戔嗚尊、月読尊)”などの神話は、史実を元に創作されたものだとしても、1世紀以降の出来事であって“神代”とされる紀元前からの出来事ではありません。
古代では「漢委奴国王」の金印で知られる九州北部に“漢に従属する奴隷国王”と蔑視された通称「奴国」が文献で認められています。
のちの『旧唐書』には、「倭国は古の倭の奴国なり」と記され、『翰苑』(かんえん)の逸文に残る「馬臺」(またい)が「魏志倭人伝」で「邪馬台国」と書き換えられます。
One-Point ◆ 7世紀初頭に畿内国と合併して大倭(のちの大和)を築いた九州倭国は、隋王「文帝」に冊封下から離れる旨を伝えます。合併後、阿毎多利思北孤(あめのたりしひこ)は2代目「煬帝」(ようだい)に、「日出処の天子」と事実上の独立宣言を行なっています。
「魏志倭人伝」の資料となった、『翰苑』(かんえん)に残された逸文には「馬臺」(またい)と記されています。
3世紀の「魏志倭人伝」の著作郎「陳寿」は、これに「邪」の字をつけて「邪馬臺國」(邪馬台国)と記します。
厳密には、「臺」(台)の字は皇帝の“政庁”などを表わすことから、よく似た「壹」(壱、一)の字をあてて「邪馬壹國」(邪馬壱国)と魏志倭人伝には残しています。
ですが、陳寿以外の歴史家らは、もともとは「馬臺」ゆえに「邪馬台国」と訂正し、「壱与」(いよ)も、『翰苑』の逸文には「臺与」(とよ)と明確に記されていることから、「台与」と今日に正しく伝えています。
なぜ「邪」の字かというと、卑弥呼は「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と「魏志倭人伝」に記されていることから、“死者の霊魂がもたらす災い”や“害をなす妖怪(霊)”などの意味を持つ「邪」(ヤ)を「馬臺」の頭に付けたものです。
ところが、卑弥呼に関して逸文は、最初から「卑弥娥」(ヒミガ)なのです。
卑弥呼が用いた「鬼道」は、中国で「鬼城」といえば、人の住んでいない“ゴースト・タウン”をさすことから、「鬼」は“ゴースト”(幽霊、死者など)を意味します。
つまり、「鬼道」とは、“霊言”や青森の「いたこ」の“口寄せ”などのように、託宣や神託などのことです。
一方、卑弥呼の本来の「ひ」は、高皇産霊尊(たかみむすひの みこと)からも分かるように、「霊」のことで、ついでに記せば、“天照大御神”は7世紀の『日本書紀』によって“女性神”に変えられており、もともとは男性神なので、2〜3世紀の「卑弥呼」と同一人物ではありません。
お話を戻しますと、「神籠石」は「奴国→邪馬台国→九州倭国」にかかわる築造物ゆえに、当初からの独立統一国家「大和」をうたう『日本書紀』は、決して記すことができない九州倭国の築造物だったのです。
One-Point ◆ さて、どれくらいの方が首肯して下さるのでしょうか。もっとも、古田武彦氏らは「九州王朝説」を唱えています。反目する史学界が権威上認めないだけで、「古田史学」を支持されておられる方は推察済みの「神籠石」でしょう。
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