宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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↑蘇我馬子の墓とされる奈良県高市郡明日香村の「石舞台古墳」
●第1稿 2024年 8月24日 アップ。
物証はありません。
なくて当然ですので、状況証拠からの大胆考察になります。
結論的に、本名ではありませんが「蘇我馬子(馬古)」は、九州倭国王で『隋書』に記される「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王(おおきみ)か、その縁者になります。
そうすることで、おかしな記述がある『日本書紀』と『隋書』の辻褄がピタリとあって、すべての謎が矛盾なく解けます。
信じられないのは無理はありませんが、日を追うごとに確信を増してきたので、“分水嶺の”ピークにあたり一筆したためておくことにしました。
最初に疑問を持ったのは、『日本書紀』に次のように記されていたことです。
●『日本書紀』推古天皇紀より抜粋
(推古34年):夏5月20日、馬子大臣が亡くなった。(中略)その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣(しまの おおおみ)といった。
「へぇ~。邸宅に小さな池があって、さらに小さな嶋が築かれていただけで、“嶋大臣”と呼ばれた?」
推古女帝の時の「大臣」がねぇ…。
当時の「大臣」(おおおみ)と言えば、現代の役職では「総理大臣」以上の権力者です。
この書き方は『日本書紀』がやむをえずウソを記さなければならないときに、わざと“疑問”を持つようにしむけて、事実を推し図ってもらうときの独特の言い回しの一つなのです。
推古女帝がご即位された元年の条にも、「夏4月10日、厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とされ、国政をすべて任せられた」と記されています。
辣腕の蘇我馬子大臣がいるのに、“国政をすべて任せられた”19歳の“摂政”に?
ちなみに、当時は「摂政」という役職はまだありませんでした。
これもウソで九州倭国から来た蘇我馬子の偉大な業績を徹底的に隠さなければならなかったのが、『日本書紀』だからです。
One-Point ◆ 「嶋大臣」と呼ばれたのは事実でしょう。なぜなら、北部九州に当時あった「嶋郡」(しまのこうり)が本拠地だったからかもしれません。というか九州倭国自体が「筑紫嶋」であって、そこから自ら吸収合併されるかたちで乗り込んで来たからです。
「嶋郡」(しまの こうり)は、魏志倭人伝に「世々王あり」と記される一大卒が置かれた「伊都国」(糸島半島)にありました。
東京からの移住者が多い福岡県西部の糸島市の界隈で、前原市と糸島郡二丈町また志摩町の1市2町が2010年に合併して誕生した山と海に隣接した良い場所です。
「魏志倭人伝」の元資料となった「魏略」の逸文が『翰苑』(かんえん)に残っていますが、そこには次のように記されています。
●『翰苑』より引用
憑山負海 鎮馬臺 以建都
読み下し:山につき、海をおい、馬臺(またい)を鎮め、もって都を建てる。
かつて「伊都国」があった現在の糸島市を形容するのにピッタリの「憑山負海」で、そこに“都”があり、卑弥呼が都とした「馬臺」国こと「邪馬台国」を倭国大乱の前に鎮めていたという一文で、今日でいう京都が“馬臺”で、東京が“伊都国”という感じです。
One-Point ◆ 九州北部が蘇我氏の本拠地です。平安時代中期の『和名抄』(和名類聚抄、倭名抄)には、当時は糸島まで含まれていたと思われる「筑前国早良郡」(福岡県西部)の条に「蘇我」の郷名が記されています。今は残っていません。
第43代「元明天皇」(第42代文武天皇の母)の詔によって、当時、約60か国に地名の由来などを撰進させた「風土記」があります。
現在「風土記」は5か国しか残っていませんが、『日本書紀』を編纂する過程で参考にすると同時に、真の目的は完成した『日本書紀』に沿うように地名を変えさせるためです。
たとえば、福岡県東部(筑前)と大分県北部(豊前)の県境に「英彦山」(ひこさん)があります。
元々は天孫降臨のいわれが残る「日子山」と呼ばれていたのです。
『日本書紀』が完成する前年の819年に、詔によって「彦山」に変えられ、1729年に霊元天皇の院宣によって現在の「英彦山」に改名されています。
一例ですが、『日本書紀』の記述に沿うように、現宮崎県も北部九州にあった「日向」に改名するなど、とくに蘇我氏ゆかりの九州倭国にかかわる地名は変えさせられ、蘇我氏の本拠地が「越」などかのように分からなくさせられています。
One-Point ◆ 後年、遺跡の発掘など考古学が発達してくると『日本書紀』の作話は大バレです。ですが不思議なもので、初代「神武天皇」からの日本書紀史観を信じている“賢いはず”の学者や研究家は多いのです。
いいんですよ。
日本書紀史観を信じても。
そこに日本の“天運”が働くシステムになっていますので、それ自体は良いことです。
“天運”的には良いことなのですが、「史実」だと考えて古代史を『日本書紀』の記述を信じて考察すると大きく見誤ります。
『日本書紀』編纂直前の時代は、「丁未の乱」(587)、「乙巳の変」(645)、「白村江の戦い」(663)、「壬申の乱」(672)と立て続けに戦乱が起きており、“戦争の世紀”と呼ばれた20世紀と見紛うほどの戦さの時代です。
その直後に編纂された『日本書紀』も、統一国家「大和」は戦争によって建国されたかのように記されます。
当時の大陸など国際情勢を鑑みれば仕方がないのですが、古代日本は平和裏に“国譲り”が行なわれ“ヤマト王権”(カタカナの「ヤマト」はここでは6世紀以前、九州倭国と合併前の畿内国)が誕生していきます。
One-Point ◆ 初代「神武天皇」による“国譲り”を記しながら、「大和」建国のプロセスは編纂直前の時代に鑑み、“戦い”の『日本書紀』です。銅鐸祭祀文化の“ヤマト王権”と「武」で表記される鉄剣文化の「九州倭国」の合併は戦争ではないはずです(丁未の乱を除く)。
隋の2代目「煬帝」(ようだい)に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや云々」と国書を送った倭王の姓は「阿毎」(あめ=天)、名は「多利思比孤」(たりしひこ)、号して「阿輩ケ彌」(あほけみ=おおきみ:大王)は、創作された“聖徳太子”では決してありません。
もちろん男王なので「推古女帝」でもありません。
正体は「九州倭国王」です。
『隋書』の「日出処天子…云々」が記される直前には、(阿毎多利思比孤の土地には)「阿蘇山あり」という一文があり、のちの『新唐書』にも、次のような一文が残されています。
●『新唐書』より抜粋
「その王の姓は阿毎氏、(中略)筑紫城に居す」
筑紫は北部九州、現在の福岡県界隈です。
「日出処天子」と国書を送った阿毎多利思比孤大王はまぎれもなく九州倭国王でした。
畿内国(ヤマト王権)との合併を行なったゆえ“日出処天子”と書にしたためたもので、“嶋大臣”と呼ばれた『日本書紀』でいう蘇我馬子です。
『隋書』の記述を鑑みれば、阿毎多利思比孤大王は“兄”に当たるのかもしれません。
One-Point ◆ 初代「神武天皇」による当初からの「大和」一国とする『日本書紀』が、決して表にすることができない史実です。律令国家を築いた統一大和が隠蔽に成功したのが「九州倭国」であり「蘇我氏」の出自です。
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