宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―

天武天皇の即位を読む
[古代史解明20]
― 時間不明のホラリーでも可能 ―

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事実上の「万世一系」となる即位のソーラーチャート

↑画像は平成の大嘗祭の天皇の“白妙の衣”。7世紀後半の天武天皇の時代から歴代の天皇が即位後に「大嘗祭」を行うことが皇室の伝統となっている。


●第1稿 2024年10月 7日 アップ。


日本の“天運”は天武天皇、持統天皇、舎人親王+藤原不比等、文武天皇による事実上の「万世一系」によってはじまります。

『日本書紀』の最後に記されている「持統天皇」から孫の「文武天皇」への譲位が神話上の結論であり、事実としてのはじまりです。

譲位の地は、大和三山の一つ香久山(かぐやま)がある「橿原」(かしはら)で、『日本書紀』には“紀元前660年”に初代「神武天皇」がご即位されたのが橿原であると記されます。

高天原の「天照大御神」から孫の「瓊瓊杵尊」(ににぎの みこと)の天孫降臨によって「万世一系」の皇統がはじまったと神話上は記されます。

史実は、「高天原広野姫天皇」(たかあまのはら ひろのひめの すめらみこと)こと「持統天皇」から14歳の孫「天之真宗豊祖父天皇」(あめのまむね とよおおじの すめらみこと)」こと「文武天皇」への譲位によってはじまり、今日まで続いています。


《 天武天皇ご即位のソーラーチャート 》

少し、奈辺の事情を振り返ってみましょう。

兄「天智大王」の子「大友王子」(追諡:弘文天皇)と、弟「大海人王子」(おおあまのおうじ、後の天武天皇)の身内どうしの大王位をめぐる戦いが、日本を二分した古代最大の内乱「壬申の乱」(672)です。

勝利した大海人王子は天武2年2月27日にご即位されます。

今日の日付に直すと、673年3月20日です。

そのときのソーラーチャートが下図です。


●時間は不明なので当日の日の出の時刻によるイコール・ハウスシステムです。

One-Point ◆ ソーラーチャートでのホラリー・ホロスコープゆえ“無謀”は承知です。ただし、ASC(Ascendant:アセンダント=上昇点)などのハウス(室)は不明ですが、動きの早い「月」を除いてアスペクト(位相、座相:局面)は通常のホロスコープと変わりません。


《 二度と皇位争いを起こさない 》

「壬申の乱」は、吉野に隠棲していた“叔父”の大海人王子(天武天皇)側と、近江朝のTOP“甥”の大友王子(追諡:弘文天皇)側との戦いです。

戦に勝った大海人王子の妻(後の「持統天皇」)からみれば、“夫”と“弟”との戦いです。

政治権力から離れた大海人王子を、近江朝の大友王子が襲撃する様子がうかがえたため、戦うことを決意し不破の関を封鎖することを指示すると、養育された尾張に向かい作戦本部としています。

結果、大分君(おおきだのきみ)らの大活躍があって勝利した大海人王子ですが、嬉しいでしょうか?

負けて自害した大友王子はかつて知ったる“甥”であり、妻の“弟”です。

大海人王子こと天武天皇は、自分の皇子たちのみならず大友王子の兄弟たちすなわち天智大王の王子たちをも腕に抱き、「千年後までも二度と皇位争いを起こさない」と吉野で誓います。

One-Point ◆ 事実上の「万世一系」への決意です。『日本書紀』にそんなことは書けません。なぜなら、初代「神武天皇」から続く“万世一系”かのように、天皇による治世の正統性を創出しているためです。



日本の“天運”の立役者たち

●史実としての「万世一系」は、天武天皇によってはじまります。

その意志と承諾が「吉野の盟約」です。

実体的には、天武天皇が崩御したのち、リリーフとして即位された持統天皇のご譲位によって成し遂げられます。

14歳になった孫の成長を待って“祖父天皇”として即位された「文武天皇」から歴史上の「万世一系」ははじまります。

神代から続く天皇の御世として創作し描いたのが『日本書紀』で、天武天皇の第六皇子「舎人親王」を編纂の総裁に、持統天皇の最側近となっていた天才「藤原不比等」が事実上の企画発案者となっています。

これらの人々が「万世一系」に伴なう日本の“天運”の立役者です。


《 持統天皇の御歌 》

奈辺の事情を詠んだ持統天皇の有名な歌があります。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の衣干すてふ 天の香具山 (百人一首:新古今集)

(万葉集では…春過ぎて 夏来たるらし 白妙の衣干したり 天の香具山)

原歌は「春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山」で、訳としては「新古今集」のほうが正確で、この歌の本当の意味は次のとおりです。

夫「天武天皇」と新しい国づくりを行ない、天武病床のみぎりには息子の皇太子「草壁皇子」と一緒に大宝律令の原案作りなど政を行なった“春”の日々は、天武天皇の崩御と草壁皇子の夭折で終わった。

こうなれば、自ら天皇として即位すべき“夏”が来たようだ。

今はまだ幼い孫の「珂瑠皇子」(かるのみこ:後の文武天皇)に、あらたえの“衣”を供える即位式を行わせるため。

この歌には、何としてでも「万世一系」を定着させ「千年後までも皇位争いをなくす」という天武の遺志を継ぎ、自らその橋渡しとなって実現させようとする決意があらわされています。

「香久山」は、珂瑠皇子へご譲位された藤原宮があった橿原の地に位置し、『日本書紀』では初代「神武天皇」がご即位された場所(橿原)と記され政治的権威を象わす山です。

山頂には天地開闢の際の最初の神(『日本書紀』)「国常立尊」を祀る「国常立神社」が鎮座していることからもそれが分かります。

そういったご神域ともいえる山に洗濯物を干すことなどありえません。

「白妙の衣」というのも洗濯物ではなく、ご即位(大嘗祭)の際に供えられる麻の織物「麁服(あらたえ)」を象わします。

そういった意味があるため「香久山」(現在の名称)ではなく「天の香具山」(古代に使われた名称)と“天の~”を付けて詠まれています。

One-Point ◆ 珍説をご紹介いたしましょう。“持統天皇が庶民と一緒に洗濯したものを干した歌”だというものです。現代の天皇ではないし、「皇親政治」を行なった天皇の后です。自ら洗濯することもなければ、神聖な山に干すことなどもありません。


●橿原にある藤原京跡からみた「香久山」(かぐやま)。山頂には「国常立神社」がご鎮座まします。



《 上掲の「ソーラーチャート」の解説 》

上掲のご即位の日のソーラーチャートからもそのことが分かります。

「宝瓶星学」では、日の出の時刻でソーラーチャートを作成します。

日本の“天運”が決定した日ゆえに、このソーラーチャートには“天意”が見てとれます。

まず、「冥王星&木星」の合(コンジャクション=0度)です。

これだけをリーディングしても、経済的には“大金持ち”で大金運です。

政治的には“トップ・オブ・キング”や“将に将たる皇帝”、大王を超えた初の「天皇」に相応しい合=0度のアスペクト(位相、座相:局面)です。

それにとどまりません。

「月」と「火星」を交えて大三角(グランドトライン=120度×3)を形成し、さらには「太陽&土星&天王星」を尻尾として、とてつもない大三角凧(トライン・カイト=120/120/60/60度)を形成しています。

詳しい解釈は省きますが、結論的に述べますと“子(月)への現実的(土星)な皇位継承の意志(火星)”すなわち「万世一系」の定着に向けた天皇のご即位を象わします。

One-Point ◆ 持統天皇は、天武が皇子らと共に誓った吉野に31回も行幸しています。平安時代になって「淡海三船」(おうみの みふね)が漢風諡号を定めるに際して、“持統”と名づけたのは「万世一系」の皇統に命がけで取り組んだ天皇ゆえです。




《 上掲のチャートの「月」は“皇子”を象わす 》

事件や事故などを読むホラリー・ホロスコープは、“何時何分”といった時間が分からなければ無理だとされます。

日常の些細なことは確かにそうなのですが、“国体”の形成や“天運”を決する歴史的に重要なイベントの場合、例外があります。

なぜなら、4つの基本点や動きの早い「月」は別ですが、アスペクト(位相、座相:局面)は、その日一日ではほとんど変わらないためです。

とくに、特徴的なアスペクトが形成されている時期は、そこをメインにしたホラリー・リーディングが可能です。

上掲のソーラーチャートも同様で、“感性”や“感受性”など一般に“感情”を象わすとされる「月」が“子供”、最高のTOPを象わす「木星&冥王星」に上三分(アッパー・トライン=120度)の「月」ゆえに、この場合は天武の“皇子”や“子孫”(皇統)を象わします。

One-Point ◆ もう一つ、「冥王星&木星」や「月」と三分(トライン=120度)をとってスムーズな象意の関係性を結んでいる「火星」は、強力な意志やアクティブな行動力を象わします。「こうあるべき」という強い想いで「万世一系」を成し遂げる決意を象わしたものです。






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